第五十三話:港町からのSOS
伝説の工房都市ヴァルヘイムからフロンティアの我が家へと帰還してから、どれくらいの時間が過ぎ去っただろうか。
私の日常は今、これまでの人生で最も創造的で、そして満ち足りた時間の中にあった。
ざわざわと風にそよぐ木々の葉が、まるで私たちの充実した日々を祝福する凱旋のファンファーレのように賑やかな音を立てている。
愛しの我が家の庭に一夜にして誕生した私だけの工房。そこが今の私の世界の中心だった。
カン!キィン!カンッ!
ミスリル銀で作られた特注のハンマーが、赤く熱せられた金属塊を叩く甲高い音。それはもはやただの騒音ではない。新しい何かが生まれ出る、心地よい産声そのものだった。
炉心で燃え盛る炎はヴァルヘイムで蘇らせた『龍の心臓』の分け御霊のように、どこまでも清浄で美しい青白い光を放っている。その圧倒的な熱量が工房全体の空気をびりびりと揺らし、私の肌を心地よく火照らせる。
汗と鉄、そして燃え盛る石炭の匂い。その全てがこの場所が生きていること、そしてこの世界のありとあらゆる『創造』の中心地であることを雄弁に物語っていた。
「わふぅぅ…………」
工房の隅で私の作業をおとなしく見守っていたフェンが、感心したようにほうとため息をついた。その大きな黒い瞳には炉の青白い炎と、火花を散らしながら形を変えていく金属の輝きがきらきらと映り込んでいる。
「どう、フェン?なかなか様になってきたでしょう?」
私が汗を手の甲で拭いながら悪戯っぽく笑いかけると、彼は「くぅん!」と、まるで「最高の出来じゃないか!」とでも言うように、私の顔と作業台の上の金属を交互に見比べながら嬉しそうに一声鳴いた。
作業台の上にはここ数日間の私の奮闘の成果が、誇らしげに並べられている。
ドワーフ鋼をベースにミスリル銀を薄くコーティングした、驚くほど軽量でしかしダイヤモンドよりも硬いであろう試作品の短剣。
あの『龍炎石』の粉末を練り込み、自己発熱機能を持たせた調理用の魔法のフライパン。
そしてフェンのために作った、彼の俊敏さをさらに引き出すためのミスリル銀製の特注の爪当て。
どれもこれもまだ試作品の段階だ。けれどその一つ一つが、この世界のどんな武具屋にも並んでいない常識外れの性能を秘めている。
最高の素材と最高の理論、そして最高の道具。その三つが揃った時、私の創造の衝動はもはや誰にも止められない奔流となっていた。
(……ああ、楽しい。楽しすぎるわ、これ!)
自分のイメージしたものが少しずつ、少しずつ形になっていく。
このゼロから何かを生み出すという行為は、何物にも代えがたい純粋な喜びに満ちていた。
未知のダンジョンに挑むのとはまた異なる、静かでしかし熱い興奮が私の心を完全に満たしていた。
このまま何日でも何ヶ月でも、この工房に籠っていたい。
そんな穏やかで満ち足りた日々がどこまでも続いていく。
私はそう信じて疑わなかった。
―――その平穏を打ち破る、けたたましい音が我が家の玄関の扉を叩くまでは。
どんどんどんどんどんどんどんっ!
