始まり
その天使は、出来損ないだった。
飛ぶのが遅い。羽ばたきはいつも一拍遅れて、風を掴む前に落ちる。光を操る祈りは途中でほどけ、魔法陣は描ききる前に霧散した。天界の誰もが当たり前にこなすそれらを、彼は一つとして満足に扱えなかった。
「どうして?」
それが彼の口癖だった。
どうして羽はあるのに飛べないのか。どうして祈りは届く前に壊れるのか。どうして、同じ天使なのに自分だけがこうなのか。
問えば問うほど、世界は沈黙した。沈黙は答えにならず、ただ重さだけを増していった。
訓練場の隅で、彼は一人、何度目かの落下から立ち上がる。白い床には、彼の羽ばたきが残した微かな傷だけが増えていく。
「また失敗か」
誰かの声が遠くで笑った。
笑いは悪意ではなかった。ただ当然のような、空気のような響きだった。それがいちばん堪えた。
彼はもう一度、翼を広げる。
飛べ、と願う。祈る。魔法を思い描く。すべてを正しく、完璧に。
だが世界は応えない。
そのときだった。
訓練場の境界、光の柱の影に、ひとりの老人が立っていた。
天界には似つかわしくない存在だった。羽もなく、光輪もなく、ただそこに“いる”というだけの、異物のような静けさをまとっている。
老人は彼の失敗を一通り見てから、ぽつりと言った。
「お前は、飛ぼうとしているな」
「……見ればわかるでしょう」
「見ても、わからぬ者も多い」
老人はゆっくりと歩み寄る。足音はないのに、確かに距離が縮まっていく。
「どうして、飛べないと思う?」
その問いに、彼は一瞬言葉を失った。
どうして。
また、その言葉だ。
「……才能がないからですか」
「違う」
即答だった。
あまりにも迷いのない否定に、彼は逆に息を詰まらせる。
老人は、彼の翼を見上げた。壊れた羽根でもなく、欠けた光でもなく、ただ観察するように。
「お前はまだ、“飛び方”しか知らない」
「……飛び方、しか?」
「そうだ」
老人は少しだけ目を細める。
「飛ぶとは何かを、お前はまだ考えたことがない」
その言葉は、彼の胸の奥に落ちたまま、すぐには意味を持たなかった。ただ確かに、今までの失敗とは違う場所が痛んだ。
老人は背を向ける。
「明日もここへ来い。飛び方ではなく、“飛ぶとは何か”を考えてからな」
それだけ言うと、影はゆっくりと光に溶けるように消えていった。
残された彼は、初めて「どうして?」ではなく別の問いを抱いた。
――飛ぶとは、何だ?
羽は、静かに震えていた。




