誰もいない夏に鳴く
耳を劈くくクラクションに我に返った。気がつくと男は歩道から車道に上半身をはみ出すようにしてうつ伏せで倒れていた。
しかし、転んで打ったとところにあまり痛みはなく、出血もしていないようだ。傷は小さい。しかし、一体何が起きたのだ。男が巡らせた考えが何かを引き当てるより先に男の耳に誰かの声が聞こえた。首を持ち上げると大型のトラックの前面が見えた。降りてきた運転手は厳つい顔に似合わず柔らかい声で男を気遣っていた。運転手は路肩まで男に肩を貸し、救急車を呼ぶかどうかを聞いた。
「だいじょうぶ」
ゆっくりと聞こえたその声は自分の声だった。意識が飛んだのは思いのほか短い間だったようだ。
大丈夫―。
男は自らに言い聞かせるように次の言葉を吐いた。
「アハハハ。私は満州から、足に弾丸を受けても帰ってきましたから……」
続けようとした男の側にはもう髭の中に厳つい鬼瓦のような顔がある運転手の姿はなかった。微かな木洩れ日もその下に許さない鬱蒼とした木々の下では、初夏の風も冷たく、男の体から熱を奪っていく。男は自分の指先が冷たいことを知った。路肩にかけたまま、男は一本タバコをゆっくりと吸った。ゆっくりと吸えば吸うほど時間をゆっくりと流すタバコだった。
「女房のために帰ってきたんですよ。はるばる満州からです」
トラックの運転手に言いかけた言葉を、男は煙と一緒に吐き出した。男の言葉に、数日前から鳴き始めた蝉の声が応えていた。男は箱に残った最後のタバコに火を点けた。妻の墓に供える花が坂を下ってくる車のタイヤに轢かれて辺りに散らかっていた。花を拾うのを諦めて、男は自分を覆っている木々を見上げた。
「お前たちの命はあと一週間か……」
今が時と、蝉が鳴き狂っていた。坂の下から吹き上げてくる風に木々の枝が揺れ、無数に重なり合った葉と葉の隙間を突き通す陽の光がきらきらと輝き男にも届く。眩しさに目がくらんだ男は風の中に、何度も嗅いだ夏の匂いを見つけた。坂の下の川辺の青い緑も夏の訪れを男に告げた。
つづく




