カタラ神殿前にて
六百年の歴史を誇る西南の大国、ヘスペリデス。その首都の中心には、街を見下ろすかのように白亜の宮殿が建っている。長い治世を敷いた巫女姫と戦神マルディシオンの住処、カタラ神殿。この国を代表する歴史的建造物である。
百五十年ほど前まではそこで政が行われていたが、技術の進歩、神殿の老朽化、歴史ある建造物の保護、様々な要素が重なり合って、政治の中心は他に移された。住む者のいなくなったそこは、今では立派な観光名所として旅行客の獲得に役立っている。
十二月某日。
穢れを知らぬようなまばゆい白の聖域は、今日も観光客で賑わっている。といっても厳粛な空気が漂う神殿なので、皆雰囲気に飲まれるのか上げる声も密やかだ。むしろ賑々しいのは、神殿の周りに軒を連ねる店々である。商売人たちが一人でも多く客を呼び込もうと、めいめいの方法で精を出しているのだ。
中には見慣れぬ民族衣装を着て呼び込んでいる者もいる。その衣装は、カタラ神殿の古式ゆかしいお仕着せ法衣である。今では身に付ける者などほとんどいないため、法衣を着た少女はかなり目立っていた。
「劇団クラディの『巫女姫と銀の獅子』本日から公演が始まりまーす! カタラ神殿の主たちの物語に新しい解釈を加えて演じています! 是非観に来てくださーい!」
今しがた神殿から出てきた人々が目を止め足を止め、少女の手からビラを取っていく。近々巫女姫関連の盛大な祭典を控えている所為か、はたまた少女の愛嬌も手伝ってか、チラシはあっという間に無くなった。
これでいっぱいお客さんが来てくれれば上々なんだけど。
少女はそんなことを思いながら、木陰のベンチに腰を下ろして水筒を取り出した。声を張り上げたせいで喉がカラカラだった。一気に水を飲み干し背もたれに寄りかかる。すると視界の端に真っ黒な人影が見えたので、何気なく顔を傾けた。
隣では黒一色の服を身にまとった青年が、スケッチブックに絵を描いていた。それだけなら別にどうということもないのだが、端正な容貌の青年だったので、少女は年頃の娘らしく目を惹かれた。
青年は集中しているのか、少女の視線に気が付かない。彼女はそれをいいことに、しめしめと彼を眺め続けた。
肌、白いなあ。この辺の人じゃないのは一目瞭然だ。多分北の方から来たんだろうな。絵描きなのかな。
そっとスケッチブックを覗き込む。描かれているのはカタラ神殿だ。木炭の濃淡をうまく使い分け、写実的に描いている。まるで本物が目の前にあるみたいだ。
少女には絵のことは分からない。でもこれは――
「凄い上手……」
思わず声に出てしまう。すると青年が顔を上げて微笑を浮かべた。
「どうも」
そしてスケッチをやめて片づけ始めてしまったので、少女は慌てて声を上げた。
「あ、ごめんなさい、邪魔しちゃって。あたし、もう行くから気にしないで……」
「いや、腹が減ったからそろそろ昼飯に行こうと思ってたんだ。いい店あったら教えてくれるかい?」
中々気さくな青年のようだ。少女は目を輝かせてここぞとばかりに喰いついた。
「もちろん! じゃ、連れてってあげる!」
* * *
少女がお勧めしたのは、街の中心から少し外れたカフェだった。ここの目玉は具沢山のスープ類だ。冬だし身体が温まるものの方がいいだろうと思っての選択である。
クリームシチューをひとさじ口に含んだ青年は、口元をわずかに緩ませた。
「美味いね」
「でしょ。ね、スケッチブック見てもいい?」
「いいよ」
青年の手からスケッチブックを受け取り、少女はわくわくしながらページをめくった。
スケッチブックには様々な風景が描かれていた。ヘスペリデスの街や商店街、海に浮かぶ蒸気船、海辺の町、城塞都市、お城、山間の町。どれも見事な出来栄えだ。この国から出たことがない少女にとって、異国の風景は新鮮で面白い。段々楽しくなってきて、次々とページをめくる。そして少女は手を止めた。
「あれ、最初の方のページだけ色が付いてるんだ」
描かれていたのは小さな村と深い森、それから湖と花畑だ。色鮮やかで美しい場所だった。
「家にいた時に描いたものだから」
「へー。じゃここがあなたの故郷なんだ。綺麗なとこだね」
「まあね」
