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私を嫌う理由を、私は知らない  作者: 花水木 鳥夢


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8/8

悪い友達

月曜日、午前九時三分。


「水瀬さん! ゴージャスです!」


電話の向こうで、松谷の声が弾けた。


『デンジャラス幕の内、ザ・ペンデュラム! 大反響です!』


「……本当ですか?」


『社内で試験販売をしたところ、予想以上の希望者が出ました。来月から月十回、一回百食を目安に継続発注したいのです!』


紗季は電卓を開いた。


二千三百円。百食。月十回。


月間二百三十万円。


「……二百三十万円」


『ノン、ノン! お金だけではありません。デンジャラスとゴージャス。響き合う二つの魂が、ついに社会と共鳴したのです!』


何を言っているのかは、分からない。


それでも紗季の目から、ぽろりと涙が落ちた。


断られて、断られて、断られて。


最後にたどり着いた会社だった。


『……水瀬さん?』


「あ、すみません。嬉しくて」


『涙は美しい。ですが私、涙を拭うハンカチは必ず新品と決めておりまして……』


「大丈夫です。自分のを持ってます」


紗季は笑いながら目元を押さえた。


その日、アオバ企画の役員会で、試験導入の条件調整と、紗季の特別功労表彰が決まった。




午後一時。


会議室の前方に、表彰状が置かれていた。


「水瀬さん、こちらへ」


神宮司部長に呼ばれ、紗季は震える足で前に進んだ。


ついこの間まで、同じ場所で弁当の中の気味の悪い手紙を広げ、ハラスメントを訴えていた。


今日もここへ来るのが怖かった。


けれど、神宮司は穏やかに言った。


「あなたは、自分の担当外の業務を任されました。十分な資料も、準備期間もない中で、新たな取引先にたどり着いた」


紗季は俯いた。


「成果だけを見れば、大口の継続取引につながる営業機会を作ったことです。ですが私が特に評価したいのは、断られても投げ出さなかったことです」


会議室が静かになった。


「水瀬紗季さん。お疲れさまでした」


差し出された表彰状を、両手で受け取った。


拍手が起きた。


一人、また一人。


営業部長も、総務の社員も、あの受付の女性も。


後方では、しんじが誰よりも大きく拍手していた。


紗季は思わず笑った。


頬に、温かいものが伝った。


これまで、何をしても悪く言われた。


何もしていないことまで、自分のせいにされた。


それなのに、今日は違う。


「……ありがとうございます」


声が震えた。


「私、仕事ができないのかなって……ずっと思っていました」


視界がにじむ。


「でも、今日だけは、自分のことを少し褒めたいです」


拍手がもう一度起きた。


黒田だけが、手を叩いていなかった。




「少し、僕からもよろしいでしょうか」


会議室の扉から、青年が入ってきた。


三十歳前後。地味な紺色のスーツに、磨かれた革靴。髪は短く整えられ、姿勢がよい。


後ろには黒服の男性が二人いたが、青年自身は驚くほど普通だった。


「デンジャラス弁当配達社の大河内翔太です」


グループ本体の社長の息子。


赤字続きの弁当会社を経営する、例の若社長だった。


大河内は深く頭を下げた。


「水瀬さん。本当にありがとうございました」


紗季は慌てた。


「いえ、そんな……」


「うちは、新しい商品を出すたびに断られてきました。社名を聞いただけで笑われることもあります」


大河内は苦笑した。


「デンジャラス弁当ですから。仕方ないですよね」


社員たちから、小さな笑いが漏れた。


「でも水瀬さんは、うちの商品を持って、何社も歩いてくださった。商売って、そうやって誰かが一歩を踏み出してくれないと始まらないんです」


紗季の胸が熱くなった。


「社員にも伝えます。あなたが、この注文を連れてきてくれたことを」


大河内は微笑んだ。


普通の、感じのよい青年だった。


誰かが後方で囁いた。


「あの会社、ずっと赤字なのに、配送車だけは増えてるらしいな」


「親会社が面倒見てんだろ」


「……夜間の便もあるって聞いたけど、弁当屋なのにな」


囁きはすぐに止んだ。


紗季には、話の意味が分からなかった。


大河内は名刺入れを取り出した。


「水瀬さん。これは僕の直通番号です」


裏に携帯番号が書かれた名刺を渡す。


「仕事のことでも、そうでないことでも。何か困ったことはありませんか」


