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指輪のない左手  作者: 九葉(くずは)


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第7話 沈黙の答え

朝は、冷えていた。


日の出直後の空が白く、エルトハイム邸の前庭に停まった馬車の屋根に露が降りている。御者が馬の首を撫でながら出立の準備をしている。馬の鼻息が白い。吐く息も白い。秋が、もう冬の手前まで来ていた。


リーゼルは玄関の階段を降りた。旅行鞄はひとつ。マルタが持とうとしたのを断り、自分の手で提げている。鞄の中に、手袋の箱が入っている。昨夜、眠れないまま迷って、結局入れた。マルタが「お嬢様のもの」と言った箱。捨てることも、置いていくこともできなかった。


鞄は軽い。三年間の王都暮らしが、革の鞄ひとつに収まるという事実。返却品と処分品を除いたら、これだけしか残らなかった。


父は書斎の窓から見送るつもりらしい。カーテンの隙間から光が漏れている。階段の上にマルタだけが立っていた。老侍女の目がかすかに赤い。泣いたのか、朝が早すぎたのか——訊けなかった。


馬車の扉に手をかけた、そのとき。


前庭の門の方から、足音がした。


石畳を踏む、硬い音。規則正しく、迷いがない。近衛の歩き方。その歩調を、リーゼルの耳は三年間で覚えてしまっている。


顔を上げた。


ヴォルフが、門を通って前庭に入ってくるところだった。


近衛の正装ではない。あの役所で見たのと同じ、質素な仕立ての私服。けれど背筋の伸び方だけは変わらず騎士のまま。朝日を正面から受けて、顔に影が落ちている。


リーゼルの手が、馬車の扉から離れた。


なぜ、ここに。出立のことをどこで知ったのか。——マルタ、だろうか。振り返ると、階段の上の老侍女は視線を空に逸らしている。


ヴォルフが歩み寄ってくる。五歩の距離で止まった。


沈黙。馬の鼻息と、遠くの鐘楼が朝の鐘を打つ音だけが聞こえる。六つの鐘。日の出の合図。御者がちらりとこちらを見て、すぐに馬の世話に戻る。


朝の光がヴォルフの横顔を照らしている。目の下に影がある。眠れていない顔。昨夜のリーゼルと同じ顔を、この人もしている。


リーゼルは口を開いた。昨夜、眠れぬ寝台の上でずっと考えていた問い。胸の奥で言葉の角を何度も確かめた、問い。


「あなたも——役目だったのですか」


声が朝の空気に吸い込まれていく。白い息が、言葉のかたちだけ残して消える。


ヴォルフは動かない。


長い、長い沈黙。鐘の余韻が消えてもまだ答えない。リーゼルの胸が冷えていく。やはり、そうなのだ。護衛という役目。それ以上でも、それ以下でもない。


「——役目だった」


ヴォルフの声。低く、固い。


リーゼルの視界がわずかに揺れた。わかっていた、はず。わかっていたのに、声に出して確認されると、胸の奥の空洞がいっそう深くなる。指先が冷たい。鞄の持ち手を握りしめる。


「そう、ですか」


笑おうとした。三年間の仮面をもう一度だけ被ろうとして、口角を上げかけた瞬間——


「……最初は」


ヴォルフの声が、続いた。


最初は。


その声が、朝の冷えた空気の中に落ちて、しん、と沈む。


リーゼルの口角が、中途半端なところで止まった。笑顔にも、平静にも、どちらにもなれないまま。


ヴォルフの目がリーゼルを見ている。いつもの無表情とは違う。何かを堪えている顔。唇が薄く開いて、言葉を探している。寡黙な人が、言葉を探すときの苦しさが、そのまま顔に出ている。


リーゼルは初めて、この人の目の色をはっきりと見た。灰がかった青。冬の夜明け前の空の色。三年間、一度もまっすぐ見たことがなかった目。



◇◇◇



三年前の夜会。


護衛の任務を受けた最初の夜、ヴォルフは大広間の壁際に立ち、仮の婚約者と呼ばれる女を見ていた。


完璧な笑顔だった。社交の挨拶をこなし、殿下の隣で非の打ちどころのない立ち居振る舞いを見せる。近衛の同僚は「楽な任務だな」と笑う。立っていればいいだけの閑職だと。


夜会の途中、その女がバルコニーに出る。


ヴォルフは任務として後を追った。柱の影で足を止め、気配を殺す。


バルコニーの手すりに両手を置いた女が、左手の手袋を外した。素肌の薬指を、じっと見つめている。


月明かりの中で、女の横顔が歪んだ。


笑顔が崩れるのではなかった。笑顔のまま、目だけが泣いていた。唇は微笑みの形を保ったまま、頬を一筋、涙が伝う。声は出さない。肩も震えない。ただ静かに、仮面の下で泣いている。


ヴォルフは動けない。


その場に立ち尽くしたまま、泣いている女が手袋をはめ直し、涙を拭い、笑顔を作り直して大広間へ戻っていくのを——ただ見ていた。


翌朝、辞退願を書く。


あの女のそばにいたら、任務の範囲では済まなくなる。そういう直感があった。封蝋を垂らそうとして——手が止まる。


辞退したら、別の騎士が護衛につく。あるいは誰もつかない。あの女は、仮面の下で泣いていることを誰にも知られないまま、笑い続ける。


封蝋は、落とさなかった。


翌夜、ヴォルフはまたあの女の背後に立っている。その翌夜も。そのまた翌夜も。いつからか、辞退願のことは考えなくなっていた。引き出しの中の書状は、出されないまま古びていく。


仮の婚約者が用済みになれば、自分もそばにいる理由を失う。わかっていた。だから辞退願を出さなかった。出してしまえば離れなければならない。出さなければ、あの笑顔のそばにいる口実が残る。


そして今——理由はなくなった。婚約は終わり、護衛は解かれ、この女は王都を去ろうとしている。


ヴォルフの手には、もう何もない。口実も、任務も、理由も。


あるのは、まだここに立っている自分の足だけ。


理由のない足が、今朝この門をくぐった。誰に命じられたわけでもなく。



◇◇◇



ヴォルフが口を開く。


リーゼルの目に映る騎士の顔は、初めて見るものだった。いつもの無表情が剥がれて、その下にある、不器用で必死な何かが剥き出しになっている。


「——俺の」


声がかすれる。


「そばに」


そこで、止まった。


「おそばに」ではなく、「俺の、そばに」。敬語が崩れている。護衛と被護衛者のあいだにあったものが、あの短い言葉で壊れた。


その先の言葉を、ヴォルフは言わなかった。唇が震えるのを奥歯で噛み殺すように、口を閉じる。


リーゼルの目から、涙がこぼれた。


声は出さない。肩も震えない。三年前のバルコニーと同じ泣き方。笑顔だけは、もう作っていない。


「――俺の、そばに」


その先を、あのひとは言わなかった。


言わなかったのではない。私が、聞く準備ができていなかったのだ。

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