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追放令嬢はゲーム知識と生活魔法でダンジョンを攻略する ~もふもふな相棒と始める、自由気ままな冒険者ライフ~  作者: 速水静香
第十五章:偽りの聖女

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第六十三話:対峙

 その日の朝は、いつもと何もかもが違っていた。

 小鳥のさえずりはどこか遠くに聞こえ、代わりに街全体が、まるで巨大な蜂の巣が揺すぶられた時のような、低く、不穏なざわめきに満ちていた。私が淹れたハーブティーの香りさえも、その緊張した空気にかき消されてしまいそうだった。


「わふん……」


 私の足元で、最高の相棒が不安そうに喉を鳴らした。その大きな黒い瞳が、窓の外、いつもとは全く違う表情を見せる中央広場と、私の顔を交互に見つめている。


「大丈夫よ、フェン。ただ、少しだけ大きな見世物が始まるだけ。最高の特等席で、楽しませてもらいましょうじゃない」


 私がそう言って彼の頭をぽんと叩くと、彼は「くぅん」と、まだ納得がいかないといった様子で、私の足にそのもふもふの頭をすり寄せてきた。

 窓の外に広がるのは、私が昨夜、一夜にして作り上げた白砂の円形劇場。

 朝日を浴びて、その砂の一粒一粒がダイヤモンドダストのようにきらきらと輝いている。それは、これから始まる公開処刑の場面としては、あまりにも美しすぎた。


(……どうかしら、リアナ。あなたが望んだ、最高の舞台でしょう?)


 私は、まだ湯気の立つカップを片手に、不敵に、そしてどこまでも優雅に微笑んだ。


 ごうん、と。


 街の時を告げる鐘が、重々しく正午を告げた。


 それが、茶番の始まりの合図だった。


 白砂の円形劇場の観客席は、もはや人、人、人の波で埋め尽くされている。

 このフロンティアの全住民が、仕事を放り出してここに集結したのではないかと思うほどの、途方もない数の人だかり。


 その誰もが、固唾を飲んで、これから起こるであろう出来事の行く末を見守っていた。


 やがて、広場の一角から一つの厳かな行列が姿を現した。


 先頭を歩くのは、太陽と聖杯を組み合わせた教会の紋章が刺繍された、豪奢な法衣に身を包んだ三人の男たち。

 中央に立つ、ひときわ年嵩の男が、おそらく今回の審問官の長なのだろう。

 その顔には、一切の感情が読み取れない。ただ、石のように硬く、冷たい表情でまっすぐ前だけを見据えている。


 そして、その後ろ。


 まるで、これから殉教する聖女のように、悲壮なまでの美しさをその身にまとって、私の腹違いの妹、リアナがゆっくりと歩いてくる。


 純白のドレスは、彼女のか細い体を儚げに見せ、その裾は白砂の上をさざ波のように優雅に靡いていく。

 桜色の髪には、今日のために用意したのであろう、一点の曇りもない巨大な真珠の髪飾りが上品な光を放っていた。

 大きな瞳には、これから断罪されるであろう姉への慈愛と、ほんの少しの悲しみをたたえて。その唇は、民を惑わす偽りの聖女を憂う、か細い祈りの言葉を紡ぐために固く結ばれている。


 どこからどう見ても、非の打ち所がない。誰がどう見ても、この物語のヒロインそのもの。


 彼女の周りを固めるのは、王都から連れてきたのであろう、銀色に輝くプレートメイルに身を固めた近衛の騎士たち。

 その光景は、一枚の宗教画のように荘厳で、そしてどこまでも計算し尽くされていた。


「これより、中央教会本部による、公的審問会を執り行う!」


 審問官の一人が、魔法で増幅されたよく通る声で高らかに宣言した。

 広場を埋め尽くしていた観衆のざわめきが、ぴたりと止む。

 しんと静まり返った白砂の舞台。聞こえるのは、風が砂をさらっていく、かすかな音だけ。


「まず、訴状を読み上げる。このフロンティアの街に、神の名を騙り、怪しげな業をもって民を惑わす『偽りの聖女』がいる、との告発があった。その真偽を、神と、この街の民の前で、明らかにすることこそ、本審問会の目的である!」