紗季は顔を上げた。


「……困ったこと、ですか」


「はい。あなたには助けてもらいましたから」


脳裏に、しんじの机が浮かんだ。


油で汚れた引き出し。


押しつけられた仕事。


黒田と真知岡の笑い声。


——助けてください。


そう言いかけた。


だが、会議室の端に黒田がいた。


じっと、こちらを見ている。


「……今は、大丈夫です」


紗季は答えた。


大河内は少しだけ間を置き、頷いた。


「分かりました。でも、困ったら遠慮なく」


名刺を受け取る紗季の指に、わずかに力が入った。


会議が終わる頃、大河内の黒服の一人が耳元で何か囁いた。


青年は、初めて笑顔を消した。


「……その荷物、昼の配送記録には載せないで。あとで僕が確認する」


低い声。


紗季が振り向いたときには、もういつもの穏やかな表情に戻っていた。


「では、また。水瀬さん」




廊下で、黒田に呼び止められた。


「おい、水瀬ちゃん。今日は主演女優賞だったなあ」


「……ありがとうございます」


「泣く演技までつけちゃって。いやあ、俺、感動しちゃった!」


黒田は胸を押さえ、わざと鼻をすすった。


「ぐすっ。私、頑張ったんですぅ。……で、監督の俺はどこで表彰されんの?」


紗季は答えなかった。


「そもそもお前を営業に出したの、誰だっけ?」


「……係長です」


「正解! でも表彰状はお前。変な会社だよなあ!」


黒田は笑って、声を落とした。


「たまたま一回当たっただけで、自分が特別だと思うなよ」


紗季は表彰状の筒を握った。


「……私は、そう思っていません」


「は?」


「でも、今日の仕事を、なかったことにはされたくありません」


黒田は目を見開いた。


次の瞬間、気味の悪い笑顔に戻った。


「おおっ。受賞したら急に偉くなった! 怖いねえ、女優さんは!」


紗季は頭を下げ、歩き出した。


背後で黒田が呟いた。


「……誰がしゃべっていいって言ったんだよ」




しんじの受けている仕打ちは、日に日に増えていた。


朝は通常業務の山。


昼にはデンジャラス幕の内の飛び込み営業。


戻れば、真知岡が選んだ「特別クレーム」の電話が待っていた。


『唐揚げが左に入ってた。俺は右利きなんだぞ!』


『冷めてるから温めたら熱すぎた! 誠意を見せろ!』


『食べ終わったが返金しろ。腹が立ったからだ!』


返金の決裁権もないしんじは、ただ謝り、事実を確認し、担当部署につないだ。


二時間の残業を終えると、真知岡が新しい資料を置いた。


「佐井賀。今日中な」


「もう定時を過ぎています」


「お客さんは定時で困るのやめてくれんの?」


背後で黒田が笑った。


「おお、出た! 残業したくない正義の味方! 水瀬を守る時間はあるのになあ!」


翌朝には、引き出しにまた漬物が詰められていた。


しんじは写真を撮り、総務へ報告した。


だが、すぐに事態が変わることはなかった。


「……なんで、こんなことに」


紗季は汚れた机を見つめた。


しんじは疲れた笑顔を作った。


「平気。気にすんな」


嘘だ、と紗季には分かった。


大河内の名刺が、ポケットの中にあった。


助けを求めれば、何かが変わるかもしれない。


でも、親会社の社長の息子に頼るなんて、大ごとになりすぎないだろうか。


紗季は名刺を握りしめたまま、何もできなかった。




午後七時三十分。


駅前の居酒屋。


「ここ、何でもうまいよ」


蓮は慣れた様子でメニューを開いた。


「大トロ。和牛の炙り。伊勢海老の刺身。それから、この季節のおすすめ全部」


店員が目を丸くした。


「……お二人様で?」


「うん。足りなかったら追加する」


紗季は慌てた。


「レンさん! それ絶対、高いですよ!」


「いいじゃん。今日はお祝いだろ」


「でも、お金……」


蓮は笑った。


「気にしなくていいよ」


差し出したのは、大量の現金だった。


紗季はその手首に、見覚えのない高級時計が光っているのを見た。


公園で缶チューハイを飲み、煙草をポイ捨てしていた男と、同じ人物には見えなかった。


「……何の仕事してるんですか?」


「いろいろ」


「またそれ」


「今日は紗季ちゃんの表彰の話を聞く日」


蓮はグラスを上げた。


「おめでとう」


グラスが軽く触れ合う。


紗季は、会社で表彰されたときのことを話した。


神宮司の言葉。


しんじが拍手してくれたこと。


黒田が悔しそうだったこと。


