14.5話 ミア
第14.5話
酒場は、夕方と夜の境目だった。
外に出れば、空はまだわずかに明るい。だが建物の中に一歩入ると、もう夜の匂いがする。酒と油、汗と煙。人の体温が混ざった、閉じた空気だ。
コーイチは、入口近くの木のテーブルに腰を下ろし、メニュー板を眺めていた。
文字は読める。意味も分かる。値段も把握できる。
だが、決められない。
腸詰。煮込み。黒パン。豆のスープ。
どれも、この街ではありふれた料理なのだろう。だが、どれを選ぶべきなのか、その判断基準が見当たらなかった。
――腹が減っている、というだけでは足りない。
栄養。量。価格。満足度。
頭の中で条件を並べるが、答えは出ない。
そんな自分に、コーイチは小さく苦笑した。
異世界に来てから、こういう場面が増えた気がする。
そのときだった。
「お兄さん、この街は初めて?」
唐突な声だった。
思わず顔を上げる。
赤茶の髪を無造作に結った女が、グラスを片手に立っていた。年は二十歳前後だろうか。革の装備は使い込まれているが、過剰ではない。冒険者だと一目で分かるが、威圧感はなかった。
「……そうだけど」
そう答えると、女は軽くうなずいた。
「やっぱり。迷ってる顔してた」
そう言って、彼女は断りもなく向かいの椅子に腰を下ろした。
距離が、近い。
だが不思議と、不快ではなかった。
「この店で一番はね、腸詰のボイルと、ぬるいビール」
女は軽い調子で言った。
「冷えてるのは最初だけで、すぐ温くなるから。だったら最初から温い方がいいでしょ」
そう言って、悪戯っぽく片目をつむく。
コーイチは一瞬、言葉に詰まった。
――妙だ。
知らない相手なのに、会話が自然すぎる。
初対面特有の警戒や探りが、ほとんどない。
「……ありがとう」
とりあえず、そう返した。
「どういたしまして」
女はにっと笑い、グラスを軽く持ち上げた。
「ミア」
短く名乗る。
「あなたは?」
「……コーイチ」
異世界では、そう呼ばれている。
ミアは一度だけうなずき、その名前を反芻することもなく受け入れた。
その直後、彼女の視線が一瞬だけ、コーイチの背後へ流れた。
酒場の奥。
酔いが回りすぎた男が一人、こちらを見ている。
視線は露骨ではない。だが、じっとりとした執着がある。
コーイチが振り返る前に、ミアは何事もなかったかのように話を続けた。
「旅人? それとも冒険者?」
「一応……冒険者、かな」
「へえ」
ミアは興味深そうに、コーイチを見た。
その目は値踏みではない。
だが、何かを確かめるような視線だった。
「なら、しばらく一緒に飲まない?」
自然な調子で、そう言った。
「一人より、二人の方が楽しいし」
理由はそれだけだと言わんばかりに。
コーイチは一瞬、答えに迷った。
だが、この場で断る理由も見当たらなかった。
「……そうだな」
ミアは満足そうに笑い、店の奥に向かって片手を上げた。
「すみません、腸詰ふたつ。あとこの人の分も、ぬるいのでいいから」
勝手に決められたことに軽い戸惑いはあったが、不思議と嫌ではなかった。
酒場の奥にいた男の視線も、いつの間にか外れている。
そのことに、コーイチはまだ気づいていない。
彼女がこの席を選んだ理由を、
この時のコーイチはまだ知らない。
それは好意ではなく、
もっと単純で、もっと現実的な理由だった。




