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気づかない不幸

第四章 気づかない不幸


 老婆が入居してから、半月が過ぎた。


 その間に、職員が二人辞めた。


 一人は腰を痛めた。もう一人は、家庭の事情だと聞いた。


 本当のところは、誰も知らない。


「また募集かけるらしいよ」


「来てもどうせ、すぐ辞めるでしょ」


「夜勤できる人が欲しいんだけどね」


「この給料で夜勤までやれって言われたら、そりゃ辞めるよ」


 昼食後の食堂で、二人の職員が食器を片づけながら話していた。


 利用者たちは、まだ何人か席に残っている。


 食事を終えて眠っている者。テレビを見ている者。自分が食べ終わったことを忘れ、空になった皿を何度も覗き込んでいる者。


 職員たちは声を潜めているつもりだった。


 けれど、聞こうとしなくても聞こえる程度の声だった。


「私も次の更新、どうしようかな」


「辞めるの?」


「だって休み少ないし。人がおらんからって、また夜勤増やされたし」


「辞めても介護しかないでしょ」


「そうなんだよねえ」


 食器を重ねる音に混じって、二人は笑った。


 老婆は窓際の席に座ったまま、湯呑みに残った茶を飲んでいた。


「そういえば、あの人は辞めないよね」


 一人が、食堂の端にいる男を見た。


 男は床へ落ちた米粒を拾っていた。


「辞めなさそう。何にも考えてなさそうだもん」


「怒らないし、文句も言わないし。勤務代わってって頼んだら、だいたい代わってくれるしね」


「扱いやすいっちゃ、扱いやすいよね」


「でも、何考えてるか分からなくて、ちょっと怖くない?」


「分かる。利用者に怒鳴られても、顔ひとつ変えないし」


「この前、主任に怒られてたときも、ずっと同じ顔してた」


「聞いてなかったんじゃない?」


「いや、返事だけはするの。はい、はい、って」


 二人はまた笑った。


「良くも悪くも、空気みたいな人だよね」


 老婆は湯呑みを置いた。


 少し大きな音がした。


 二人の職員が会話を止め、老婆を見る。


「お茶のおかわりですか?」


「いらん」


「じゃあ、お部屋へ戻ります?」


「まだ戻らん」


「でも、お食事は終わってますよね」


「飯が終わったら、さっさと部屋に帰らなあかん決まりでもあるんか」


「そういうわけではないですけど」


「ほな、放っとけ」


 職員は顔を見合わせた。


「ここにいられると、片づけができないんですよ」


「わし一人座っとったら、床も拭けんのか。えらい狭い食堂やな」


「皆さん、お部屋へ戻られてますから」


「皆さんが首くくったら、わしにも縄持ってくるんか」


「そんな言い方しなくてもいいでしょう」


 職員の声から、笑顔が消えた。


 老婆は二人を見上げた。


「年寄りは耳も頭も悪いから、何しゃべっても分からん思うとるんか」


 二人の表情が変わった。


「別に、そんなことは」


「人の噂話するんやったら、せめて本人にも、ここにおる年寄りにも聞こえんところでやれ。仕事できんのを給料のせいにする前にな」


「私たち、仕事の話をしていただけです」


「ほうか。ほな、わしも独り言や」


 老婆は空になった湯呑みを持ち上げた。


「ここの職員は、よう口が動くわりに手ぇ動かんのう」


 一人が何か言い返そうとしたが、もう一人が腕を引いた。


「行こう。相手にしても仕方ないよ」


 二人は食器を載せた台車を押し、食堂を出ていった。


 扉が閉まる直前、小さな声が聞こえた。


「ほんと、感じ悪い」


 老婆は聞こえなかったふりをした。


     *


 午後、男は廊下の手すりを拭いていた。


 老婆は杖をつき、その後ろを歩いていた。


「ついてこないでください」


「誰があんたについて歩くか。こっちに用があるんや」


「そうですか」


「気にならんのか」


「何がですか」


「あんた、自分が何言われとるか知らんのか」


「誰にですか」


「職員にや」


「何か言われてましたか」


「知らんのかい」


「はい」


 男は布巾を裏返し、手すりを拭き続けた。


 老婆は呆れたように鼻を鳴らした。


「あんた、評判ええわけでも悪いわけでもないんやな」


「そうですか」


「空気みたいな存在やて」


「そうですか」


「腹立たんのか」


「特には」


