12.デ=クヴァイ侯爵領
「ほら、すぐそこだ」
リーフェの背後でルトヘルが小川の上流を指さした。
二人は馬上のまま、小さな支流を遡って来た。支流の脇には馬一頭分通れる小道があり、それを辿ると目的の物が現れた。
「わぁ……、素晴らしいですね」
感動で、リーフェの声はうっとりと潤んでいた。
一応乗馬の初歩は嗜んでいるが、このように平坦で無い山道を馬で登るのは運動神経が発達してるとは言い難いリーフェには難しい。だからルトヘルの好意に甘えて二人乗用の鞍に乗せて貰いここまでやって来たのだ。
縁談相手と二人乗り……というのは正直とても恥ずかしい。リーフェにはハードルの高いミッションだったが、本能の誘惑にはどうしても抗えなかった。
ここはデ=クヴァイ侯爵家の領地内にある、『ビヮサ』という薬草の栽培場だ。
『ビヮサ』は冷涼な気候を好み、生育の為には混じり気の少ない新鮮な水が絶えず入れ替わる環境が必要だった。
このため野生のビヮサは小川の上流や、沢の源泉近くに発生する事が多い。
デ=クヴァイ侯爵領内にあるこの山林は比較的なだらかで湧水に恵まれているため、小さな支流が幾つもありビヮサの栽培に適していた。ルトヘルの実家は質の良いビヮサの産地であり、リーフェはその事実を知って以来ここを訪れたいと願っていたのだ。
彼女は念願が叶うと聞いて、一も二も無く飛びついた。こんな楽しい見合いがあるだろうか、と心の中でスキップしつつデ=クヴァイ領を訪れたのだった。
長身で恵まれた体格の騎士が選ぶ馬は一般のものより一回り以上も大きい。クラクラするような高さから降りられなくなったリーフェの腰を支えるようにして、ルトヘルは彼女を馬からそっと降ろしてくれた。
王立学院の自治会役員は、成績により選別される。常にトップの成績を維持していたリーフェも、学院の高等部で自治会役員に採用された。当時自治会長だったルトヘルと、事務仕事や学院行事の運営でかなり長い時間を一緒に過ごしたが、このように密着した体勢を取る機会はほとんど無かった。
馬上に居た時はビヮサの事ばかり考えてワクワクしていたので忘れていられたが―――こうして不意に距離の近さを意識する瞬間があると、羞恥に頬が熱を持ってしまう。
「ありがとうございます」
「疲れたか?」
ドギマギしている様子を誤解したのか、ルトヘルが長身を折り曲げて心配そうにリーフェを覗き込んできた。彼女は慌てて意識を興味の元に戻し、羞恥心を振り払った。
「……全く!」
しかしもう馬から降りて一人で立つ事ができるのに、何故だかルトヘルの右手が腰に当たったままだった。幼い頃から兄妹のように育ったニークが触ったとしたら、それほど気にならない行為なのだが、滅多に自分に触れたりしなかったルトヘルの大きい手が触れていると思うと……何ともそわそわして落ち着かない。
きっと慣れない自分が意識し過ぎている所為だ。だから殊更気になってしまうのだろうと、ルトヘルに申し訳無く思いながらも、リーフェはパッと栽培場へ小走りに駆けだして彼から離れた。
「わぁ!思った以上の規模です!素敵……」
支流の中に段々畑のように栽培棚が設けられている。ハート形のつるんとした葉っぱが、青々と元気に育っている様子を、木で組まれた足場に近寄ってリーフェは眺めた。
スゥっと空気を肺一杯に満たすと、ビヮサの少し辛味の混じった清涼な香りが彼女の鼻腔が刺激する。
ルトヘルは急に体を離したリーフェを悪く思った様子も見せず、ゆっくりと彼女の後を追って足場に乗った。そして彼女の体から拳三つ分ほど距離をとる位置で手摺に手を掛け隣に控える。リーフェはその距離に少しホッとする。これなら、変に意識しないで済みそうだ。
