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指輪のない左手  作者: 九葉(くずは)


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第6話 出されなかった書状

出立は明日の朝と決まっていた。


馬車の手配は父が済ませてくれている。エルトハイム領までは王都から北東へ二日。途中の宿場で一泊し、翌日の昼過ぎに領地の館に着く。帰れば、祖母が待っている。祖母の淹れる薄荷茶と、屋敷裏手の古い果樹園。十六の年に王都へ出てくるまで、あそこがリーゼルの世界のすべてだった。果樹園の林檎は今年も実をつけただろうか。


帰るのだ。あの場所に。あの静けさの中に。


荷はすでにまとまっている。といっても、驚くほど少ない。返却する品と処分する品を除いたら、自分の荷物は革の旅行鞄ひとつに収まった。三年間の王都暮らしの、たったこれだけ。


マルタの手袋の箱だけが、鞄の中に入れられないまま机の上にある。



夕食のあと、リーゼルは自室で旅支度の最終確認をしていた。


旅行鞄の中身を出して並べ、もう一度入れ直す。必要だからではなく、手を動かしていないと落ち着かないだけ。窓の外はもう暗い。秋の日は短く、夕暮れが足早に去っていく。


扉を控えめに叩く音。


「お嬢様。少しよろしいでしょうか」


マルタの声。けれどいつもと少し違う。声の底に、何かを量っている気配がある。


「どうぞ」


マルタが入ってきた。手には何も持っていない。給仕でも身支度の手伝いでもない。用事のないマルタがリーゼルの部屋を訪ねることは珍しかった。


老侍女は扉を閉め、部屋の隅に立った。しばらく黙っている。燭台の灯りがマルタの横顔を照らし、深い皺に影を落としている。


「ひとつだけ、お伝えしてよいでしょうか」


リーゼルは鞄に手を置いたまま頷いた。


マルタは視線を窓の方に向けて、淡々と話し始める。


「お嬢様の護衛任務を引き受けた騎士は、近衛の中で唯一の志願者だったそうでございます」


一拍。リーゼルの手が止まる。


「仮の婚約者の護衛は、近衛の中でもお役目としての評価が低いのだと聞いております。殿下ご本人の護衛であれば功績になりますが、婚約者、しかも仮の——となると、進んで名乗り出る者はおりません」


マルタの声は平坦で、事実を並べている。感想は混ぜない。


「ゼクスト騎士は、その任務に自ら志願なさいました。三年前のことです」


三年前。リーゼルが仮の婚約者になったのと、同じ時期。


「……なぜ」


リーゼルの声がかすれた。


「わたくしには、わかりかねます」


マルタは正直にそう言った。解釈はしない。


「もうひとつだけ」


老侍女が続ける。声の調子は変わらない。


「任務解除の折に、上官の方がゼクスト騎士にお訊ねになったそうです。『辞退願を出していたのではなかったか』と」


辞退願。


その単語が、リーゼルの胸の中で白い封蝋の映像を呼び起こす。自分が半年前から引き出しに仕舞っていた、あの書状。


「ゼクスト騎士は『出しておりません』とだけ、お答えになったと」


沈黙が落ちた。


燭台の灯りが一度揺れる。窓の隙間から風が入ったのか、蝋の焦げる匂いがわずかに強くなった。


リーゼルは、マルタの言葉を頭の中で繰り返している。


辞退願を出していたのではなかったか。——つまり上官は、ヴォルフが書状を用意していたことを知っている。書いたのに、出さなかった。リーゼルは自分の辞退願を出している。ヴォルフは、出していない。


「では——」


声が、思考を追い越して口から出る。


「あの方も、"仮初めの理由"でそばにいたのですか」


仮初めの婚約。仮初めの護衛。どちらも本来の自分の意思ではなく、役目としてそこに立っていた——そういう構造だと、リーゼルはずっと思っていた。


けれど、志願。


志願して、三年間そばにいた。辞退願を書き、出さなかった。


それは「仮初めの理由」なのか。それとも——


マルタは答えなかった。


「明日の馬車は朝に手配されております。御者には日の出とともに出立とお伝えしてございます」


用件を終えた声だった。リーゼルの問いを聞かなかったわけではない。聞いた上で、答える立場にないと判断している。それがマルタの誠実さで——今だけは、それがもどかしかった。


「おやすみなさいませ、お嬢様」


マルタが部屋を出ていく。扉が閉まる音。廊下を遠ざかる足音が、やがて階段を降りる気配に変わり、消える。


部屋に、リーゼルだけが残される。机の上には旅行鞄と、手袋の箱。窓の外では秋の虫が鳴いている。



眠れない。


寝台に横になり、天井の暗がりを見つめている。燭台は消した。月明かりが窓の格子を通って、床に縞模様を落としている。夜気が冷たく、掛布の中にいても足先がなかなか温まらない。


頭の中で、二通の書状がぐるぐると回っている。


一通は、自分が出した辞退願。白い封蝋で綴じた、婚約辞退の書状。殿下に差し出し、受理されたもの。あの瞬間、「ご苦労だったね」という穏やかな声とともに、リーゼルの三年間は終わった。封蝋を割る乾いた音を、今でも覚えている。


もう一通は、ヴォルフが書いて、出さなかった辞退願。


書いたのはいつだろう。任務を引き受けてすぐか。途中の、どこかの時点か。辞退したかった理由は何だったのか。——辞退しなかった理由は。


リーゼルは自分の辞退願を思い出す。半年前に書いて、引き出しに仕舞っておいた。いつか必要になると思って。必要にならなければいい、とも思いながら。


ヴォルフも同じだったのだろうか。引き出しの中に書状を入れて、出すべきか出さないべきかを量って——出さなかった。


出さなかった、という事実。


自分は出した。あの人は、出していない。


その差が、意味するもの。


寝返りを打つ。枕が温まっている。反対側に顔を埋めると、布の冷たさが頬に触れる。目を閉じる。閉じても、白い封蝋の残像が消えない。


——あのひとはなぜ、出さなかったのだろう。


「仮の婚約者が用済みになれば、護衛の任務も終わる」。ヴォルフはそれを知っていたはずだ。リーゼルが辞退すれば、自分もそばにいる理由を失うと。知っていて、自分からは降りなかった。


降りなかった、のか。降りられなかった、のか。


その一字の違いが、暗い天井の上でいつまでも揺れている。答えはリーゼルの中にはない。ヴォルフの中にしかない。


窓の外で夜鳥が鳴いた。遠い。明日の朝、あの馬車に乗れば、この街を離れる。ヴォルフの答えを聞くことなく。



私は辞退願を出した。あの人は、出さなかった。


その差が何を意味するのか、明日の朝までに答えを出さなければ、私は領地へ帰る馬車に乗る。

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