悪い友達
月曜日、午前九時三分。
「水瀬さん! ゴージャスです!」
電話の向こうで、松谷の声が弾けた。
『デンジャラス幕の内、ザ・ペンデュラム! 大反響です!』
「……本当ですか?」
『社内で試験販売をしたところ、予想以上の希望者が出ました。来月から月十回、一回百食を目安に継続発注したいのです!』
紗季は電卓を開いた。
二千三百円。百食。月十回。
月間二百三十万円。
「……二百三十万円」
『ノン、ノン! お金だけではありません。デンジャラスとゴージャス。響き合う二つの魂が、ついに社会と共鳴したのです!』
何を言っているのかは、分からない。
それでも紗季の目から、ぽろりと涙が落ちた。
断られて、断られて、断られて。
最後にたどり着いた会社だった。
『……水瀬さん?』
「あ、すみません。嬉しくて」
『涙は美しい。ですが私、涙を拭うハンカチは必ず新品と決めておりまして……』
「大丈夫です。自分のを持ってます」
紗季は笑いながら目元を押さえた。
その日、アオバ企画の役員会で、試験導入の条件調整と、紗季の特別功労表彰が決まった。
午後一時。
会議室の前方に、表彰状が置かれていた。
「水瀬さん、こちらへ」
神宮司部長に呼ばれ、紗季は震える足で前に進んだ。
ついこの間まで、同じ場所で弁当の中の気味の悪い手紙を広げ、ハラスメントを訴えていた。
今日もここへ来るのが怖かった。
けれど、神宮司は穏やかに言った。
「あなたは、自分の担当外の業務を任されました。十分な資料も、準備期間もない中で、新たな取引先にたどり着いた」
紗季は俯いた。
「成果だけを見れば、大口の継続取引につながる営業機会を作ったことです。ですが私が特に評価したいのは、断られても投げ出さなかったことです」
会議室が静かになった。
「水瀬紗季さん。お疲れさまでした」
差し出された表彰状を、両手で受け取った。
拍手が起きた。
一人、また一人。
営業部長も、総務の社員も、あの受付の女性も。
後方では、しんじが誰よりも大きく拍手していた。
紗季は思わず笑った。
頬に、温かいものが伝った。
これまで、何をしても悪く言われた。
何もしていないことまで、自分のせいにされた。
それなのに、今日は違う。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
「私、仕事ができないのかなって……ずっと思っていました」
視界がにじむ。
「でも、今日だけは、自分のことを少し褒めたいです」
拍手がもう一度起きた。
黒田だけが、手を叩いていなかった。
「少し、僕からもよろしいでしょうか」
会議室の扉から、青年が入ってきた。
三十歳前後。地味な紺色のスーツに、磨かれた革靴。髪は短く整えられ、姿勢がよい。
後ろには黒服の男性が二人いたが、青年自身は驚くほど普通だった。
「デンジャラス弁当配達社の大河内翔太です」
グループ本体の社長の息子。
赤字続きの弁当会社を経営する、例の若社長だった。
大河内は深く頭を下げた。
「水瀬さん。本当にありがとうございました」
紗季は慌てた。
「いえ、そんな……」
「うちは、新しい商品を出すたびに断られてきました。社名を聞いただけで笑われることもあります」
大河内は苦笑した。
「デンジャラス弁当ですから。仕方ないですよね」
社員たちから、小さな笑いが漏れた。
「でも水瀬さんは、うちの商品を持って、何社も歩いてくださった。商売って、そうやって誰かが一歩を踏み出してくれないと始まらないんです」
紗季の胸が熱くなった。
「社員にも伝えます。あなたが、この注文を連れてきてくれたことを」
大河内は微笑んだ。
普通の、感じのよい青年だった。
誰かが後方で囁いた。
「あの会社、ずっと赤字なのに、配送車だけは増えてるらしいな」
「親会社が面倒見てんだろ」
「……夜間の便もあるって聞いたけど、弁当屋なのにな」
囁きはすぐに止んだ。
紗季には、話の意味が分からなかった。
大河内は名刺入れを取り出した。
「水瀬さん。これは僕の直通番号です」
裏に携帯番号が書かれた名刺を渡す。
「仕事のことでも、そうでないことでも。何か困ったことはありませんか」
紗季は顔を上げた。
