第三十四話:森の恵みと新たな噂
広い庭。
ざわざわと風にそよぐ木々の葉が、まるで私たちの帰還を歓迎する凱旋のファンファーレのように賑やかな音を立てていた。
『沈黙の樹海』での冒険は、間違いなくこれまでで最も神秘的な体験だった。
森そのものが意思を持つ主との出会い、そしてこの身に授かった『森の加護』。
だけれど、これらの壮大な冒険も、この我が家にあるふかふかのベッドやソファの前では色褪せていくことだろう、きっと。
「ただいま、我が家!世界で一番落ち着く私たちのセーブポイントよ!」
私が家の門を開け放ち、高らかにそう宣言する。
「わふぅぅぅんっっ!!」
フェンも私の声に負けじと、この芝生の上へと飛び込んでいく。
私たちは家に戻ったのだ。
この安全で私たちがいるべきところへ。
◇
冒険の疲れと装備を脱ぎ、ソファで寛いでいたときだった。
(そういえば……あの『森の加護』、一体どれくらいの効果があるのかしら?)
森の主から授かった、全ての命の成長を助けるという、とてつもない力。あの時はただただありがたく頂戴したけれど、その具体的な効果についてはまだ何も試していない。
ゲーマーとして新しいスキルを手に入れたら、まずその性能を確かめてみたくなるのは当然の性というものだ。
「……そうだわ。試してみましょうよ、今すぐに!」
私はソファから勢いよく起き上がった。私の突然の行動に、隣で気持ちよさそうに寝ていたフェンがびくりと体を揺らして目を覚ます。
「ごめんごめん、フェン。いいことを思いついたの。ちょっと庭を散歩しましょうか。未来のための宝探しにね」
「わん?」
私の言葉にフェンは不思議そうに小首を傾げた。
私はそんな相棒を促し、今後の私たちの冒険の生命線をさらに盤石なものにするべく、広大な自宅の庭へと意気揚々と足を踏み出したのだった。
◇
私はフェンを連れて、我が家のハーブ畑へと向かった。
「すごい!」
青みがかった丸っこい葉は太陽の光をたっぷりと浴びて、つやつやと輝いている。その表面はベルベットのようになめらかで、生命力に満ち溢れていた。
私がしゃがみ込んでその瑞々しい葉を指でそっとつまむと、すうっとするような爽やかな香りが立ち上った。
「くんくん……わふん」
私の足元でフェンもその清涼感のある香りが気に入ったのか、楽しそうに鼻を鳴らしている。
「この子たちがいれば私たちの冒険は、もっともっと安全なものになるはずだわ。そしてここからが本番よ」
私はすうと大きく息を吸い込んだ。
そして体の中に眠るあの温かい力を、ゆっくりと呼び覚ます。
『森の加護』
私の体の中からふわりと柔らかな翠色の光の粒子が、オーラのように立ち上り始めた。その光はまるで春の陽光のように温かく、そしてどこまでも優しい。
「さあ、私の力、受け取ってちょうだい!」
私はその翠色の光を両方の手のひらから、目の前の薬草たちへと静かに注ぎ込んだ。
イメージするのは成長の促進。
この子たちが持つ生命力のポテンシャルを、最大限に引き出してあげる。
私の魔力とはまた少し種類が違う、自然そのものから借り受けたような穏やかで力強いエネルギー。それが薬草の一枚一枚の葉に、茎に、そして根の隅々にまでじわりと染み込んでいくのが肌で感じられた。
するとどうだろう。
目の前で信じられない光景が繰り広げられた。
さわさわさわさわさわさわさわ……。
まるでビデオの早送りを見ているかのような、奇跡の光景。
翠色の光を浴びた薬草たちが、目に見えてぐんぐんとその背を伸ばし始めたのだ。
つぼみだったものがゆっくりと、しかし確実にその花弁を開いていく。
葉はさらに大きくそして厚みを増し、その表面にはまるで朝露が宝石になったかのようにきらきらと光る魔力の雫がいくつも浮かび上がってきた。
あたりには先ほどとは比べ物にならないくらい、濃密で甘く清らかな薬草の香りが満ち満ちていく。
ほんの数十秒の出来事。
けれどその数十秒の間に私の目の前のハーブ畑は、ただの薬草畑から、もはや伝説級の秘薬が群生する聖地のような場所へとその姿を完全に変えていた。
「…………」
「わふぅぅぅ……」
私とフェンはしばらくそのあまりにも幻想的で非現実的な光景に、ぽかんと口を開けて呆然と見つめていた。
「……す、すごい。すごいわ、これ……!」
やがて我に返った私が絞り出すような声でそう言うと、フェンもまた感嘆のため息を漏らした。
(これが『森の加護』の力……! とんでもないチートスキルを手に入れてしまったわ、私……!)
このとんでもないスキルを使えば、まさに無限の数の回復薬が得られそうだ。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
◇
未来への最高の保険を手に入れた私たちは、その後心ゆくまで休日を満喫した。
穏やかな時間はまるで夢のように、あっという間に過ぎていく。
そしてその日は久しぶりに、街へ買い物に出かけることにした。
家の食料庫が少しだけ寂しくなってきたからだ。
フロンティアの市場は今日も変わらず、生命力に満ちた熱気に満ちていた。
スタンピードの爪痕など、もはやこの街のどこを探しても見当たらない。いやあるとすればあの爆破で生まれた堀だろうか?
