第三十六話:新たな冒険への序曲
平穏。
その言葉は、まるで上質な蜂蜜みたいに甘く、そしてどこか、人を駄目にするような心地よい響きを持っていた。
愛しの我が家での日々は、まさしくその言葉をそのまま形にしたような、穏やかで満ち足りた時間だった。朝は庭の芝生を濡らす朝露の匂いを乗せた新鮮な風で目を覚まし、私の隣には世界で一番温かいもふもふした銀色の塊が、すーすーと幸せそうな寝息を立てている。
昼はぴかぴかに磨き上げたキッチンでフェンの好みに合わせた肉を焼き、夜は自慢の広々としたお風呂で一日の汗を流してから、暖炉の前で二人でうたた寝をする。
伝説のダンジョン、『沈黙の樹海』での大冒険を終えてから、私たちはそんな夢のような休日を満喫していた。英雄だの聖女だのと街で持ち上げられるのは、少しばかり気恥ずかしいけれど、それもご愛嬌というものだろう。
けれど、その完璧なまでに調和の取れた日常に、ほんの少しだけ、しかし確実に不協和音が混じり始めていた。まるで、最高級のスープに一滴だけ落とされた泥水のように。
その不協和音の正体は、もちろん。
◇
「ごきげんよう、お姉様。今日もお早いお目覚めですのね」
街の市場へと買い物に出かけると、まるで待ち構えていたかのように、その声は私の背後から聞こえてきた。
振り返るまでもない。私の腹違いの妹、リアナだ。
純白のドレスをふわりと揺らし、その桜色の髪には今日もこれみよがしに高価な宝石が飾られている。その大きな瞳に慈愛に満ちた聖女の微笑みを浮かべて。けれど、その瞳の奥の奥、私にしか見えない一点に、針の先のように鋭く冷たい光がきらめいている。
嫉妬と敵意。その、どろりとした感情。
「ええ、ごきげんよう、リアナ。あなたこそ、今日も朝早くから慈善活動とは感心ですわね」
私は内心のうんざり感を完璧に隠しきって、公爵令嬢時代に叩き込まれた非の打ち所がない淑女の微笑みを返した。
このフロンティアの街に王都の聖女として華々しく乗り込んできた彼女。けれど、彼女が思い描いていたであろう悲劇の舞台はここにはどこにも存在しなかった。それどころか、追放したはずの姉がこの街の英雄としてもてはやされている。そのあまりにも想定外すぎる現実に、彼女のプライドはズタズタに引き裂かれたのだろう。
完膚なきまでに敗北した彼女は、普通なら泣きながら王都へと逃げ帰るはずだった。けれど、彼女はそうしなかった。それどころか、この街に滞在し続け、王都から取り寄せた潤沢な資金を元手に、炊き出しや孤児院への寄付といった見え見えの慈善活動を始めたのだ。
「ええ、もちろんですわ。この街のか弱き人々を救うのが、わたくしの使命ですから。……お姉様のように、ただ冒険と称して好き勝手に遊び回っているだけの方とは、違いますもの」
ちくり、と彼女の言葉には蜂蜜に混ぜ込まれた小さな毒針が仕込まれている。周囲にいる街の人々にも聞こえるように、わざとらしく、そして的確に私の評判を貶めようとする、実に彼女らしいやり方。
彼女の周りには、いつの間にか王都から連れてきたのであろう取り巻きの貴族の子息たちが数人、見せつけるように控えている。彼らは私を値踏みするような視線で上から下まで眺めると、くすくすと嘲笑を漏らした。
「聖女様は、本当にお心が清らかでいらっしゃる」
「それに比べて、ただの冒険者風情が英雄様とは。特に、ここの街の者たちは、見る目がないようですな」
「まあ、素敵ですわね。私もあなたを見習わなければいけませんわ」
私はそんな彼らの挑発を柳に風と受け流す。ここで彼女の土俵に乗って言い争うなど愚の骨頂だ。
けれど、問題はそれだけではなかった。
「おい、見たかよ。今日も聖女様が子供たちにお菓子を配ってくださってるぞ」
「ありがたい話だよなあ。それに比べて、うちの英雄様は最近ずっと家でごろごろしてるだけだって話じゃないか」
