第二幕:巫女姫のご主人様
世話役、といってもすぐに儀式が行われるわけでもないので、現時点でわたしに割与えられた仕事はそう多くはありませんでした。シシア様はご自分のことは何でもお出来になりますし、マルディシオンのお手入れもシシア様でなければ許されておりません。
今のところのわたしの役割は、三つです。まず一つ目は、シシア様とマルディシオンの日々の記録を付けることでした。
お二方の記録は、代々の世話役が欠かさず続けてきたことです。長い年月を過ごしていらっしゃるので、当然その記録は膨大な量でございました。ですが新米のわたしには有難い資料です。彼らのことを知り、学ぶにはいい機会だと思い、一番最初の記録から読み始めることにしたのです。
わたしは一番古そうな巻物型の日誌を手に取りました。しかしこれが困ったことに、綴られている文字が全て昔の言葉。古代文字は学んでおりましたが、古代神官文字も混じっているため、残念ながら今のわたしには読めません。わたしのやるべきことに、古代神官文字の学習という項目が増えた瞬間でした。
二つ目の役割は、神官様とシシア様の連絡係りです。決まった時間に神官様の元に参って書簡を預かり、神の間にいらっしゃるシシア様へとお届けするのが日課でございました。
「シシア様、本日の書簡でございます」
わたしが伺うと、シシア様はくつろいだご様子でマルディシオンのお背中に寄りかかり、本を読んでいらっしゃいました。
今日はどうやら休息の日のようです。そしてこんな時には決まってシシア様はこう仰るのです。
「ありがとう。ねえ、ちょっと話していかない?」
これが三つ目の役割、シシア様のお話し相手です。役割というには少々大げさかもしれませんが、これも大事なお役目なのです。
「そういえばリノスは暇な時間、何をしているの?」
「今は勉強です」
「偉いね。何のお勉強?」
「古代神官文字です。昔の文字なので難しくて……。シシア様ならお分かりになりますか?」
「ごめんね。昔の神官文字は解らないの。ラズモアが詳しいんだけど、今は眠っているから……」
シシア様はゆったりと微笑み、マルディシオンの柔らかそうな銀の鬣に顔を埋めました。安心しきったように身をゆだねるお姿からは、彼の神に対する親愛が伝わってくるようでした。巫女は神の花嫁ですし、お二方が過ごした年月は人の寿命より遥かに長いもの。きっと彼らには深い絆があるのでしょう。
ですがわたしには気がかりなことが一つありました。それは
『シシア様とマルディシオンの間に、何があっても決して恐れたり動じたりしないこと。災いは決してお前の上に降り注ぐことはないのだから』
という祖母の教えです。まるでお二方の間に、恐ろしいことが起こっているかのような言葉でした。今の安らいだご様子からは想像もつきません。
祖母の言葉を理解したのは、それからすぐのことでした。
その時は唐突にやって参りました。シシア様との談笑中に聞こえた、グルル、という唸り声。微かなものでしたが、腹の底に響くようなぞっとする音でした。わたしは一瞬何が起こったのか解りませんでした。
「リノス、部屋を出なさい」
シシア様のお顔から笑みが消え、硬い声音で退出を促されました。それでわたしはようやく理解したのです。眠り続けていた獅子が目覚め、鎮めの儀式が始まるのだと。
わたしは弾かれた様に神の間から飛び出しました。同時に背後から凄まじい咆哮が上がり、次いで獲物にかじりついた時のような、聞くに堪えない恐ろしい唸り声が聞こえたのです。わたしは震え上がり、一目散で自分の部屋に駆け込みました。
恐ろしい獣の咆哮は一日中続きました。そこで何が行われているのか、シシア様はご無事なのか。そんなことを考える余裕もなく、わたしは部屋の片隅で布にくるまり、ただただ震えることしかできませんでした。
荒ぶる神の声が鎮まったのは、東の空が白む頃でございました。
シシア様の元へ行かねば。そう思うのに、怯えきって強張った身体はすぐには動いてくれません。必死に自分を宥め『災いは決してお前の上には降り注がない』という祖母の言葉を幾度も反芻して、ようやく立ち上がることができました。そして震える足を叱咤し、恐る恐る神の間に足を踏み入れたのです。
そこには「暴虐の限りを尽くした」という言葉がしっくりくるほどの凄惨な光景がありました。
真白き清浄なる神の居室は辺り一面朱に染まり、中央の血溜まりには変わり果てたシシア様のお姿。衣服は滅茶苦茶に引き裂かれ、お顔は蒼白でございました。まるで死人のように。
お傍では、マルディシオンがいつものように眠っていらっしゃいます。ただ爪や口許に血がこびり付き、白雪のようなお身体には点々と茶褐色の血染みが出来ておりました。それだけで、何が行われたかはもう明白でございました。
わたしの身体が再び恐怖に包まれ、ガタガタと震え出します。お声がけしようにも、歯の根が合わずにがちがちと音を立てるだけ。
シシア様をお助けしないと。でも声を上げたら、マルディシオンに気づかれるのではないだろうか。一体どうしたら……。
祖母の言葉はすっかり頭から消え、わたしは恐れに慄くことしかできない有様でございました。
「リノス……」
我に返ったのは、シシア様のか細いお声によってです。こんな状況だというのに、シシア様は微笑みを浮かべていらっしゃいました。
「初めて、見た人は皆、驚くの。でも、大、丈夫。もう、治っている、から、身体を、拭いて、くれる……?」
仰る通り、シシア様のお身体は血に塗れてはいましたが、傷は一切ありませんでした。ですが「治った」ということは、やはり獅子の牙と爪により御身を引き裂かれたということで間違いないのです。
果たしてその痛みはどれ程のものなのでしょう。不老不死のお身体でも、この方にも痛覚はあるのです。想像するだけで恐ろしく、シシア様がたまらなくお労しく思えて、わたしは涙が止まりませんでした。
白布でシシア様のお身体を拭いながら、わたしは尋ねました。
「これが、鎮めの儀式なのですか……?」
「うん」
なんということでしょう。ではシシア様はいつもこのような目に遭っていらっしゃるというのでしょうか。これではまるで、生贄のようではありませんか。
しかし肯定なさったシシア様のお顔に、お辛そうなご様子は見受けられません。慣れてしまわれたのでしょうか。慣れるものなのでしょうか……。
全てを清め、お着替えを済ませたシシア様は、マルディシオンの元に跪きました。
「ラズモア、身を清めるのが遅くなってごめんね。今から綺麗になろうね」
シシア様は優しい手つきで、湯に浸した布で汚れを拭ってゆかれます。そこには憎しみも、恐れも、怒りも一切見当たりません。あるのは溢れんばかりの慈しみに満ちた穏やかな眼差しです。
何度もあのような仕打ちを受けて、何故そんな風に接することができるのでしょう。わたしには全く理解できませんでした。