「……私、初めて自分を認めてもらえた気がしたんです」


蓮は笑わなかった。


「それ、よかったじゃん」


「はい」


「ほんとに頑張ったんだね」


その一言で、また泣きそうになった。


「……でも、しんじが」


紗季は、しんじへのいじめを話した。


蓮は箸を止めた。


「元彼なんだっけ」


「うん。今も友達で。私のこと、ずっと助けてくれて」


「いいやつなんだね」


「……なのに私、助けられなくて」


蓮は大トロの皿を紗季の前へ寄せた。


「まず食べなよ。泣くのは、そのあと」


紗季は思わず笑った。


「何ですか、それ」


「高いから、冷める前に」


「お刺身は冷めません!」


二人で笑った。


気づけば、グラスは三杯目だった。


「黒田、本当に嫌い」


紗季ははっきり言った。


蓮は嬉しそうに笑った。


「いいね。前よりずっと言えるようになった」




同じ頃、東署刑事課。


森田は、バーの映像と一枚の写真を並べていた。


「……似ているな」


若い刑事が頷いた。


「別の殺人事件で、関係者として名前が出ている男です。通称はレン」


「本人の身元は?」


「まだ裏付けが取れていません。ただ、被害者が亡くなる直前、この人物らしい男と接触していたという証言があります」


「殺した証拠は?」


「ありません」


森田は写真を裏返した。


「なら犯人扱いするな。まず同一人物か確かめる」


「はい」


その事件は、まだ報道されていなかった。


そして紗季は、目の前の男に警察の捜査が近づいていることを知らなかった。




午後九時四十分。


ビリヤード場のドアを開けた瞬間、怒鳴り声が飛んだ。


「おっせえんだよ、レン!」


五人がいた。


首まで刺青の入った巨漢、タツヤ。


鼻と唇にピアスをした細身のユウキ。


無口で目の据わった坊主頭のゴウ。


赤髪に厚底ブーツのミカ。


夜でもサングラスを外さないジュン。


「おっ、女連れ!」


「おいレン、紹介しろよ! 聞こえねえぞ!」


タツヤの声は店内に響き渡った。


ユウキは灰皿のない場所で煙草を吸い、床に灰を落としていた。


飲み終わった缶を背後へ投げる。


ガラン、と別の台の脚に当たった。


ゴウは床に唾を吐いた。


ミカは笑いながら、店員が注意しに来る前に煙草を踏み消した。


「……ここ、禁煙じゃないんですか?」


紗季が囁くと、レンは苦笑した。


「だよね。お前ら、少しは店のルール守れよ」


「レンに言われたくねえ!」


全員が笑った。


紗季は、その笑い声に圧倒された。


怖い。


でも、何だろう。


彼らは、誰の顔色もうかがっていない。


会社の中では、紗季がずっとできなかったことだった。


「紗季、やってみな!」


ミカにキューを渡される。


初めてのショットは、手球をかすめただけだった。


「弱っ! 蚊が止まっても動かねえぞ!」


タツヤが腹を抱えた。


「うるさいなあ!」


紗季はつい言い返した。


一瞬、全員が黙った。


そして。


「おおっ! 言った!」


一斉に大笑いした。


紗季も笑った。


黒田になら、絶対に言えない言葉だった。




午後十時三十八分。


隣の台の若い男が言った。


「おい。うるせえんだよ、お前ら」


タツヤが振り向いた。


「……あ?」


「煙草も消せよ。ここ禁煙だろ」


正しい注意だった。


だがタツヤは、その男の顔に煙を吐きかけた。


「何? 風紀委員?」


若い男がタツヤを突き飛ばした。


それが合図になった。


「テメェ!」


ユウキが台の球をつかんだ。


**ゴッ!**


硬い球が勢いよく飛び、相手の肩を直撃した。


悲鳴。


倒れかけた男を、ゴウがつかまえる。


「おい、やめろ!」


店員が叫んだ。


タツヤがキューを振り回し、カウンターの縁が砕けた。


若い男女が出口へ逃げようとする。


しかし、そのうち一人が床に押さえつけられた。


「ご、ごめんなさい!」


男の声が裏返る。


ユウキは笑っていた。


「遅えよ」


ゴウがビリヤードの球を男の口に押し込んだ。


「やめて! お願い!」


隣にいた女性が泣き叫ぶ。


次の瞬間、ゴウが跳んだ。


**ドガッ!**


飛び膝が男の口元を直撃した。


鈍い音。


床に散る白い欠片。


男は口元を押さえ、声にならない声を漏らした。


「歯が……! 歯が全部……!」


女性が叫んだ。


紗季は動けなかった。


店内に、血の匂いと悲鳴が広がる。


さらにタツヤがキューを膝でへし折った。


