第15話 名前が残る
第15話 名前が残る
依頼を終えて戻ったギルドは、昼の喧騒を少し過ぎていた。
掲示板の前にはまだ人が多い。朝ほど張り詰めてはいないが、空気は途切れていない。終えた仕事の報告、新しい依頼の確認、仲間を探す声。昼を回っても、冒険者ギルドは止まらない。
コーイチは、いつものように端に立った。
人の流れを遮らない位置。だが、声は届く。視線も届く。前には出ないが、完全に外にもいない。その距離を、もう無意識に選んでいた。
受付で報告を済ませる。
内容は簡単だった。依頼番号、完了の確認、途中で問題がなかったこと。受付嬢は記録に印をつけ、短く頷く。
「はい、確認しました。お疲れさまでした」
それで終わる。
特別なことはない。だが、依頼が一つ終われば、その結果は記録に残る。
受付を離れかけたとき、背後で声がした。
「昨日の岩場の件、終わったのか?」
振り返ると、別のパーティの男が立っていた。何度か見かけたことはある。顔見知りと言うほどではないが、まったく知らない相手でもない。
「怪我人は?」
「いない」
答えたのは、昨日一緒だった前衛の男だった。
「……そうか」
男はそれだけ言うと、コーイチを一度だけ見た。
長く見るわけでもなく、話しかけるわけでもない。ただ一度、確かめるように見て、すぐに視線を外した。
その程度のやり取りだった。
だが、十分だった。
ギルドでは、こういう形で空気が伝わる。
大声で噂されなくても、結果だけは残る。誰が怪我を出さなかったか。誰と組んだ依頼が無事に終わったか。そういう情報は、少しずつ人の間を移動していく。
コーイチは掲示板の前へ移動した。
新しい依頼札を見上げる。危険度、距離、報酬、所要時間。視線は自然と、その順番で流れる。
すると、横から声がかかった。
「次、空いてるか」
昨日とは別のリーダーだった。
短く事情を聞く。護衛。危険度は低い。だが、時間がかかるらしい。
「時間がかかる、か」
コーイチはその一言を頭の中で反復した。
急ぎの依頼は、事故を呼びやすい。判断が粗くなり、確認が抜ける。時間がかかるということは、それだけ余裕があるということでもある。
「問題ありません」
そう答えると、相手は少しだけ表情を緩めた。
「助かる」
それだけで話はまとまる。
名前の確認も、細かい説明も長くは続かない。必要な情報だけを交わして終わる。その短さが、逆にコーイチには心地よかった。
集合まで少し時間が空いた。
宿に戻るほどではない。コーイチはそのまま街を歩くことにした。
市場はまだ動いていた。
食料、布、金物、修理道具。店ごとに値段が違い、呼び込みの声も違う。冒険者向けの店は、昼過ぎでも人が絶えない。依頼帰りに消耗品を買い足す者、次の仕事に備える者、単に冷やかしている者。目的はばらばらだが、動きだけはよく似ていた。
コーイチは刃物の露店の前で足を止めた。
短剣を買うつもりはない。ただ、相場を知っておきたかった。必要になったとき、迷わず選べる方がいい。
「それは軽いぞ」
店主が棚の一本を顎で示した。
「使い込めば癖も出る。悪くない」
コーイチは頷くだけで、手には取らなかった。
今の短剣に不満はない。だが、こういう店で値段と質を見ておくこと自体には意味がある。
歩き出す。
その途中で、すれ違った冒険者に軽く会釈された。
コーイチも会釈を返す。
話したことがあったかどうかは曖昧だった。だが、顔は覚えられているらしい。
名前を名乗った覚えはない。
それでも、顔は残る。組んだ依頼の結果も残る。ギルドの中だけではなく、街の動線の中にも、少しずつ自分の輪郭ができ始めているのを感じた。
午後、集合。
人数は三人。護衛依頼だが、戦闘は想定されていない。荷を運び、崩さず、遅れず、余計なトラブルを起こさない。それが主な仕事だった。
道中、何事も起きなかった。
だからといって緩むこともない。無駄に喋らず、位置を保ち、必要なところだけを見る。危険がないなら、それを崩さないこと自体が仕事になる。
馬車が段差で大きく揺れたとき、コーイチは黙って支えに入った。
荷が崩れかける前に、片手で押さえる。荷台の軋む音が一度だけ鳴って、すぐに収まる。
「助かった」
商人が言った。
コーイチは軽く頷くだけだった。
礼を返す必要も、会話を広げる必要もない。崩れなかった。それで十分だ。
目的地に着き、依頼は完了した。
報酬は大きくない。だが、確実だった。こういう依頼が続くなら、それは悪くない。
帰り道、リーダーがぽつりと呟いた。
「最近さ」
少し間があった。
言うかどうか迷ったというより、言葉を探しているような間だった。
「名前、聞かれるんだ」
コーイチは反応しない。
続きを待つ。
「『あの、真ん中に立つやつ』って」
それで意味は十分だった。
前に出ない。
けれど、後ろにもいない。危険を増やさず、邪魔にもならず、消えもしない。そういう位置で覚えられているのだろう。
ギルドに戻る頃には、夕方になっていた。
朝ほどの勢いはないが、人はまだ多い。依頼札の一部は剥がされ、代わりに新しい札が差し込まれている。
受付の奥で、帳簿をめくる音がした。
そのとき、別の受付が声を上げる。
「次の依頼、補充要員が必要だ」
何人かが顔を上げる。
視線が掲示板から受付へ向く。
「コーイチ――」
名前が、はっきりと呼ばれた。
一瞬だけ、足が止まる。
だが、すぐに一歩前へ出た。
「はい」
それだけで、話は進んだ。
説明が始まり、条件が示され、受けるかどうかを聞かれる。選ばれた理由は言われない。だが、呼ばれたという事実だけで十分だった。
特別なことはない。
称賛もない。拍手もない。
ただ、依頼の記録が残る。
無事に終わったという結果が残る。
その結果を見た誰かが、次に人を探すとき、選択肢の中にコーイチを入れる。
この場所では、それが意味になる。
夜。
宿に戻り、巾着袋を机に置く。
口を開けて中を確認する。
増え方は緩やかだ。急には増えない。だが、減ってはいない。
短剣を確認し、定位置に置く。
灯りを落とす。
前に出ない。
だが、消えもしない。
今は、それで十分だった。
コーイチはそう判断し、静かに目を閉じた。