ただそれらは防衛設備として活用されて、町の発展に寄与している。
それにそうだ。
あの未曾有の危機を街全体で乗り越えたという自信が、人々の顔つきを以前よりもずっと力強く、そして明るくさせていることを私は感じていた。
「わふん!」
私の足元でフェンがくんくんと鼻を鳴らした。彼の視線の先には馴染みの肉屋の店先で、じゅうじゅうと音を立てて焼かれている巨大なソーセージの串焼きがある。その大きな黒い瞳が「あれが食べたい!」と雄弁に物語っていた。
「分かったわ、フェン。今日の夕食は、あれにしましょうね」
「くぅん!」
私の言葉にフェンは嬉しそうに一声鳴くと、私の足にぐりぐりとそのもふもふの頭を押し付けてきた。その様子がたまらなく愛おしくて、私は思わず笑みをこぼした。
私たちはすっかり見慣れた市場の道を、目的の肉屋へと向かって歩いていた。道行く人々が私たちに気づくと、親しげに手を振ってくれる。
「あら、アリアさん! それにフェンちゃんも! こんにちは!」
「やあ、英雄様! 今日も相変わらずべっぴんさんだねえ!」
そんな気安く温かい声の一つ一つに、私はにこやかに手を振りながら応える。
公爵令嬢だった頃には決して感じることのできなかった、人と人との繋がり。それが今の私にとってはどんな高価な宝石よりも、ずっとずっと価値のある宝物だった。
肉屋へと向かう途中。
八百屋の店先で井戸端会議に花を咲かせていた、おかみさんたちの会話がふと私の耳に飛び込んできた。
「ねえ聞いた、奥さん? なんでも王都から本物の聖女様が、いらっしゃるんですってよ、この街に」
「まあ、本当かい? 聖女様がこんな辺境の街にどうしてまた?」
「それがねえ、なんでもこの前の魔物の大発生の被害を慰問しに来てくださるんだとか。お優しい方だねえ、聖女様は」
「へええ。それはありがたい話だねえ。でもうちの街にはもう、アリア様っていう本物の聖女様がいらっしゃるから大丈夫だってのにねえ」
「あら、おだまりよあんた。そんなこと大きな声で言ったら罰が当たるよ」
そんなどこにでもある、他愛もない世間話。
けれどその会話の中にあったたった一つの単語。
それが私の足をまるで地面に縫い付けられたかのように、ぴたりと止めさせた。
聖女。
その言葉を聞いた瞬間。
私の脳裏に一人の少女の顔が、まるで暗い夜道で突然雷が光ったかのように鮮やかに、そしてどこまでも鮮明に浮かび上がった。
桜色の綿菓子みたいにふわふわとした髪。
大きな瞳には今にもこぼれ落ちそうなほどの、透き通った涙を溜めて。
そしてその小さな唇から紡がれる、鈴を転がすように甘く、そして計算され尽くしたどこまでも可憐な言葉。
私の腹違いの妹。
リアナ。
「…………」
私の口元からふっと笑みが消えた。
別に怒りとか憎しみとか、そういうマグマみたいにどろりとした感情が心の奥から湧き上がってきたわけじゃない。
ただ純粋に。
(……面倒なことになりそうね)
そんなどんよりとした灰色の、うんざりとした予感だけが私の心の中を、まるでじわじわと広がるインクの染みのようにゆっくりと覆い尽くしていく。
あの王立学園の卒業記念パーティー。
私の人生が百八十度、いやそれ以上に劇的な変化を遂げたあの夜。
彼女は私の前に崩れ落ち、迫真の演技で私を悪役に仕立て上げた。そのあまりにも非の打ち所がない悲劇のヒロインっぷりには、今思い出してもある種の感心さえ覚えてしまう。
彼女はそういう生き物なのだ。
自分の可憐さと涙を最大の武器として周囲の同情を買い、そして自分の望むものを全て手に入れてきた。
あの時も彼女の狙いは『聖女』という地位。そして私の婚約者であったアレクシオス王太子。
そのために私という邪魔な存在を、表舞台から綺麗さっぱり消し去ってみせた。
見事な手腕だったと、今なら素直にそう思える。
王都を追放された後、風の噂で彼女が王太子の新しい婚約者の座に収まったという話は聞いていた。
そしてその類まれなる治癒の魔法の力で、民衆から『聖女』と呼ばれ崇められているとも。
まあ彼女のことだ。きっとその聖女という役柄も、見事に演じきっていることだろう。
けれどなぜ今、このフロンティアに?
おかみさんたちの話が本当なら、目的はスタンピードの被害の慰問。
なるほど実に聖女様らしい、慈悲深いお考えだ。
きっと彼女の頭の中では、こんな筋書きが出来上がっているに違いない。
―――魔物の大群に踏みにじられ街は半壊。人々は家を失い食料もなく、絶望の淵でただ天からの救いを待っている。そこへ光り輝く馬車に乗って颯爽と現れる一人の聖女。その慈愛に満ちた微笑みと奇跡の力で傷ついた人々を癒し、希望を与える。民衆は涙を流して彼女を崇め、その名は伝説となって後世にまで語り継がれる……。
(……ぷっ)
思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
あまりにも陳腐で、そして彼女らしい自己満足に満ちた脚本。
でも残念だったわね、リアナ。
あなたの思い描く悲劇の場面はもう、どこにも存在しない。
このフロンティアの街はあなたの助けなど、一ミリも必要としていないのだから。
「くぅん?」
私のただならぬ気配を感じ取ったのかフェンが、不思議そうな顔で私のことを見上げてきた。その大きな黒い瞳が「どうしたんだ、主?」と心配そうに揺れていた。
私はそんな彼に「何でもないわ」と無理やり笑顔を作ってみせる。
けれどその笑顔はきっと、ひどくこわばっていたに違いない。
まあいい。
彼女がこの街に来てどんな反応をするのか。
それはそれで少しだけ面白い見世物になるかもしれない。
私はそう無理やり自分を納得させると、市場の喧騒の中へと歩き出した。