「……困ったこと、ですか」
「はい。あなたには助けてもらいましたから」
脳裏に、しんじの机が浮かんだ。
油で汚れた引き出し。
押しつけられた仕事。
黒田と真知岡の笑い声。
——助けてください。
そう言いかけた。
だが、会議室の端に黒田がいた。
じっと、こちらを見ている。
「……今は、大丈夫です」
紗季は答えた。
大河内は少しだけ間を置き、頷いた。
「分かりました。でも、困ったら遠慮なく」
名刺を受け取る紗季の指に、わずかに力が入った。
会議が終わる頃、大河内の黒服の一人が耳元で何か囁いた。
青年は、初めて笑顔を消した。
「……その荷物、昼の配送記録には載せないで。あとで僕が確認する」
低い声。
紗季が振り向いたときには、もういつもの穏やかな表情に戻っていた。
「では、また。水瀬さん」
廊下で、黒田に呼び止められた。
「おい、水瀬ちゃん。今日は主演女優賞だったなあ」
「……ありがとうございます」
「泣く演技までつけちゃって。いやあ、俺、感動しちゃった!」
黒田は胸を押さえ、わざと鼻をすすった。
「ぐすっ。私、頑張ったんですぅ。……で、監督の俺はどこで表彰されんの?」
紗季は答えなかった。
「そもそもお前を営業に出したの、誰だっけ?」
「……係長です」
「正解! でも表彰状はお前。変な会社だよなあ!」
黒田は笑って、声を落とした。
「たまたま一回当たっただけで、自分が特別だと思うなよ」
紗季は表彰状の筒を握った。
「……私は、そう思っていません」
「は?」
「でも、今日の仕事を、なかったことにはされたくありません」
黒田は目を見開いた。
次の瞬間、気味の悪い笑顔に戻った。
「おおっ。受賞したら急に偉くなった! 怖いねえ、女優さんは!」
紗季は頭を下げ、歩き出した。
背後で黒田が呟いた。
「……誰がしゃべっていいって言ったんだよ」
しんじの受けている仕打ちは、日に日に増えていた。
朝は通常業務の山。
昼にはデンジャラス幕の内の飛び込み営業。
戻れば、真知岡が選んだ「特別クレーム」の電話が待っていた。
『唐揚げが左に入ってた。俺は右利きなんだぞ!』
『冷めてるから温めたら熱すぎた! 誠意を見せろ!』
『食べ終わったが返金しろ。腹が立ったからだ!』
返金の決裁権もないしんじは、ただ謝り、事実を確認し、担当部署につないだ。
二時間の残業を終えると、真知岡が新しい資料を置いた。
「佐井賀。今日中な」
「もう定時を過ぎています」
「お客さんは定時で困るのやめてくれんの?」
背後で黒田が笑った。
「おお、出た! 残業したくない正義の味方! 水瀬を守る時間はあるのになあ!」
翌朝には、引き出しにまた漬物が詰められていた。
しんじは写真を撮り、総務へ報告した。
だが、すぐに事態が変わることはなかった。
「……なんで、こんなことに」
紗季は汚れた机を見つめた。
しんじは疲れた笑顔を作った。
「平気。気にすんな」
嘘だ、と紗季には分かった。
大河内の名刺が、ポケットの中にあった。
助けを求めれば、何かが変わるかもしれない。
でも、親会社の社長の息子に頼るなんて、大ごとになりすぎないだろうか。
紗季は名刺を握りしめたまま、何もできなかった。
午後七時三十分。
駅前の居酒屋。
「ここ、何でもうまいよ」
蓮は慣れた様子でメニューを開いた。
「大トロ。和牛の炙り。伊勢海老の刺身。それから、この季節のおすすめ全部」
店員が目を丸くした。
「……お二人様で?」
「うん。足りなかったら追加する」
紗季は慌てた。
「レンさん! それ絶対、高いですよ!」
「いいじゃん。今日はお祝いだろ」
「でも、お金……」
蓮は笑った。
「気にしなくていいよ」
差し出したのは、大量の現金だった。
紗季はその手首に、見覚えのない高級時計が光っているのを見た。
公園で缶チューハイを飲み、煙草をポイ捨てしていた男と、同じ人物には見えなかった。
「……何の仕事してるんですか?」
「いろいろ」
「またそれ」
「今日は紗季ちゃんの表彰の話を聞く日」
蓮はグラスを上げた。
「おめでとう」
グラスが軽く触れ合う。
紗季は、会社で表彰されたときのことを話した。
神宮司の言葉。
しんじが拍手してくれたこと。
