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goodbye MR ライディ  作者: 富永 真一
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記憶に漂う

 入り口近くにいた銀行員が走り寄るのが分かった。若い行員は気づいたときには男のすぐ傍らにいて、男の体を立ち上がらせた。


別に手を借りなくても立てるさ

でも彼には彼の立場がある

相手を立てることも大切なことだ

ありがたく力を借りようではないか


男は部下を育てる上司のような目線で彼を見上げた。その華奢な行員が自分の体を予想より遥かに容易に持ち上げたことに男は驚いた。彼は自分の体を棚に人形をそっと置くようにに柔らかなカーペットの上に立てせた。男は自分の体を立ててくれたことよりも、壊れかけた自分の体を丁寧に扱ってくれたことに、丁寧に礼を言った。


「ありがとう」


男はもう自分の体が長くはないことをどこかで知っていた。若い行員は男に正対し深く頭をさげた。


「いえ、とんでもございません。お怪我はございませんか?」


「だいじょうぶ」


「いらっしゃいませ」


大きすぎずしっかり響く客を迎える挨拶とはいつも気持ちよい。蒸し暑さから逃れた解放感とその心地よいもてなしとが、少し前に負った痛みを軽くさせ、男の表情を緩ませた。


 入って正面が窓口、その左に並ぶようにして二台のATMがある。ATMの前にあるソファに座った。自分の体を心配している視線を感じはしたが、気にした素振りを見せず上着のポケットから、櫛を取り出し、乱れた前髪を後ろに流した。次にシャツのポケットから取り出したタバコに火を点け、一思いに吸い込んだ。吸い込んだタバコが一瞬にして全身を駆け巡り無数の細胞を蘇生させていく。


疲れと痛みを吐き出すように、男は吸い込んだタバコをゆっくりと吐き出した。生き返った細胞は、若き日の自分を覚えているのか、腹の底から自分を動かす何かが頭を擡げた。


何と素晴らしいひと時だろうか。エアコンの風が頬を撫で、そのまま煙をどこかへ運んでいく。いつかの春の河川敷の景色がふと男の目の前に広がった。煙は春の風に運ばれて、すぐに空に吸い込まれていく。自分の右側から、声がした。


(何でそんなに美味しそうにタバコを飲むのかしら)

(なぜだろうな)


羨ましそうに笑う女が自分を見ている。この女は確かに俺の女だ。この女と一言交わすごとに体の芯から湧き出て来る力の塊が体を突き破りそうになる。その衝動を抑えようとするように次の一言を口から吐き出そうとしたが、言葉にならず、息だけが漏れた。強い風が吹いた。まだ咲ききらない桜の花びらが舞い、二人を包む。二人だけが世界にいると男は思った。


(君も飲むかい?)


ようやく出てきた言葉だったが、どこか自分から遠く離れたところから自分の言葉が出ているようで、自分は腹話術の人形になったように、腹の奥のほうからの力に操られているのではないかとすら思う。気を抜くとふとした拍子に自分の体の中に潜むその獣に自分が乗っ取られてしまうのではないか。男は得体の知れない恐怖の中にあった。その恐怖はすぐにでも動き出して暴れることはないが、少しずつ自分を蝕んでいくような静かな恐怖を男に覚えさせていた。しかし、例えその獣に乗っ取られてしまっても、決して不快ではないとも思った。


(そんなことできるはずないわ)


女は笑いながら、持ってきた袋の中から弁当箱を出した。弁当箱一杯に白米が詰められ、梅干が中央に埋めてあるいつもと変わらぬ弁当だ。女が鞄から出てきた弁当を渡す。笑った口からこぼれる左側の八重歯が愛おしい。腹の奥からの力に自らを許すとこの女を壊してしまうのではないか、とてつもない恐怖感に男は身震いした。男の火照った頬をまだ若い春の風が冷ました。結婚したばかりの頃、その八重歯が抜けたらくれと彼女に頼んだことがあったが、八重歯が抜けると精気が落ちるから、抜けたら私は死んでしまうと、彼女は笑った。


(お前が死んだら俺も死のう)


その笑顔からこぼれた八重歯に耐えられず、そう言ってその場で彼女を抱いた。


                 つづく


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