「まあまあ、アリア様だってスタンピードの時は命懸けで戦ってくださったんだ。少しは休ませてあげないと」
「そうは言うけどよぉ……。聖女様は毎日俺たちのために働いてくださってるってのに、英雄様は自分の好きなことばっかりしてるように見えるぜ」
市場のあちこちで交わされる、そんなひそひそとした会話。
街の人々の視線。その中に以前はなかった種類のものが少しずつ混じり始めているのを感じていた。
比較するような視線。私とリアナを天秤にかけるような、値踏みするような空気。
もちろん、ほとんどの街の人々はこれまで通り私に親しげに接してくれる。ギルドの冒険者たちや、スタンピードの戦いを共に乗り越えた衛兵たちは、リアナのあからさまなパフォーマンスを冷ややかな目で見ているのが分かる。
けれど、一部の、特に戦いを知らない新しい住民たちの心に、リアナのあからさまなアピールがじわじわと染み込み始めているのもまた事実だった。
それがひどく、居心地が悪かった。
私の冒険は誰かに評価されるためのものじゃない。誰かと比較されるためにやっているわけでもない。ただ、私が楽しいからやっている。それだけなのに。
まるで、自分の大好きなゲームのセーブデータに、他人が勝手に上書き保存しようとしているような、そんなじっとりとした不快感。
「お姉様? どうかなさいましたの? もしや、わたくしの言葉が気に障りましたか?」
リアナが、わざとらしく心配そうな顔を作って、私の顔を覗き込んできた。その瞳の奥で、勝ち誇ったような光が一瞬だけきらめく。
「いいえ、とんでもない。ただ、あなたのその慈悲深いお心に感動していただけですわ。それでは、私はこれで。フェン、行きましょう」
私はこれ以上この茶番に付き合うのはごめんだとばかりに、彼女に背を向けた。
「わふん!」
フェンも心得たとばかりに、リアナとその取り巻きたちに一瞥もくれず、私の後をついてくる。
背後から、リアナの「まあ、お逃げになるのですね」という、勝ち誇ったような声が聞こえてきたけれど、私は一度も振り返らなかった。
◇
(……ああ、面倒くさい。ひどく、面倒くさいわ)
家に帰る道すがら、私は今日一番の深いため息をついた。
リアナのあの粘着質な敵意。街の人々の無邪気で、しかし時に残酷な視線。それらが私の完璧だったはずの平穏な日常に、じわりじわりと小さな染みを作り出していく。まるで新品の白いシャツに、気づかないうちに小さな泥が跳ねているような、そんな不快感。
買ったばかりの新鮮な肉の塊も、なんだか少しだけ重く感じられた。
「わふぅ……」
私の隣を歩いていたフェンが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。その大きな黒い瞳が「どうしたんだ、主? 元気がないじゃないか」と雄弁に物語っている。
私はそんな彼の頭を優しくくしゃりと掻き回した。
「大丈夫よ、フェン。ただ、少しだけうんざりしただけ。今日の夕食は、あなたの好きな特大ステーキにしてあげるから、元気を出して」
「くぅん!」
ステーキという単語に、フェンのしょんぼりしていた尻尾が、ぴこんと元気を取り戻す。実に現金で可愛らしい。
家に帰り、自慢の広々としたソファにどさりと体を沈める。買ってきた荷物を床に放り出し、天井を仰いだ。フェンが私の膝の上にそっとその頭を乗せてきた。そのもふもふとした温かい感触が、ささくれ立っていた私の心を少しだけ和らげてくれる。
私は天井の木目をぼんやりと眺めながら考えていた。このじっとりとした不快感をどうすれば吹き飛ばせるだろうか。
リアナと直接対決する?
いいえ、それこそが彼女の思う壺だ。彼女は悲劇のヒロインを演じて、周囲の同情を買うだろう。面倒くさいだけ。
街の人々に弁明して回る?