「色んな所に旅してきたのね。絵描き志望なの?」
「いや。これは単なる旅の記録に過ぎないな。俺自身は探し物をしているだけ」
「何を探してるの?」
「うーん……。自分探しの旅、かな」
「優雅だなあ。おにーさん、裕福な家のお坊ちゃまなんでしょ」
「裕福だったらこんな小さな村に住んでないさ。仕事しながら各地を転々とね」
「そっかあ。じゃあそのうちまた旅に出ちゃうの?」
「そのつもり」
なーんだ。少女はちょっとがっかりした。こんなかっこいい人、滅多にお目にかかれない。あわよくば、みたいな思いもあったのだ。
でもここにいる間くらいは仲良くできればいいな。上手くすれば付き合えるかもしれないし、彼の考えも変わるかも。
すぐに思い直した少女はバッグからチケットを取り出して、青年の目の前に差し出した。
「良かったらこれ観に来てよ! ヘスペリデスの観光記念に、ね?」
「へえ。君、演劇やってるんだ」
「そ。あたし、準主役なんだよ」
「凄いじゃないか。でもタダで上げちゃっていいのかい?」
「うん。もしここで仕事をする時があったら、宣伝してくれれば」
「面白かったらね」
「面白いわよ! 自信作なんだから!」
とは団長の言である。少女自身、物語の内容については「何かもやもやする」というのが感想である。まあ好みは人それぞれだし、中にはこういうものを良いと思う人もいるのかもしれない。ただ演技には自信があったので、その点だけを考えて胸を張ったのだ。
「あっ、もうこんな時間!? そろそろ行かなくっちゃ!」
店の時計を目にした少女は慌てて立ち上がった。開演前に色々と準備があるし、ちょっとでも遅れたら団長にどやされてしまうのだ。
「チケットにも書いてあるけど、劇場ここのすぐ近くなの。あそこの突き当りを右に曲がってすぐの所だから! 絶対観に来てよ!」
威勢のいい声を張り上げて青年に向かって手を振る。そして少女は劇場に向かって走り出した。
彼女の姿が見えなくなると、青年はテーブルの上にチケットを置いて気怠げに呟いた。
「どうしようかな」
芝居なんて全く興味などなかった。むしろ苦手だ。人の大勢つまった室内というのがあまり好きではないのだ。しかし――
チケットに視線を落とす。そこには銀の獅子に寄り添う紺色の髪の娘が描かれている。タイトルは巫女姫と銀の獅子。そのすぐ下には「二人が最後に過ごした蜜月」という副題が付いていた。
銀の獅子、というのは戦神マルディシオンの事だろう。まばゆい銀の鬣に、雪のように白い体。体躯は並みの獅子と変わらなかったが、恐ろしく強く誰もが太刀打ちできなかったと、カタラ神殿の資料にも載っていた。そしてそれを唯一鎮めることができたのが、巫女姫だ。彼女もマルディシオンと共に戦い、ヘスペリデスを繁栄に導いたという。
彼らの話は様々に形を変え、書籍や歌にもなっている。そのどれもがほとんど戦の話だったが、この劇はどうも違うようだ。
しばらくの逡巡の後、青年はチケットを再び手に取りポケットの中に押し込んだ。
せっかくもらったチケットだ。ふいにすることもあるまい。どうせ目的なんて無いに等しいあてどない旅。時間はたっぷりあるのだから、たまにはいいだろう。
サービスでもらったコーヒーをじっくりと味わってから、青年はカフェを後にし、緩やかな足取りで歩き出した。
少女の言っていた劇場は、そこそこ大きな建物だった。入り口前で青年は眉を顰め、そして会場に入って憂鬱そうに溜息を吐いた。
客の入りは上々だった。何せ空いている席が数席しかない。座れそうなのは前列が一つに最後列が四つ。青年は迷わず最後列の一番隅にした。これなら中座もしやすかろう。
やがて照明が落とされて、赤毛の男が舞台に現れた。
「皆さま、本日は舞台『巫女姫と銀の獅子』ご来場下さりありがとうございます。劇団クラディの団長を務めております、ダイダロス・アレクシーウです。今回の公演は、ヘスペリデスの礎となった戦神マルディシオンと巫女姫の物語。ですが国造りや戦物語といった定番の話ではなく、眠りに就く前の穏やかな日々に焦点を当てた話となっております。いつもとは一風変わった彼らの物語、とくとご覧下さいませ」
そして物語の舞台が幕を開ける。