Da Capo-1.
冬の乾いて凍てつく空気が指先から、耳から、頬から熱を奪っていく。痺れて感覚が遠のいていく。代わりに自分の鼓動と呼吸を強く強く感じる。
クールダウンのためにトラックを周っているときが一番、自分の内側と向かいあうことができると気付いたのはいつ頃だっただろうか。たぶん一年前かそのくらい。教室で、グランドで、雑音が鳴りやまなかった頃だ。
円香も、走っている間こんな感じなんだろうか。
去年の冬、壊れるくらいに走り込んでいた元相棒を思い起こす。あれは自分以上に彼女が晒されていた雑音から逃げ出すためだと分かっていた。でも自分は彼女をどうやって助ければいいのか分からなかった。黙って、眺めて、ときどき冗談めかして体を壊すぞと注意するくらいしかできなかった。そして、実際に体を壊したと言って彼女は部活を休むことになった。本当は退部する予定だったのだと噂している女子部員の話を聞いた。真実のほどは分からないが、そうだったのかもしれないと思う。部活に出てない間も、一時怪我をしていた時期を除いては元気そうだったし、その件については顧問も口が重い。
円香は走るのが好きだと言っていた。本当に好きだった。だからか、陸上馬鹿の自分とも話があった。一年で入部したばかりの頃、体格の大きい先輩にどうしても敵わなくて焦っていたときには、励ましてくれた。それなのに、彼女は走る場所を追われた。
小松陽太はクールダウンを終えてナイター照明に照らされるグランドを見回した。自分がここで当たり前に過ごした時間。その間、彼女はどこにいたのだろう。ぼんやりとそんなことを思う彼の脇を、女子部のメンバーが「お先に失礼しまーす」と声をかけて通り過ぎていく。その中に、半年以上の休部を経て戻ってきた元相棒を見つける。他の部員と同じように挨拶して、陽太に笑いかけも、特別な視線を送りもしない。だから陽太も何も言えないまま彼女を見送る。
円香が高校二年の冬休みから部活に戻ってきたとき、陽太は正直なところ心底意外だと思ってしまった。もう二度と戻って来ないのかと思っていたのだ。きっと同学年のほとんどの部員がそう思っていたはずだ。しかし、彼女は飄々と帰ってきた。受け入れる側の戸惑いをよそに、怪我が治る前に階段から落ちて更に足を痛めたので思ったより復帰が遅くなってしまったと笑っていた。部員達の中には去年、直接的に彼女を誹謗した部員だっていたはずだ。だが、その本人も実際には円香にこれと言った恨みがあったわけではない。学年中、学校中に広まっていた熱病に罹ったように異分子と認定された彼女を攻撃しただけだ。最早、当時のような円香を追い詰めるような空気がない中で、改めて彼女を傷つける勇気は無いようだ。何も知らない下級生が円香とそれなりに人間関係を築いて行く中、同学年の部員はやりづらそうに円香を避けている。彼女はそれを敢えて見ない振りをした。本当に何もなかったように振舞う。それが、かえって部員の心をざわめかせる。陽太も例に漏れず胸の中にわだかまりを抱えたままだ。
陽太の他の部員と違うところは、もう円香に謝って心のおもりを取り除くという逃げ道を残されていないことだ。それは、夏の間に一度試みて、そして本人に真っ向から拒絶されている。
「今更、謝ったりしないで。」
傷ついた瞳で、冷たい声音で突きつけられた言葉は今でも忘れられない。
あれ以来、陽太の中には暗い滓が沈んでいて、ちょっとしたことで心の底で舞い上がるようになった。ただ、どうしてこんなに捕らわれているのか分からないでいる。
「あーあ。八坂先輩いいなあ。やっぱ超綺麗。」
一年坊主が去って行く女子部員を見送りながら情けない声をあげる。
「なんで俺が入学した時に部に居てくれなかったんだろう。あの彼氏できたの夏くらいですよね?あー、俺が春に先に出会っておけばなあ。」
お調子者の一年生は、入学当時の陽太に似ていると先輩達が言っていた。しかし陽太は円香を取り巻く二年生たちの緊張感に気づいている癖に敢えて円香の話題を振ってくる豪胆さは、当時の自分にはなかったと思う。
「去年、三年の先輩たちがいびり倒して追い出したって聞きましたよ。何してくれてんすか、もう。」
ここまでくると放っておくこともできない。男子部の部長が拳骨を落として黙らせた。
「適当なこと言うな。先生も言ってたろ。怪我だったんだよ。」
「えー。誰も信じてないですよ、そんなん。今だって先輩達、八坂先輩に対してだけ超ピリピリしてんじゃないすか。こないだ練習に顔出してくれた先輩も八坂先輩見たら目玉落っこちそうになってたもん。」
「いい加減にしとけ。」
部長がじろりと睨むと、さすがに口を閉ざした。それでも部室への戻りしな、グランドの脇に佇んでいる生徒を見つけてまた「あー」と天を仰いで声を挙げる。
「隙ゼロ。まじ隙がゼロ。」
寒い中、グランド脇で部活の上がりを待っている生徒はもう部員はみんな覚えてしまった円香の恋人だ。着替え終った円香が出てくるのを待っていて、毎日一緒に帰るので声をかける隙がない。何よりも、着替え終わった円香が毎日駆け寄って行く様子はどう考えても相思相愛で、心の方にも付け入る隙など無いのは明白だった。
「もっと早く出会いたかったあ。」
「だよなあ。」
ため息をこぼしてとぼとぼと一年坊主は更衣室へ向かっていく。
鍵当番を残して着替え終った者から三々五々とあがっていく。陽太は適当に出て行く部員に声をかけながら習慣になっているメールを送る。返信が返ってくるのを待ってベンチにかけていた腰をあげた。
「じゃ、俺もお先。」
「おつかれーっす。」
「おーっす。」
校門のところで柏木若菜が待っている。一緒に下校するのは付き合い始めてから変わらない二人の約束だ。
「お疲れ様。」
マフラーに頬を埋めながらにこにこと笑う若菜は、相変わらず小さくて可愛らしい。陽太はひそかに服に埋もれそうになる冬の方が彼女の可愛らしさが引き立つと思っている。挨拶代わりにマフラーに若菜を押し込むように強く頭を押さえこむと、不満そうに唸られた。
「もう、それ止めてっていつも言ってるのに。」
けれど髪の毛を直しながら陽太を見上げる目は笑っている。陽太も笑って彼女を見下ろして「そうだっけ?」ととぼけて見せる。
「もう!」
笑って陽太の腕を叩く若菜とじゃれあいながらバス停へ歩いていく。彼女は知り合った時から変わらず明るく、ふわふわして、練習がうまくいかなかった日も若菜とこうして話していると落ち込まないで済む。陽太はこのゆらゆらした放課後の休み時間が好きだった。並んでバスに乗り、さえずるように今日の出来事を話す若菜に相槌を打つ。
このまま、バスがどこにも着かなければいいのに。
いつか、陽太がそう言ったら、若菜は目を見開いて、それから頬を染めて彼の手をぎゅっと握った。陽太は、嬉しそうな恋人を見て続いた言葉を飲み込んだ。それを言ってしまえば興ざめのような気がしたから。だから胸の中だけで呟いた。
そうしたら、余計なことを考えないで済むのに。