突然、家の玄関の扉が今にも壊れそうな勢いで激しく叩かれた。
そのあまりにも無作法で、そして切羽詰まった音に、私はびくりと肩を揺らした。工房で集中していた意識が一気に現実へと引き戻される。
「な、何事!?」
「がるるるるるるるるる……!」
私の足元でうたた寝をしていたフェンが、低い唸り声を上げ臨戦態勢に入る。その銀色の毛がまるでハリネズミのように逆立っていた。
扉を叩く音は一向に止む気配がない。それどころか、どんどんその激しさを増していく。
「アリア殿!アリア殿!いらっしゃいますかな!?一大事じゃ、一大事なんじゃ!」
その切羽詰まった、しかしどこか聞き覚えのある大声。
「……ギルドマスター?」
私はフェンを片手で制しながら、急いで工房を飛び出し玄関へと向かった。
そして重い木の扉の閂を慌てて外す。
ぎぃ、と。
扉を開けた先に立っていた人物の姿を見て、私は思わず目を見開いた。
そこにいたのはやはり、フロンティアのギルドを取り仕切るギルドマスターその人だった。
けれどその姿は私が知っている、いつもの威厳に満ちた彼とはまるで別人だった。
自慢の髭は乱れ、その額には玉のような汗がびっしりと浮かんでいる。肩でぜえぜえと苦しそうな息を繰り返し、その顔は血の気が引いて真っ青になっていた。
「マスター?どうかなさいましたか?そんな血相を変えて……。また、何かやらかしましたか、私」
「ど、どうしたもこうしたも、ありませんぞ……!」
彼は私の問いに答える余裕もないといった様子で、ぜえはあと息を整えると、絞り出すような声でこう叫んだ。
「た、頼まれてくだされ、アリア殿!あんた様しか、おらんのじゃ!」
彼は私の返事も待たずに、ずかずかと家の中へと上がり込むとリビングのソファに、どさりとその巨体を沈めた。そして懐から取り出した一枚の羊皮紙を、震える手でテーブルの上に広げた。
それはただの羊皮紙ではなかった。
最高級の紙に美しいインクで書かれた公式の依頼書。その隅にはAランク冒険者ギルドの格式張った紋章が、蝋で厳重に封をされている。
そして何より。
その依頼書の宛名には、はっきりとこう記されていた。
『Aランク冒険者アリア殿指名依頼』
「……指名依頼?」
私の口から思わずそんな言葉が漏れた。
冒険者ギルドには数多くの依頼が存在する。けれどその中でも、特定の冒険者を名指しで依頼する『指名依頼』は極めて稀だ。
それも公式の、大規模な指名依頼となれば。
それはもはや一個人の依頼というよりも、一つの街や国からの公式な救助要請に近い。
断ることは事実上、不可能。
「一体どこから、このようなものが……?」
私の問いにギルドマスターはごくりと一度大きく唾を飲み込むと、重々しくその街の名前を告げた。
「……南の海沿いの港町。『ソルマーレ』からじゃ」
「ソルマーレ……?確か、この国でも有数の交易港でしたね」
公爵令嬢時代の地理学の授業の記憶が脳裏をよぎる。
美しい白壁の街並み、活気のある港、そしてどこまでも広がる紺碧の海。遠い異国からの珍しい品々が、その港を通じてこの国にもたらされる。
そんな平和で豊かな港町が、一体どうして。
「……その港が、今、壊滅の危機に瀕しておるんじゃ」
ギルドマスターの声はひどくかすれていた。
彼はテーブルの上の依頼書を、揺れる指でなぞりながらその絶望的な内容を語り始めた。
「海の主……。その巨大な魔物が、暴れておるそうじゃ」
「海の主?」
「うむ。『クラーケン』じゃ」
クラーケン。
ファンタジー世界における海の巨大ボスモンスターの代名詞。
無数の触手を持ち、巨大な船さえもいとも簡単に海の底へと引きずり込むという伝説の怪物。
もちろんそれはこの世界にも存在する。
「そのクラーケンが、どうしてまた……?」
「それが、どうやら近海の海底洞窟で大規模な地形変動があったらしくてな。おそらくは先日の、この大陸を襲ったいくつかの大きな地殻変動の影響じゃろう。そのせいでクラーケンは、長年住処としておった洞窟を荒らされ、その怒りから凶暴化してしもうたんじゃ」
「……なるほど。縄張りを荒らされて、ご機嫌斜めというわけですか。実に分かりやすい話ですね」