 その言葉と共に、審問官の冷たい視線が、壇上の脇で静かに椅子に腰掛けていた私へと突き刺さった。


「被告、アリア! 前へ!」


 私は、やれやれと内心で肩をすくめると、ゆっくりと立ち上がった。そして、私の足元で心配そうに私のことを見上げていたフェンの頭を、ぽんと優しく叩く。


「大丈夫よ、フェン。少しだけ、面倒な質疑応答に付き合ってくるだけだから」

「わふん……」


 私は、革鎧の擦れる音を立てながら、白砂の舞台の中央、リアナと審問官たちが待つ円形の演壇へと歩みを進めた。

 私が一歩進むごとに、観衆の視線が、針のように私の全身に突き刺さるのが分かった。


 好奇、不安。


 様々な感情が入り乱れた視線の奔流を、私はまるで心地よいスポットライトでも浴びるかのように優雅に受け流す。

 そして、審問官たちの前に立つと、公爵令嬢時代に叩き込まれた一点の曇りもない淑女の礼法に則って、深く、深く頭を下げた。


「お呼びにより、参上いたしました」


 私の、あまりにも落ち着き払った、そしてどこまでも不遜なまでの態度。

 それに、審問官の長の石のように硬かった表情が、わずかにぴくりと動いたのが分かった。


「……ふん。反省の色は、見られぬようだな」


 彼は、吐き捨てるようにそう言った。


「では、まず、告発者である、聖女様の証言を聞くこととしよう」


 その言葉に、リアナが待ってましたとばかりに一歩前に進み出た。彼女は、まるでこれから悲しい物語でも語り聞かせるかのように、憂いを帯びた瞳で観衆をゆっくりと見渡した。


「皆様……。わたくしは、この街に来て、心の底から悲しみに打ちひしがれました。先の魔物の大発生で、心に深い傷を負った方々。そして、今なお、癒えぬ呪いに苦しむ兵士の方々がいるというのに……。この街の『英雄』を名乗るお方は、その方々に対し、あろうことか、得体の知れない薬を分け与えていたのです」


 その、鈴を転がすような、しかしどこまでも悲痛に満ちた声。広場は、水を打ったように静まり返っている。


「もちろん、お姉様が、善意でなさっていたことだとは、分かっておりますわ。ですけれど……。神より授かりし、聖なる治癒の力とは全く異なる、人の手で作られた、怪しげな薬……。それは、もはや『奇跡』などではなく、民を惑わす『異端の業』に他なりません!」


 彼女が、そこまで一気に言い切ると、観衆の一部から、ざわ、という動揺のどよめきが上がった。


 見事な演説だった。


 これを聞けば、何も知らない者たちは私のことを、怪しげな術を使う邪悪な魔女のように思うことだろう。

 審問官の長が、重々しく私に向き直った。


「……被告アリアよ。今の証言について、何か弁明はあるか」


 その問いに、私は悪戯っぽく肩をすくめてみせた。


「弁明、ですか? いいえ、何も。彼女の言う通りですわ。わたくしは、ただ、苦しんでいる方々を、私のやり方で助けた。ただ、それだけのことです」

「……何だと?」


 私の、あまりにもあっさりとした肯定。

 それに、審問官だけでなく、リアナでさえも一瞬だけきょとんとした顔になった。もっと、必死に言い訳をしたり、取り乱したりするとでも思っていたのだろう。


(……ごめんあそばせ。あなたの書いた陳腐な筋書き通りに動いてあげるほど、私は、お人好しではないのよ)


 私は、内心でそっと舌を出した。

 広場の空気に、気まずい沈黙が重く漂い始めた、その時だった。


「―――待った!」


 その力強い声は、観衆の中から突然、響き渡った。

 声の主は、あのスタンピードの戦いで呪いを受けた元兵士の一人だった。まだ若い、二十代そこそこの青年。彼は、人だかりをかき分けるようにして壇上のすぐ下までやってくると、審問官たちをまっすぐに見据えて叫んだ。


