別に
第三章 別に
老婆が入居して一週間が過ぎた。
その間に、彼女はほとんどの職員から嫌われた。
「風呂の時間ですよ」
「昨日入った」
「昨日は入ってませんよ」
「わしが入った言うとるんやから、入ったんや」
「記録では三日前になっています」
「ほな、記録を風呂に入れたれ」
入浴を拒み、職員を困らせた。
「お薬ですよ」
「なんの薬や」
「血圧のお薬です」
「名前は」
「少し待ってくださいね」
「自分が何飲ませとるかも知らんのか」
答えられない職員を鼻で笑った。
「今日は娘さん、来られないそうです」
「来てほしい言うたか」
「でも、残念でしょう」
「勝手に捨てて、勝手に残念がるな」
気遣った職員の言葉も、容赦なく切り捨てた。
初めのうちは、皆が笑顔で対応していた。
入居したばかりで不安なのだろう。慣れない環境で気が立っているのだろう。しばらくすれば落ち着く。
そう言い合っていた。
しかし老婆は、落ち着かなかった。
一週間もすると、職員たちは老婆の部屋からナースコールが鳴るたびに、誰が行くか互いの顔を見るようになった。
「また鳴ってる」
「さっき行ったばっかりなんだけど」
「今度は何?」
「知らない。私、排泄介助あるから」
「私も記録残ってる」
言葉遣いは崩さない。
必要な介助もする。
けれど、声には出さないものが、顔や手つきに少しずつ現れていた。
部屋へ入るまでの足取りが遅くなる。
返事が短くなる。
水の入ったコップを置く音が、ほかの利用者のときより少しだけ大きくなる。
老婆は、それらに気づいていた。
気づいたうえで、何も変えなかった。
*
「兄ちゃん、便所」
午後の清掃中、廊下を歩いていた男は呼び止められた。
老婆は杖をつき、女性用トイレの前に立っていた。
「行けばいいじゃないですか」
「掃除中やろ」
「一つは使えます」
「床が濡れとる」
「こっちは拭き終わってます」
「滑ったらどうする」
「支えます」
「わしに触るんか」
「必要なら」
「いやらしいな」
男は老婆を見た。
「漏れますよ」
「漏らしたら、あんたが片づけるんやろ」
「片づけますけど、着替えるのはあなたですよ」
老婆は男を睨み、それからトイレへ入った。
「外にいますから、終わったら呼んでください」
「逃げるなよ」
「仕事中なので逃げません」
「仕事やなかったら逃げるんか」
「帰ります」
「正直すぎるやろ」
男は返事をせず、清掃用のモップを壁へ立てかけた。
しばらくして、トイレの中から老婆の声がした。
「終わったで」
「立てますか」
「まだそこまで耄碌しとらん」
老婆は自分で衣類を整え、手すりにつかまって立ち上がった。
男は扉の外へ下がる。
老婆は手を洗いながら、鏡越しに男を見た。
「女の便所を男が掃除するかね」
「しますよ」
「若い女が入ってきたらどうする」
「ここには、そんなに若い人は来ません」
「失礼なやつやな」
「事実です」
「変態やと思われるで」
「制服を着てるので、職員だと思われます」
「制服着た変態かもしれん」
「その場合は、上司に言ってください」
老婆は手についた水を振った。
細かな水滴が、鏡と洗面台へ飛んだ。
「また掃除が増えました」
「それが仕事や」
「そうですね」
男は布巾を取り、洗面台を拭いた。
老婆は出ていかず、その様子を眺めていた。
「あんたも大変やな」
「そうですね」
「朝から年寄りの尻拭いて、便所磨いて、飯食わせて。わしみたいな厄介な利用者の相手までさせられて」
「はい」
「うんざりやろ」
「別に」
男は便器の蓋を上げ、洗剤をかけた。
老婆は壁にもたれた。
「別に、ばっかりやな」
「そうですか」
「わしのこと、嫌いやないんか」
男の手が止まった。
考えるほどのことでもないはずだった。だが、聞かれた以上は答えなければならない。
「好きではないです」
「そこは嫌いや言うとこやろ」
「嫌いでもないので」
「腹立たんのか。わし、あんたらが腹立つように言うとるんやで」
「そうなんですか」
「気づいてへんかったんか」
「嫌な言い方をする人だとは思ってました」
「同じや」
「でも、俺が怒っても仕事が増えるだけなので」
老婆は眉を寄せた。
「我慢しとるんか」
「特には」
「ほな、なんで怒らん」
「怒るほどのことじゃないからです」
「わしが何言うてもか」
「たぶん」
老婆は男の横顔をじっと見た。
男は便器の内側をブラシで擦っている。
怒りを堪えているようには見えない。無視しているわけでもない。老婆の言葉を聞き、そのたびに答えている。
しかし、何も残らない。
石を投げても、水面に波紋すら広がらない。そんなふうに見えた。
「家族は」
「います」
「仲ええんか」
「普通です」
「友達は」
「今はいません」
「女は」
「いません」
「欲しいと思わんのか」
「特には」
「楽しいことは」
男はブラシを動かしたまま、しばらく黙った。
「思いつきません」
「やりたいことは」
「ないです」
「欲しいもんは」
「別に」
老婆は口を閉じた。
男は洗剤を流し、便器の縁についた水滴を拭き取った。
「終わりました。もう使えますよ」
「あんた」
「はい」
「死人みたいやな」
男は掃除道具をまとめた。
「生きてますよ」
「息しとるだけや」
「そうかもしれませんね」
老婆は、男が怒るのを待った。
せめて、むっとした顔をするのを待った。
けれど男はいつもと同じ顔で、モップを持ち上げただけだった。
「部屋に戻りますか」
「まだええ」
「そうですか」
「腹立たんのか」
「何がですか」
「死人言われて」
「事実じゃないので」
「息しとるだけは」
男は答えなかった。
その代わり、一度だけ老婆を見た。
何かを考えたようにも見えたが、それが何かは老婆にも分からなかった。
「廊下、滑るので気をつけてください」
男はそれだけ言って、清掃用具を持ち、隣のトイレへ入った。
老婆はしばらく、その場に立っていた。
「そうかもしれません、か」
誰に聞かせるでもなく呟く。
廊下の向こうから、ほかの職員が歩いてきた。老婆の姿を見ると、ほんの一瞬だけ嫌そうな顔をし、すぐに笑顔を作った。
「どうされました? お部屋へ戻りますか?」
「戻らん」
「でも、ここに立っていると危ないですよ」
「ほな、あっち行く」
老婆は杖を突いて歩き出した。
背後では、男が床を磨く音がしていた。
老婆は一度も振り返らなかった。