論外だ。「私の方がすごいんです」なんて、そんなみっともない真似ができるものか。私のプライドが許さない。
だったら、どうするか。
答えは、もう私の頭の中にはっきりと浮かんでいた。
この不快感を、この閉塞感を、このちっぽけな世界のいざこざを、全て忘れてしまうくらい、夢中になれるもの。
私には、それがあるじゃないか。
(……そうだわ。冒険よ)
こんな、ちっぽけでくだらない人間関係のいざこざなんて吹き飛ばしてしまうくらいの、もっと大きくて刺激的で、そして純粋な冒険。
私の心はそれを求めている。
私の冒険は、私の楽しみのためだけにあるべきだわ。誰かと比較されたり、誰かの評価を気にするためにあるんじゃない。
そうだ。誰のためでもない。ただ、このうずうずと疼き始めた冒険への渇望を満たすためだけに。
「……よし」
私の心は、もう定まっていた。
私は、それまでソファに沈めていた体を、ゆっくりと、しかし、確かな意志を持って起こした。私の膝の上で気持ちよさそうにしていたフェンが、私の気配の変化を察したのか、不思議そうに顔を上げる。
「ごめんごめん、フェン。決めたの。私たち、新しい冒険に出かけましょう!」
私の声に、いつもの楽しげな響きが戻ったことに安心したのか、フェンは私の膝から軽やかに飛び降りた。そして、一度だけ大きく伸びをすると、まるでこれから最高の狩りに出かける前の猟犬のように、その銀色の体を低く構えていた。
私は書斎へ向かうと、鍵のかかった引き出しから一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
それは、私が王都のギルド本部で膨大な資料の中から、自分の手で書き写してきた、未踏破ダンジョンの情報がびっしりと詰まった、私だけの宝の地図だった。
(さて、と。どれにしようかしら……)
私の指がリストの上をゆっくりと滑っていく。『天空の塔』と『沈黙の樹海』の名前はすでに私の手で、攻略済みを示す横線が引かれている。
そして私の指が、一つの名前の上でぴたりと止まった。
『灼熱の火山』
その四文字が持つ、圧倒的なまでの熱量。私の心臓がどくんと、まるで鍛冶場の槌に打たれた鉄のように力強く、そして熱く脈打った。
資料によれば、その火山は大陸の北東部に位置し、内部は常に灼熱の空気が漂い、溶岩が川のように流れているという。そして、その過酷すぎる環境ゆえに、これまで挑戦したAランクの冒険者パーティーが三組とも、深部までたどり着くことなく撤退を余儀なくされている、と。
(……これね)
『天空の塔』は風、『沈黙の樹海』は森。
どちらも複雑なギミックや謎解きがメインの、頭を使うダンジョンだった。
でも、この『灼熱の火山』は違う。
その名前と、私が書き写した「常に灼熱の空気が漂い、溶岩が川のように流れる」という短いメモ。たったそれだけの情報が、このダンジョンの本質を雄弁に物語っていた。
これは、小手先の技が通用しない、純粋な力試しの舞台だ。環境そのものが、最大の敵。
Aランクパーティーが三組も撤退したというのも、おそらく準備不足が原因だろう。この世界の耐火装備なんて、たかが知れている。どんなに屈強な戦士でも、灼熱の空気の中では呼吸もままならないだろうし、魔法使いの防御魔法も、絶え間なく降り注ぐ火の粉の前ではすぐに魔力が尽きてしまう。
(……面白くなってきた)
生半可な魔法は通用しない。小手先のトリックも通用しない。これまでの冒険とは全く違うアプローチが求められる。それこそが私の新しい冒険の舞台にふさわしいじゃないか。
「決めたわ。次の目的地は、ここにしましょう」
「わふん?」
私の独り言に、足元で丸くなっていたフェンが不思議そうに顔を上げた。
「灼熱の空気に溶岩の川。それらを攻略するために必要なものは、おそらくただ一つ」
私はわざとらしく少しだけ間を置いて続けた。
「最強の耐火服」
「くぅん?」
「ええ。でも、この世界の技術で作られたものでは、きっと不十分でしょうね。ならば、作るしかありませんわ。この私が、この世界の常識を覆すような、全く新しい理屈の耐火服を」
私のあまりにも突拍子もない宣言に、フェンはきょとんとした顔で小首を傾げた。
私の頭の中にはもう、その設計図がはっきりと見えていた。
熱を遮断するのではなく、熱そのものをコントロールする。
そんな、魔法と科学が融合した、夢のような装備。
「さあ、フェン。忙しくなるわよ。私たちの工房で、新しい発明品の開発を始めましょう!」
私の声はもう、完全にいつもの調子を取り戻していた。