「その告発は、間違っている!アリア様は、俺たちを救ってくれたんだ!」


 彼の、魂からの叫び。それが、引き金だった。


「そうだ! そうだ!」

「俺も、アリア様の薬で長年の苦しみから解放された!」

「あの薬は、怪しげなものなんかじゃない! 本物の奇跡の霊薬だ!」


 一人、また一人と。


 私が、あの『聖女対決』で癒した元兵士たちが、次々と声を上げ始めたのだ。


 彼らは、壇上の私と審問官たちの前にずらりと並び立つと、まるで私を守る盾になるかのように胸を張った。

 そこには、不正を許さないという確固たる意志の光だけが、力強く輝いていた。


 あまりにも予想外の展開。


 リアナの聖女の微笑みが、ぴしり、と薄いガラスにひびが入っている雰囲気が感じられた。

 広場の空気が、明らかに変わり始めていた。

 私への不信と嘲笑の色はすうっと薄れ、代わりにリアナと審問官たちへの疑念のどよめきがさざ波のように広がっていく。


「……静粛に! 静粛にせい!」


 審問官の長が、慌てて声を張り上げた。けれど、一度火がついた民衆の感情は、そう簡単には収まらない。


「そうだ! アリア様は、この街の英雄だ!」

「スタンピードの時、俺たちの街を救ってくれたのは、誰だと思ってるんだ!」

「聖女様もありがたいが、俺たちには、アリア様がいる!」


 フロンティアの住民たちの、圧倒的な支持。それは、リアナが王都の権威をどれだけ笠に着ようとも、決して覆すことのできない絶対的な真実だった。

 熱気に満ちた声の奔流を前にして、審問官の長はぐっと言葉に詰まったようだった。


「……ふん。民衆の支持が、免罪の理由になるとでも思うか」


 彼は、苦し紛れにそう吐き捨てると、再び私にその冷たい視線を向けた。


「被告アリアよ。改めて、問う。お前のその、常識外れの『業』。それは、一体、何なのだ。神の御業でないとすれば、それは、悪魔の力か。あるいは、禁忌とされた魔術か。正直に答えよ!」


 その問いに、私は悪戯っぽく肩をすくめてみせた。


「さあ? 悪魔とも、古代の魔術とも、契約した覚えはございませんけれど」

「では、何なのだ!」

「ただの、生活魔法の応用ですわ」


 私の、あまりにもあっさりとした、そしてどこまでも拍子抜けするような答え。それに、審問官の長はぽかんと口を開けて固まった。


「……せい、かつ、まほう?」

「ええ。火を起こしたり、お水をきれいにしたり、少しばかり、土をいじったり。そんな、誰にでも使える、初歩の初歩の魔法を、ほんの少しだけ、工夫して使っている。ただ、それだけのことですわ」


 私の、あまりにも飄々とした、そしてどこまでも人を食ったような物言い。

 それに、審問官たちはもはや、かける言葉も見つからないといった様子で、ただ困惑したように顔を見合わせるだけだった。

 彼らの頭の中では、きっとこう思っていることだろう。


(……こいつ、我々を、からかっているのか……?)


 その、滑稽なまでの狼狽ぶり。

 私は、内心で腹を抱えて笑いたいのを必死でこらえていた。

 リアナが、血が滲むほどにその桜色の唇を強く噛み締めているのが視界の端に映った。


(……どうかしら、リアナ。あなたの、その陳腐な筋書き、もう、ぼろぼろよ?)