黒田が悔しそうだったこと。
「……私、初めて自分を認めてもらえた気がしたんです」
蓮は笑わなかった。
「それ、よかったじゃん」
「はい」
「ほんとに頑張ったんだね」
その一言で、また泣きそうになった。
「……でも、しんじが」
紗季は、しんじへのいじめを話した。
蓮は箸を止めた。
「元彼なんだっけ」
「うん。今も友達で。私のこと、ずっと助けてくれて」
「いいやつなんだね」
「……なのに私、助けられなくて」
蓮は大トロの皿を紗季の前へ寄せた。
「まず食べなよ。泣くのは、そのあと」
紗季は思わず笑った。
「何ですか、それ」
「高いから、冷める前に」
「お刺身は冷めません!」
二人で笑った。
気づけば、グラスは三杯目だった。
「黒田、本当に嫌い」
紗季ははっきり言った。
蓮は嬉しそうに笑った。
「いいね。前よりずっと言えるようになった」
同じ頃、東署刑事課。
森田は、バーの映像と一枚の写真を並べていた。
「……似ているな」
若い刑事が頷いた。
「別の殺人事件で、関係者として名前が出ている男です。通称はレン」
「本人の身元は?」
「まだ裏付けが取れていません。ただ、被害者が亡くなる直前、この人物らしい男と接触していたという証言があります」
「殺した証拠は?」
「ありません」
森田は写真を裏返した。
「なら犯人扱いするな。まず同一人物か確かめる」
「はい」
その事件は、まだ報道されていなかった。
そして紗季は、目の前の男に警察の捜査が近づいていることを知らなかった。
午後九時四十分。
ビリヤード場のドアを開けた瞬間、怒鳴り声が飛んだ。
「おっせえんだよ、レン!」
五人がいた。
首まで刺青の入った巨漢、タツヤ。
鼻と唇にピアスをした細身のユウキ。
無口で目の据わった坊主頭のゴウ。
赤髪に厚底ブーツのミカ。
夜でもサングラスを外さないジュン。
「おっ、女連れ!」
「おいレン、紹介しろよ! 聞こえねえぞ!」
タツヤの声は店内に響き渡った。
ユウキは灰皿のない場所で煙草を吸い、床に灰を落としていた。
飲み終わった缶を背後へ投げる。
ガラン、と別の台の脚に当たった。
ゴウは床に唾を吐いた。
ミカは笑いながら、店員が注意しに来る前に煙草を踏み消した。
「……ここ、禁煙じゃないんですか?」
紗季が囁くと、レンは苦笑した。
「だよね。お前ら、少しは店のルール守れよ」
「レンに言われたくねえ!」
全員が笑った。
紗季は、その笑い声に圧倒された。
怖い。
でも、何だろう。
彼らは、誰の顔色もうかがっていない。
会社の中では、紗季がずっとできなかったことだった。
「紗季、やってみな!」
ミカにキューを渡される。
初めてのショットは、手球をかすめただけだった。
「弱っ! 蚊が止まっても動かねえぞ!」
タツヤが腹を抱えた。
「うるさいなあ!」
紗季はつい言い返した。
一瞬、全員が黙った。
そして。
「おおっ! 言った!」
一斉に大笑いした。
紗季も笑った。
黒田になら、絶対に言えない言葉だった。
午後十時三十八分。
隣の台の若い男が言った。
「おい。うるせえんだよ、お前ら」
タツヤが振り向いた。
「……あ?」
「煙草も消せよ。ここ禁煙だろ」
正しい注意だった。
だがタツヤは、その男の顔に煙を吐きかけた。
「何? 風紀委員?」
若い男がタツヤを突き飛ばした。
それが合図になった。
「テメェ!」
ユウキが台の球をつかんだ。
**ゴッ!**
硬い球が勢いよく飛び、相手の肩を直撃した。
悲鳴。
倒れかけた男を、ゴウがつかまえる。
「おい、やめろ!」
店員が叫んだ。
タツヤがキューを振り回し、カウンターの縁が砕けた。
若い男女が出口へ逃げようとする。
しかし、そのうち一人が床に押さえつけられた。
「ご、ごめんなさい!」
男の声が裏返る。
ユウキは笑っていた。
「遅えよ」
ゴウがビリヤードの球を男の口に押し込んだ。
「やめて! お願い!」
隣にいた女性が泣き叫ぶ。
次の瞬間、ゴウが跳んだ。
**ドガッ!**
飛び膝が男の口元を直撃した。
鈍い音。
床に散る白い欠片。
男は口元を押さえ、声にならない声を漏らした。
「歯が……! 歯が全部……!」
女性が叫んだ。
紗季は動けなかった。
