二百二十一章《確率》
「制約の言語回路」二百二十一章《確率》
「疲れたよ」
「お母さん? じゃないよね?」
「あれはお姉ちゃん」
姫離の言葉に明月はバツの悪そうに笑った。「お姉ちゃん傷つくだろうな」
「ごめん。背が高かったね」
「私より五センチ高い。美人に見えた?」
明月はうなずいた。「私と、どっちが綺麗?」
半ば予測できたせりふではあるけれど、本当に姫離がそんなことを言うとは信じられなかった。
「姫離の方が、どこか優美だ」
その回答に、姫離は満足と不満を併せて覚えた。
優美という語彙選択は嬉しかったが、綺麗なのは姉の妃君の方だという含意に、不満はあった。
拗ねてみると向こうもきまりが悪そうで「本屋でも行かないか? と聞きたかったんだ」と言った。
姫離はじたっと明月を見つめ、それからしばらく考えて、それを断った。
「女の子の気まぐれだから、気にしないで」
そう言ってあげてもよかったけど、姫離はそこまで親切ではなかった。
「そうか。じゃあまた誘うよ」
明月は席を立って手を振って別れた。
カフェは彼がいなくなっていくらか寂しくなったように思えた。
***
部屋に戻ると飛海がパソコンでゲームをしていた。
イヤホンをつけていたけれど姫離には気づいて、目の端で会釈した。音声チャットをしているから、かなりやかましい。
飛海の話している語彙が砕けていて、姫離にはわからなくなっている。
姫離はベッドに入るとまだ午後五時になるかならないかくらいなのに眠りについた。
目覚めたのは八時だった。
「ひめー、ご飯どうする?」
「フェイ、ひめって言わないで」
「ふふ。なんで?」
「なんとなく嫌な思い出があるの」
「そう? ひめっていい響き」
姫離はベッドから起き上がると、キャップをとってかぶった。「お化粧しなくていいのー?」
「それ、冗談でも喧嘩になる」
「悪かったって。姫離は化粧しなくても可愛いのに」
「周也みたいにナチュラルじゃないの」
「何言ってんだか。昔の女優さんでしょ? 女優と競ってんの?」
「悪い?」
「いいや。全然。姫離はそれだけの存在だよ」
食堂は明々と光り、まだ大学は眠っていない。
「火鍋にするー?」
「そうするか」
「姫離はかなりの健啖家」
「そうかも」
手首につけていた髪ゴムで、姫離は髪を結いて、大盛りの白米と山椒の効いた火鍋で、肉や野菜を食べていった。
姫離は寡黙な方なのに、飛海といるとなんとなく話すことがあるみたいで、楽しく食事ができた。飛海には感謝しているが、何を感謝しているのかは、あまり理解していなかった。
というか、そういうことを言語化して自恃の気持ちを持つのは大概男の子で、女の子はそういうところに特別の論理を持ち込まない。
なんとなく嬉しいな、という感情に説明をつけるほど「堕して」いない。姫離にとって言葉は、時に応じて献上される異民族の朝貢品に他ならない。
だからといって感じることが得意かというとそうでもないし、言葉を使わないわけでもない。
「やっぱりそうじゃないか。お前は単なる人間だろう?」
そういうふうにカテゴライズする輩は、笑い飛ばすまでもない。無視するのも可哀想で、何もわかっていない。
論理では姫離の何も覆すことができない。説明のほとんどは説明の理由という点では「こうあって欲しい」という願望にしか依拠していない。明確にある姫離という他者に根ざすためには、なんとかして自分を離れなくてはならない。
姫離の食べ方を見ればそれは明らかで、振る舞いはまるで劇みたいだった。動きが奇矯というわけではない。鮮やかというほどでもない。美味しそうに食べている。
それを動物的で可愛いとか、女の子らしくて可憐だとか、わざわざ言う必要があるだろうか。
姫離の食べっぷりに飛海はいつもにこにこして、何を言うこともなくまた彼女も劇の中に身を投じる。
波状のアウラは果てもなく外へと広がる。彼女が滑らかに演舞すると、周囲は必ず呼応する。
「ああ、美味しかった」
からっと火鍋が片づけられた。
***
二人で図書館に行って勉強する。
「ねえ」
目の前の飛海がチャットしてきた。
「なに?」
「姫離の家ってお金持ち?」
「う? まあ割と」
「お金持ちになるためにはどうしたらいいの?」
「大陸ではどうなのかわからないけど、人が面倒だと思うことが苦なくできる人が、お金持ちになる」
「重山大は、私の中ではかなり難しい大学だけど、それでも、城市大や海城大には遠く及ばない」
「私の前の彼氏は、私と同じくらい勉強ができなかったけど、結局島国で一番優秀な大学に行った。私の中では彼は私と同じ落ちこぼれだし、たぶん本当に落ちこぼれだと思う。私がそう信じたいってだけなのかもしれないけど。何が言いたいのかっていうと、学歴では頭がいいかどうかははっきりとはわからない」
「姫離が落ちこぼれ? そんなことないでしょ」
「そんなことばかりだよ。話が戻るけど、お金持ちになるには、だっけ?」
「うん」
「他人がいくら稼いでいるか気にならなくなったら、それはきっとお金持ちってことじゃないかな。だから、自分の仕事に集中して、夢中になればいいと思う」
「なんのために勉強するの?」
「フェイの中では、それはお金持ちになるためってことじゃないんだ」
「全部ばらばら。ぶつ切り。体系なんてあったもんじゃないよ、姫」
「理由っていうのは単なる前後関係だから」
「またまたぁ。そうやって姫離はいつも」
「私はカジノで全てを学んだの。次にスペードが来て欲しかったら、全ての山札の枚数から、今まで出てきたスペードの枚数を引いて、確率を計算する。確率が高ければ、私の願望にはより濃厚な前後関係が生まれる。もちろん、外れることもある。でも、私が勝つと決めたポーカーで、確率を計算した後に外れたことはただの一回もない」
「どういうこと?」
「確率ってほとんど現実ってこと。私の体を構成する量子だって確率が存在の論拠だから。存在の濃度を示しているに過ぎない」
「つまり、お金持ちになれるかは確率の問題ってことね?」
姫離は半分うなずいた。
「確率的に有利である場所に陣取るだけ。要するに戦争と一緒。勝つためには山に布陣する」
ぽんとペンを投げ、飛海は水筒の茶を飲むと、しばらく机に突っ伏して眠った。
姫離はそこでしばらく勉強していた。かりかりと。かりかりと。
しばらくして起きた飛海が言った。
「隣で頑張っている人がいる間に寝ることは、こんなに幸せなのね」
「友達は友達の代わりに頑張る。私は、頑張っているわけじゃないけれど」
「やるかね」