 その時だった。


「―――待ったぁ!」


 今度は、先ほどの兵士たちの声とは明らかに異なる、地の底から響いてくるような野太い声が広場全体に響き渡った。

 その声に、広場中の視線が一斉にその方向へと注がれる。人だかりが、まるでモーゼの前の紅海のようにさっと左右に分かれていく。

 そして、その先に姿を現した、予想外の援軍の姿に。私でさえも、一瞬だけ目を丸くしてしまった。


「な、なんだ、あいつらは……?」

「でけえ……! それに、あの髭……! まさか、ドワーフか!?」


 そこに立っていたのは、屈強な体つきをしたドワーフの男たちの一団だった。

 誰もがその顔に、頑固さと職人としての誇りを浮かべ、分厚い胸板と丸太のような腕をしている。その手には、巨大なハンマーが握られていた。


 そして、その一団を率いるのは。


「棟梁!?」


 私の口から、思わずそんな声が漏れた。

 そう、それは紛れもなく、あの伝説の工房都市『ヴァルヘイム』の棟梁その人だった。

 彼は、自慢の白く長い髭を堂々と揺らしながら、ずん、ずんと白砂の壇上へとその巨体を歩みを進めてくる。


「……貴様らか。この、アリア様を、『異端』だなどと、ふざけたことを抜かしておるのは」


 地の底から響いてくるような、彼の重々しい声。

 その声には、長年伝説の都市を率いてきた者だけが持つ、絶対的な威厳があった。

 あまりの覇気に、審問官たちもリアナの周りを固めていた近衛の騎士たちも、思わずたじろいでいる。


「な、何奴だ、貴様らは!神聖なる審問会の場であるぞ!」


 審問官の長が、必死で虚勢を張る。

 けれど、棟梁はそんな彼の言葉など意にも介さない。


「黙れ、小童! このアリア様こそ、我らヴァルヘイムの、いや、この大陸全ての職人にとっての救世主であらせられる! 貴様らのような、何も知らぬ輩が、その御名を、軽々しく口にしてよいお方ではないわ!」


 魂からの、怒りの咆哮。それが、広場全体をびりびりと震わせた。

 彼は、私の方へと向き直ると、その巨大な体を深々と、深々と私の前に折り曲げた。


「アリア様! 遅ればせながら、馳せ参じました! 貴女様が、不当な裁きを受けようとしていると聞き、居ても立ってもいられず……!」


 彼の、あまりにも劇的な登場と、あまりにも大げさなまでの忠誠心。

 私は、もはや呆れるのを通り越して、少しだけ感動さえ覚えていた。


「……ありがとうございます、棟梁。ですが、わたくしは、大丈夫ですわ」


「いえ! 大丈夫ではございません!この者共に、アリア様が、どれほど偉大なお方であるかを、このわしが身をもって、教えてやらねば気が済まぬ!」


 そう言うと、彼は再び審問官たちの方へとその燃えるような瞳を向けた。


「聞けい、愚か者ども! このアリア様は、我らヴァルヘイムの消えかけていた魂の炎、『龍の心臓』を、その奇跡の御業で、再び蘇らせてくださった、大恩人であらせられる!その御業は、神の御業そのもの! それを『異端』だなどと抜かす貴様らこそ、神をも恐れぬ、不届き者よ!」


 その圧倒的なまでの真実の言葉。それに、審問官たちはぐうの音も出ないといった様子で、ただ青ざめた顔で立ち尽くすだけだった。


 けれど、援軍は、それだけでは終わらなかった。


「―――その通りだ!」


 今度は、広場の別の方向からまた別の声が響き渡った。

 その声の主は、日に焼けた深い皺の刻まれた顔をした海の男たちの一団。その先頭に立つのは、南の港町ソルマーレのギルドマスターだった。


「アリア様は、我らソルマーレの港を、壊滅の危機から救ってくださった、海の女神様だ!伝説の海の主、クラーケンと心を通わせ、荒れ狂う海を、その御力で鎮めてくださった!それを『偽り』だなどと、どの口が言うか!」


 そして、さらに。


「―――お待ちください!」


 今度は、広場の入り口から異国風の装束に身を包んだ、褐色の肌の一団が息を切らしながら駆け込んできた。

 それは、あの砂漠の国アル=カリードの使者たちだった。


「アリア様こそ、我ら砂漠の民を、滅亡の危機からお救いくださった、聖なる泉の化身!その御慈悲は、灼熱の太陽よりも温かく、オアシスの水よりも我らの心を潤してくださった! そのお方を、『偽りの聖女』だなどと……! 万死に値する!」


 ドワーフ、港町、そして砂漠の国。

 私が、これまでの冒険で関わってきた全ての人々。

 彼らが、まるで示し合わせたかのように、この私の絶体絶命の危機に駆けつけてくれたのだ。


 その、あまりにもドラマチックで、そしてどこまでも熱い展開。


 私は、もはや笑うしかなかった。


(……なんなの、これ。まるで、最終回のオールスター総登場シーンじゃない)