店内に、血の匂いと悲鳴が広がる。
さらにタツヤがキューを膝でへし折った。
折れた先端を相手へ向ける。
「次、誰だよ」
「やめて! もうやめてください!」
店員は震える手で電話をかけていた。
「警察ですか! 人が大けがしてます! 救急車も!」
ミカは恐怖で固まった紗季の肩を抱いた。
「こっち来な。見なくていい」
それなのに、ミカの口元は笑っていた。
蓮はずっと、少し離れた場所で見ていた。
そして、短く言った。
「……もういい」
ゴウの動きが止まった。
タツヤが振り向く。
「でもよ、レン!」
「もういいって言ったろ」
蓮は、少しだけ声を低くした。
それだけだった。
さっきまで暴れていた男たちが、黙って道を開けた。
紗季はその光景を見ていた。
恐ろしかったのは、乱闘だけではない。
**あの五人が、蓮の一言だけは聞くことだった。**
「……行こう」
蓮が紗季に手を差し出した。
その手を、紗季はすぐには取れなかった。
午後十一時過ぎ。
七人は公園にいた。
遠くから救急車のサイレンが聞こえた。
タツヤは缶を蹴り、ユウキは煙草の吸い殻を植え込みへ弾いた。
ジュンが「警察、来るだろうな」と言った。
「そりゃ来るだろ。店の物も壊したし」
ミカは平然としていた。
タツヤが笑った。
「あいつ、歯、どうすんだろな!」
紗季の胃がひっくり返りそうになった。
笑えるはずがない。
でも、誰もが笑っている。
「……あれ、やりすぎじゃないですか」
紗季は言った。
タツヤの笑顔が止まった。
「……何?」
一瞬で空気が冷える。
紗季の喉が詰まった。
まただ。
黒田の前と同じ。
言いたいことを言ったら、相手が怒る。
そのとき蓮が口を開いた。
「紗季ちゃんの言う通り。やりすぎ」
タツヤは舌打ちし、目を逸らした。
蓮は紗季を見た。
「怖かったよね。ごめん」
穏やかな声だった。
バーで、黒田を殴った直後と同じ声。
「……レンさんは、何で止めなかったんですか」
蓮は少し考えた。
「……止めるの、遅かったね」
それだけだった。
紗季は返事ができなかった。
やがてミカが隣に座り、別の話を始めた。
くだらない恋愛話。
タツヤの失敗談。
ジュンのサングラスを、なぜ夜も外さないのかという話。
紗季は最初、笑えなかった。
けれど少しずつ、笑ってしまった。
さっき見た惨劇が消えたわけではない。
ただ、自分だけが取り残されるのが怖かった。
帰り道。
蓮と二人になった。
「……嫌いになった?」
蓮が聞いた。
紗季は答えなかった。
「正直に言っていいよ」
「……怖かったです」
「うん」
「でも、みんなと話すのは楽しかった」
蓮は小さく笑った。
「それでいいんじゃない?」
「……いいんですかね」
「紗季ちゃんが決めればいいよ」
信号が青になった。
紗季は歩き出す。
ポケットには、大河内の名刺。
スマートフォンには、しんじからの未読メッセージ。
隣には、何をしているのか分からない男。
正しく生きようとして、何も守れなかった。
それでも、間違ったことを平気でやる人たちは、楽しそうに笑っている。
「……私、もういい子でいるの、疲れました」
思わず漏れた声だった。
蓮が振り向いた。
「じゃあ、やめちゃえば」
紗季は笑わなかった。
けれど、その言葉を否定もしなかった。
午前零時十五分。
東署刑事課。
森田の机に、ビリヤード場からの通報記録が届いた。
重傷者一名。多数による暴行。防犯カメラ映像あり。
「……また、若い男のグループか」
若い刑事が写真を見せた。
「店員が、中心人物を『レン』と呼ぶ声を聞いたそうです」
森田は写真に目を落とした。
バーで黒田を殴った男。
殺人事件で名前が浮かんだ男。
そして今夜の乱闘。
同一人物だとは、まだ断定できない。
だが、無関係として片づけるには、重なりすぎていた。
「水瀬紗季さんに、もう一度連絡を」
森田は言った。
その頃、紗季のスマートフォンには、しんじからのメッセージが届いていた。
『今日、会社でちょっと大変なことがあった。明日、話せる?』
その下に、蓮からの通知。
『今日はありがと。無事帰れた?』
紗季は少し迷った。
そして先に開いたのは——
蓮からのメッセージだった。