折れた先端を相手へ向ける。


「次、誰だよ」


「やめて! もうやめてください!」


店員は震える手で電話をかけていた。


「警察ですか! 人が大けがしてます! 救急車も!」


ミカは恐怖で固まった紗季の肩を抱いた。


「こっち来な。見なくていい」


それなのに、ミカの口元は笑っていた。


蓮はずっと、少し離れた場所で見ていた。


そして、短く言った。


「……もういい」


ゴウの動きが止まった。


タツヤが振り向く。


「でもよ、レン!」


「もういいって言ったろ」


蓮は、少しだけ声を低くした。


それだけだった。


さっきまで暴れていた男たちが、黙って道を開けた。


紗季はその光景を見ていた。


恐ろしかったのは、乱闘だけではない。


**あの五人が、蓮の一言だけは聞くことだった。**


「……行こう」


蓮が紗季に手を差し出した。


その手を、紗季はすぐには取れなかった。




午後十一時過ぎ。


七人は公園にいた。


遠くから救急車のサイレンが聞こえた。


タツヤは缶を蹴り、ユウキは煙草の吸い殻を植え込みへ弾いた。


ジュンが「警察、来るだろうな」と言った。


「そりゃ来るだろ。店の物も壊したし」


ミカは平然としていた。


タツヤが笑った。


「あいつ、歯、どうすんだろな!」


紗季の胃がひっくり返りそうになった。


笑えるはずがない。


でも、誰もが笑っている。


「……あれ、やりすぎじゃないですか」


紗季は言った。


タツヤの笑顔が止まった。


「……何?」


一瞬で空気が冷える。


紗季の喉が詰まった。


まただ。


黒田の前と同じ。


言いたいことを言ったら、相手が怒る。


そのとき蓮が口を開いた。


「紗季ちゃんの言う通り。やりすぎ」


タツヤは舌打ちし、目を逸らした。


蓮は紗季を見た。


「怖かったよね。ごめん」


穏やかな声だった。


バーで、黒田を殴った直後と同じ声。


「……レンさんは、何で止めなかったんですか」


蓮は少し考えた。


「……止めるの、遅かったね」


それだけだった。


紗季は返事ができなかった。


やがてミカが隣に座り、別の話を始めた。


くだらない恋愛話。


タツヤの失敗談。


ジュンのサングラスを、なぜ夜も外さないのかという話。


紗季は最初、笑えなかった。


けれど少しずつ、笑ってしまった。


さっき見た惨劇が消えたわけではない。


ただ、自分だけが取り残されるのが怖かった。




帰り道。


蓮と二人になった。


「……嫌いになった?」


蓮が聞いた。


紗季は答えなかった。


「正直に言っていいよ」


「……怖かったです」


「うん」


「でも、みんなと話すのは楽しかった」


蓮は小さく笑った。


「それでいいんじゃない?」


「……いいんですかね」


「紗季ちゃんが決めればいいよ」


信号が青になった。


紗季は歩き出す。


ポケットには、大河内の名刺。


スマートフォンには、しんじからの未読メッセージ。


隣には、何をしているのか分からない男。


正しく生きようとして、何も守れなかった。


それでも、間違ったことを平気でやる人たちは、楽しそうに笑っている。


「……私、もういい子でいるの、疲れました」


思わず漏れた声だった。


蓮が振り向いた。


「じゃあ、やめちゃえば」


紗季は笑わなかった。


けれど、その言葉を否定もしなかった。




午前零時十五分。


東署刑事課。


森田の机に、ビリヤード場からの通報記録が届いた。


重傷者一名。多数による暴行。防犯カメラ映像あり。


「……また、若い男のグループか」


若い刑事が写真を見せた。


「店員が、中心人物を『レン』と呼ぶ声を聞いたそうです」


森田は写真に目を落とした。


バーで黒田を殴った男。


殺人事件で名前が浮かんだ男。


そして今夜の乱闘。


同一人物だとは、まだ断定できない。


だが、無関係として片づけるには、重なりすぎていた。


「水瀬紗季さんに、もう一度連絡を」


森田は言った。


その頃、紗季のスマートフォンには、しんじからのメッセージが届いていた。


『今日、会社でちょっと大変なことがあった。明日、話せる?』


その下に、蓮からの通知。


『今日はありがと。無事帰れた?』


紗季は少し迷った。


そして先に開いたのは——


蓮からのメッセージだった。

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