 白砂の壇上は、もはやただの審問会の場ではなかった。

 それは、私のこれまでの冒険の軌跡、その集大成を披露する場所と化していた。

 その、圧倒的なまでの人々の支持と感謝の奔流を前にして。


 審問官たちは、もはやただ立ち尽くすことしかできない。


 そして、私の妹。

 リアナは。


「…………」


 彼女は、その桜色の唇をかすかに震わせていた。その大きな瞳が、信じられないものを見るかのように、これ以上ないくらいに大きく見開かれている。

 聖女の微笑みは、完全に剥がれ落ち、そこにあるのはただ能面のような無表情だけ。

 彼女の、なけなしのプライドと聖女としての自信。その全てが、今この瞬間、目の前で音を立てて粉々に砕け散ったのだろう。


「……あ、あ……」


 彼女の唇が、かすかに動く。何かを言おうとしている。

 けれど、その唇から紡ぎ出されるのは意味のある言葉ではなく、ただ空気の漏れるようなか細い音だけ。

 彼女の最後の砦だった中央教会の権威。それさえもが、この圧倒的な民衆の支持の前では、もはや何の力も持たない。


 完全な敗北。


 それを彼女の賢い頭がようやく認識したようだった。その能面のような無表情に、初めて感情の動きが表れた。


 けれど、それは慈愛でも悲しみでもない。


「……う、うそ……」


 ぽつり、と彼女の口からそんなか細い声が漏れた。


「うそ、うそ、うそ! こんなの、全部、嘘よ! こいつらが、グルになって、私を騙そうとしているだけ!この女は、公爵家から追放された、出来損ないの姉! それだけなのに!どうして……!どうして、みんな、この女の味方ばかりするのよ!」


 魂からの、悲痛な叫び。それは、もはや聖女の声ではなかった。

 ただの、自分の思い通りにならない現実に癇癪を起した子供の金切り声。

 彼女の大きな瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ち始めた。


 けれど、その涙はもはや彼女の武器にはならない。ただ、その醜い嫉妬心を衆人の面前に晒すだけだった。


「お姉様さえ、いなければ……!お姉様さえ、いなければ、全部、私のものだったのに!聖女も!名誉も!この街の、人々の心さえも!全部、ぜんぶ、ぜんぶ!」


 彼女は、ついに聖女の仮面を完全にかなぐり捨てた。

 その、あまりにも醜い本性の発露。それに、広場を埋め尽くしていた観衆も、審問官たちでさえも、ただ呆然と立ち尽くすだけだった。

 そして。


「―――許さない!」


 彼女は叫ぶと、その両手を私に向かって突き出した。


 そこからは、どす黒い、禍々しい光の奔流がほとばしり出た。


 明らかに治癒の光ではない。

 対象を、内側から蝕み、破壊する呪いの光。


 彼女が隠し持っていた、醜い牙。


 呪いの光が私に届く、ほんの寸前。


「―――わんっ!」


 銀色の閃光が走った。


 私の前に躍り出たのは、それまで私の足元で静かに、しかし絶対的な警戒心を持って状況を見守っていたフェンだった。

 彼は、その小さな体で私を守る盾となるかのように、呪いの光の前に立ちはだかる。


 そして、その口をがばりと大きく開けた。


 ごおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!


 彼の口から放たれたのは、ただの咆哮ではなかった。


 清浄な魔力の塊。


 『沈黙の樹海』の主や、古龍の祝福を受けた、彼の聖獣としての本来の力の一端。


 その、清浄な魔力の奔流が、リアナの放ったどす黒い呪いの光と空中で激突した。


 しゅわわわわ……。


 まるで、熱した鉄板に水をかけた時のような心地よい浄化の音。

 フェンの口から放たれた清浄な魔力の奔流は、リアナが放ったどす黒い呪いの光を、まるで太陽の光が朝霧を晴らすかのように、いとも簡単に飲み込み、そして跡形もなく消し去ってしまった。

 後に残されたのは、きらきらと輝く清らかな魔力の粒子だけ。その光の粒子が、まるで春の優しい雨のように白砂の壇上へと静かに降り注ぐ。


「……あ」


 ぽつり、とリアナの桜色の唇からそんなか細い声が漏れた。


 彼女の切り札。


 隠し持っていた牙。


 その全てが、目の前であまりにもあっけなく無力化されてしまった。


 その事実が、彼女のなけなしの理性の糸を、ぷつり、と断ち切ったようだった。


 彼女の大きな瞳から、すうっと最後の光が消える。

 そして、その体からまるで魂が抜け落ちてしまったかのように、力が抜け落ちていく。

 彼女は、まるで操り糸が切れてしまったかのように、その場にくずおれた。純白のドレスが、白砂の上に力なく広がる。


 その姿は、もはや聖女ではなかった。


 ただ全てを失った哀れな女の姿が、そこにあるだけだった。


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