第三話【ステージ3】
「言うて、あの映像。ただのガキだろ?」
控え室のソファへ深く沈み込みながら、男は脚を組んだ。まるで記者に囲まれる海外スターみたいな気取った姿勢。そのくせ視線だけは、妙に攻撃的だった。
「伝説ねぇ……」
男は、スマホを眺めながら指先で画面を流す。
今や《NEXUS》公式配信のSNSには、アゼル・ヴァレンティスの話題で埋め尽くされていた。
「ハッ!伝説なんて便利な言葉で、勝手に神格化されてるだけじゃん」
男はそう言うと、スマホの画面を周囲へ向けた。
『本物だろこれ?』
『やばたにえん。鳥肌止まらん』
『帰ってきたのか?』
画面の向こうでは、勝手な確信ばかりが増えていく。
「……キモ」一瞥すると、男は鼻を鳴らす。
「いや、持ち上げられすぎだろ。コレ…」
「それな。伝説って便利だよな」
「今いたら普通に埋もれてそう」
周囲から小さな笑い声が漏れた。
誰も本気で比較しているわけではない。軽い同調。
しかしその全てがひどく滑稽に見えた。
「……うるさ」
不意に落ちた一言。
それまで気持ちよく続いていた同調が、そこで途切れる。
「……あ?」
反応は一拍遅れ。
誰も、自分達へ向けられた言葉だと思わなかったからだろう。発生源を確認した連中が、揃いも揃って間の抜けた顔を晒す。
「ち、……チカゲさん?!」
皆の視線の先。少し離れたソファで、チカゲ・クロイツがスマホを弄っていた。
「で?」
気怠そうな声に、誰も返さない。
「伝説だの幻想だの好きに言ってンけど…。そのアゼル・ヴァレンティスに、一回でも勝ったことあンの?」
「……えっと…」
「ねぇよな?」チカゲは小さく鼻で笑った。
「じゃあ黙っとけよ」
そこで初めて、チカゲが顔を上げた。紫がかった灰色の双眸が、静かに連中を見据える。
怒りはない。むしろ逆で。
同じ競技に人生を懸けているはずの人間が、どうしてそんな言葉を吐けるのか。
チカゲには、その感覚だけが理解できなかった。
だから──
「お前らじゃ、たぶん一生理解できねぇよ」
「え……?」
「本物が何かって話」
チカゲは心底つまらなそうに肩を竦めた。
「似たようなモン見て、勝手に満足してる内はな」
(……見えてるモンが違ぇんだよ)
脳裏に浮かぶのは、あの日のリンク。
演技が始まったわけでもない。それなのに、会場の空気だけが先に変わり、気付けば誰もが一人だけを見ていた。
才能ってやつは、時々こういうふうに現れる。
「アレを“映え”とか“雰囲気”で済ませる時点で浅ぇんだわ」
チカゲは鼻で笑った。
「見りゃ分かる。凄ぇから、目立つんだよ」
一拍。
「…アイツは、別モンだ」
吐き捨てるように言うと、チカゲは再びスマホへ視線を戻す。その態度そのものが、これ以上語る価値もないという答えだった。
異様なほどの静寂。
誰も言い返せない空気。
その直後──。
爆発みたいな勢いで扉が開く。
「やっっっっっば!!!!!!」
張り詰めていた空気が一瞬で吹き飛び、同時に数人の肩が跳ねた。
「な、何だよ!?」
「うっせえぞ、ソル!」
一気に怒声が飛ぶ。
だが、飛び込んできた本人は気にも留めない。
「みんな見た!?会場中継!!」
一直線。
「空気バグっとんやん!!」
明るい蜂蜜色の髪を揺らしながら、スマホを片手にソル・ルミエールが飛び込んでくる。
ドッグランへ放たれたポメラニアン。そんな言葉が脳裏を過った。
落ち着きはない。距離感も終わっている。
だが、こいつは周囲の空気に呑まれない。
呑まれないまま、踏み潰して進む。
そういう意味では。こいつも十分、天才側かもしれない。
「いや絶対来とる!!」
「あの歓声ヤバかったもん!!」
「普通の競技映像の空気じゃなかと!!」
視線を画面へと戻し、興奮したまま吠え続ける。誰も相手にしていない。だがソルも気にしていない。
「え、待って!? マジでワンチャンない!?」
「アゼル・ヴァレンティス復活!!!!」
――一瞬。
控え室から音が消えた。
さっきまで笑っていた連中ですら、今はその名前を軽口として処理できない。
ソファへ深く沈んだチカゲ・クロイツだけが、面倒臭そうに目を細めた。
「相変わらずお前のテンションはアクセルが壊れてんな」
「あれ?チー君、居たの?」スマホから顔を上げ、ソルがきょとんと首を傾げる。
数秒前まで大騒ぎしていたとは思えない、素で失礼な反応。
控え室の空気が凍る。
世界ランク二位を『チー君』呼ばわりできるのは、たぶんソルだけだ。
「居たわ!ずっと」
「え、マジ? 全然気付かんかった!」
「お前、人の話聞きながら視界閉じるタイプ?」
「いや歓声の方が気になって!」
「犬か」
チカゲが呆れたように吐き捨てる。
本気の苛立ちはない。あるのは、理解を放棄した人間特有の諦めだけだった。
その隣へ、ソルが勝手に座る。
「ねぇねぇ、どうやった!?」
「何が」
「アゼル・ヴァレンティス!昔、見たことあるんやろ?」
「……」一瞬、 噤む。
しかしその反応だけで、ソルの目が輝き出す。
「お?」
「……説明しづれぇな」
「生きる伝説的な?」
「語彙が軽い」
「じゃあ神話!!」
「余計軽くなったな、オイ…」
小さく吹き出すチカゲ。
それだけで、控え室に張り付いていた緊張が少しだけ剥がれる。
「もし会えるなら絶対写真頼むって決めてんの!もう国宝とツーショみたいでワクワクするw」
「やめとけ」
「え、なんで?」
チカゲは答える代わりにスマホへ視線を落とす。
画面の向こうでは、会場映像と共にコメントが滝のように流れていた。
『来るのか?』
『マジで本人?』
『頼むから出てきてくれ』
まだ姿すら見えていない。それなのに、誰もが何かを待っていた。
チカゲは視線を落としたまま、小さく呟く。
「近くで見ると、多分笑えねぇぞ」
「え……? それって――」
ソルが聞き返しかけた、その瞬間。スマホの向こうで歓声が揺れた。
誰かがリンクへ入る。
映像はまだ遠い。
顔も映っていない。
シルエットすら曖昧。
それなのに。ただリンクへ現れただけで、“空気そのもの”が塗り替わっていく。
「……え」ソルの笑顔が止まった。
チカゲだけが静かに目を細める。