「わしは腹立ったで」


 男は初めて手を止め、老婆を見た。


「あなたが言われたわけじゃないでしょう」


「せやから余計に腹立つんや」


「どうしてですか」


「知らん」


 老婆はそれきり黙った。


 自分でも、なぜ腹が立ったのか分からなかった。


 男が笑われたからではない。


 男を可哀想だと思ったわけでもない。


 ただ、本人のすぐそばで、聞こえても構わないように話す職員たちの顔が気に入らなかった。


 この男なら、聞いても怒らない。


 傷つきもしない。


 だから何を言ってもいい。


 そう思われていることが、妙に腹立たしかった。


「なあ、兄ちゃん」


「はい」


「どういう育ち方したら、あんたみたいなんができあがるんや」


 男は少し考えた。


「普通です」


「その普通を聞いとる」


「父親が働いて、母親が家のことをしてました」


「兄弟は」


「いません」


「金持ちか」


「違います」


「貧乏やったんか」


「食べるものと、寝るところはありました」


「欲しいもんは買うてもろたか」


「必要なものは」


「大学は」


「行ってません」


「頭悪かったんか」


「普通です」


「ほな、なんで行かんかった」


「金がかかるので」


「親に言われたんか」


「自分で決めました」


「行きたい大学はなかったんか」


「探してません」


「やりたい仕事は」


「特には」


「ほんまに、何にもないな」


「そうですね」


「子どものころからか」


 男は答えようとして、やめた。


 子どものころ。


 何が好きだったのか。


 何を欲しがったのか。


 何になりたかったのか。


 急に聞かれても、何も浮かばなかった。


「覚えてません」


「親に殴られたことは」


「ないです」


「飯抜きにされたことは」


「ないです」


「学校でいじめられたか」


「たぶん、ないです」


「病気は」


「してません」


「ほな、幸せやったんか」


 男はまた考えた。


「不幸ではなかったと思います」


「そうか」


 老婆は、男の顔を見上げた。


 いつもと同じ、何も浮かんでいない顔だった。


「誰が見ても分かる不幸は、まだましや」


「どうしてですか」


「自分でも不幸やと分かるからや。逃げたいとも、助けてほしいとも思える」


 老婆は廊下の先へ目を向けた。


 車椅子に乗った老人が、職員に押されてこちらへ来る。老婆と男は、道を空けるために壁際へ寄った。


「誰も気づかん不幸が、ほんまもんの不幸やな」


「誰も、ですか」


「周りも。本人もや」


 車椅子が二人の前を通り過ぎた。


 乗っている老人は眠っていた。


 職員は老婆と目を合わせなかった。


「不幸やと気づかんかったら、そこから出ようとも思わん。そもそも出る場所があることも知らん」


 老婆は男を見た。


「あんた、自分が不幸かどうかも分からんのやろ」


 男は答えなかった。


 分からなかった。


 考えたこともなかった。


 食べるものはあった。


 眠る場所もあった。


 殴られたことも、追い出されたこともない。


 いまも働いている。


 給料は少ないが、家賃を払える。明日食べるものも買える。


 それなら不幸ではない。


 そう思う一方で、自分を幸せだと思ったこともなかった。


「まあ、ええわ」


 老婆は杖を突き、歩き出した。


「わしには関係ないしな」


「聞いたのは、あなたですけど」


「聞いて飽きたんや」


「そうですか」


「それしか言えんのか」


「そうかもしれませんね」


 老婆は振り返らず、片手だけを上げた。


 男は再び手すりを拭き始めた。


 不幸。


 布巾を動かしながら、その言葉を頭の中で繰り返した。


 自分は不幸なのだろうか。


 答えは出なかった。


 代わりに、ずっと忘れていた光景が、ぼんやりと浮かんだ。


 開かれた一冊の絵本。


 空を飛ぶ、色とりどりの龍。


 雨に濡れた黒い身体へ、雲の隙間から差し込む光。


 そして、頬を流れた涙。


 男は、手すりを拭く手を止めた。


 自分にも、泣いたことがあった。


 たった一度だけ。


 それが何年前のことだったのか、男はすぐには思い出せなかった。

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