「ベンノ」
木立ちの陰から白い無精ひげで顔を覆った体格の良い老人が、姿を現した。どうやら二人の来訪に備え、前もって控えてくれていたらしい。ルトヘルとリーフェを見ると目尻を下げて頭を下げた。リーフェも目礼で挨拶を返す。
「リーフェ、ベンノだ。長年この山の管理を任せている。デ=クヴァイ領産のビヮサが最高級と言われるまでになったのは、全て彼の功績なんだ。彼が試行錯誤を重ねて、栽培方法と品種の改良を行ったから、今の品質が保てるようになった」
「わぁ!詳しいお話、伺っても良いですか?」
「お褒め頂くのは嬉しいですが……もったいない事です。坊ちゃまも幼い頃からよく手伝っていただいたので、同じくらいお詳しいですよ」
愛しそうに目尻を下げるベンノに、ルトヘルは肩を竦めた。
「『坊ちゃま』は、いい加減やめてくれ。俺はもう二十三だぞ。それに当時だって、ちょっと手伝って後は山の中を走り回っていただけだからな。月並みな事しか答えられない。リーフェのマニアックな質問に答えられるほど、詳しくは無いよ」
親し気な遣り取りに、クスリとリーフェは笑みを零してしまう。幼い彼がコロコロ山の中を走り回っている所を想像して―――少し楽しくなってしまった。
真面目な自治会長、王国軍の精鋭『蒼の騎士』様とのギャップが大きくて、かなり微笑ましく感じる。
ルトヘルはリーフェがニヤリとしたのを見て、少し頬を赤くした。
そしてコホンと一つ咳払いをすると、脱線しかけた話題を正道に戻す。
「とにかく―――この山の事は一から十までベンノが知ってる。ビヮサの他にもたくさん山菜や薬草を栽培しているし、試験場で様々な栽培方法を工夫し続けている。この奥に試験場があるから、そちらも覗いてみないか?興味あるよな?」
「あります!是非、見学させて下さい」
胸がキュンキュンするのを止められず、リーフェは即答した。
ベンノという優秀な研究者と試験場をデ=クヴァイ侯爵家が保有している事実を、今回初めて耳にした。おそらくこれはデ=クヴァイ家の秘匿事項に当たるのだろう。何せ、『デ=クヴァイ領地産ビヮサ』と言えば、その香りの高さと質の良さから最高級品としてかなりの高値で取引される珍味なのだ。
その日リーフェはたっぷりと試験場を堪能し、ベンノに齧り付きで質問を浴びせた。満足感で艶々しているリーフェを、ルトヘルは優しい表情で見守っていた。
帰りの馬上ではベンノが試している新しい栽培方法や、今後流通が増えそうな山の幸についてあれこれ話が弾み、侯爵家に到着後は待たせていた馬車に乗り込んでルトヘルにお礼を言ってデ=クヴァイ領を後にした。
馬車の中で始終ウキウキした気持ちのまま、リーフェは今日目に焼き付けたばかりのビヮサ畑や試験場を思い出しながら屋敷に戻った。
自室に入った後フンフン~と、鼻歌を歌いながら帽子をマリケに預ける。しかし着替えの途中で、リーフェは素っ頓狂な声を上げた。
「ああっ!」
リーフェの背中の紐を外していたカチヤが、ビクリと体を震わせた。
やっと、彼女は縁談の事を思い出したのだ。
先ほどの試験場の視察は、馬の遠乗りを兼ねた見合いだったのに。
ベンノと試験場や特産品の研究の話ばかりに夢中になって、肝心のルトヘル本人の気持ちや事情について尋ねるのを……すっかり失念してしまっていた。忙しいルトヘルがせっかく合わせてくれた貴重な休みだったのにも関わらず、だ。
自分の失態に呻くリーフェから、事情を聞き出したマリケは大層呆れた。
「……ルトヘル様、お優しいですね」
ボソッと呟くマリケに、リーフェは激しく同意したのだった。