私は悪戯っぽく肩をすくめてみせた。
私のあまりにも場違いな軽口にギルドマスターは、一瞬だけ呆気にとられたようだった。
けれどすぐに苦虫を噛み潰したような表情に戻る。
「……笑い事ではないんじゃ、アリア殿。そのご機嫌斜めな主のおかげで、ソルマーレの漁業は壊滅的な被害を受けておる。港は完全に封鎖され、交易船も一隻も出入りできん。このままでは街の経済が干上がってしまう。すでに何人もの腕利きの漁師が、海の藻屑と消えたそうじゃ……」
彼の言葉には深い、深い憂いの気配が滲んでいた。
豊かな港町を襲った突然の悲劇。
その光景が目に浮かぶようだった。
「ソルマーレのギルドも、これまでに何組もの冒険者パーティーを派遣したそうじゃ。じゃがダメじゃった。海の上からではクラーケンの巨体には傷一つつけられん。逆に船ごと、海の底へ……」
諦め。
その重くて冷たい空気が、この部屋全体を支配しかけていた。
そしてその最後の希望として、白羽の矢が立ったのがこの私というわけか。
(……海底洞窟。クラーケン。地形変動。……なるほどね)
私の頭の中で新しいゲームのタイトル画面が浮かび上がった。
舞台は海。
これまでの森や山や火山とは全く異なる新しいフィールド。
ボスは伝説級の巨大モンスター。
そして攻略の鍵は地形変動という、大規模な『ギミック』。
(……面白そうじゃない)
私の口元に自然と好戦的な笑みが浮かんだ。
せっかく最高の工房と最高の道具を手に入れて、物作りに没頭しようと思っていた矢先に、この最高のタイミングでの最高の冒険への招待状。
神様はどうやら私に、ゆっくりと休む暇を与えてくれる気はないらしい。
「……それで、マスター。その指名依頼、断ることはできるのかしら?」
私がわざとらしくそう尋ねると、ギルドマスターは顔面蒼白になってぶんぶんとその大きな頭を横に振った。
「で、できるわけなかろう!これはもはやソルマーレの街、そのものの存亡がかかったSOSなんじゃぞ!Aランク冒険者として、これを受けぬわけには……!」
「分かっています。冗談ですよ、冗談」
私はくすりと笑うとソファからすっくと立ち上がった。
私の瞳にはもう迷いの気配はない。
そこにあるのは次なる冒険への確かな意志と、そして尽きることのない好奇心の炎だけだった。
「その依頼、この私が謹んでお受けいたします」
私の静かな、しかし絶対的な自信に満ちた声。
それがこの新しい物語の始まりの合図となった。
私の返答を聞き、ギルドマスターの顔にぱあっと希望の光が差した。
「おお!本当か、アリア殿!受けてくれるのか!」
「ええ、もちろんです。ただし」
私は人差し指をぴんと立ててみせた。
「少しだけ、準備の時間をいただきます。海の中を自由に歩き回るための、特別な『お洋服』を新しく仕立てなければなりませんから」
私のあまりにも突拍子もない言葉にギルドマスターは、一瞬だけきょとんとした顔になった。
けれどすぐに全てを理解したようだった。
彼は腹の底から楽しそうに、がははははははっ、と豪快に笑い出した。
「……違いないわい!あんたはそういう奴じゃったな!分かった!ソルマーレにはわしから連絡を入れておこう!最高の英雄が、最高の準備を整えてそちらへ向かう、と!」
彼の温かい信頼が私の背中を力強く押してくれた。
こうして私の次なる冒険の舞台は、あっけないほど簡単に決まった。
海の平穏と港町の人々の未来を取り戻すため。
そして何より私自身の、尽きることのない冒険心を満たすため。
伝説の海の主、クラーケンが待つ深淵の潮流迷宮へ。
私はギルドマスターを見送ると、すぐに愛しの工房へとその足で向かった。
頭の中にはすでに新しい装備の設計図が、はっきりと描かれ始めている。
水中での活動という新たな課題。
それをどうやって私の知識と魔法で克服するか。
考えるだけで私の心は鍛冶場の炉のように熱く、熱く燃え上がっていた。
「さあ、フェン。また忙しくなるわ。今度は海のお散歩を楽しむための、最高のドレスを作りましょう!」
「わんっ!」
私のあまりにも楽しげな声にフェンも、待ってましたとばかりに高らかに一声吠えた。




