第二十九話:化学と魔法の融合
「アリア殿、本気で、本気で言っておられるのか!?」
ギルドマスターが、懇願するような、それでいて完全に混乱した目で私の顔を覗き込んできた。その顔は血の気を失い、土気色になっている。
「ええ、もちろん本気ですよ。冗談を言っているように見えますか?」
「いや、しかし……! 肥料なぞ、集めてどうするんじゃ! 畑を耕すわけでもあるまいし! 魔物の群れに、投げつけるとでも言うのか!?」
「まあ、似たようなものです」
「に、似たようなものって……!」
私の落ち着いた返答に、ギルドマスターは頭を抱えて呻き声を上げた。周りの冒険者たちも、同じような反応だった。
「おいおい、俺たちの命がかかってるんだぜ? ふざけるのも、大概にしてくれよ!」
「そうだそうだ! 肥料で魔物が倒せるなら、衛兵なんていらねえだろうが!」
ざわざわと不満と疑念の声が部屋中に広がった。その中で、受付嬢さんがためらいがちに、しかし凛とした声で口を開いた。
「皆さん、まずはアリアさんの話を聞きましょう! 彼女はこれまでも、私たちの常識を超えたやり方で、何度もこの街に貢献してくれたではありませんか!」
彼女の言葉に、冒険者たちが少しだけ気圧される。その通りだった。最速でAランクに駆け上がった私のこれまでの功績は、確かに彼らの常識の外にあった。
(お、受付さん、ナイスアシスト!)
私は心の中で彼女に親指を立てた。
「言葉で説明するよりも、見せた方が早いわね」
私は、芝居がかったように、やれやれと肩をすくめてみせた。
「皆さん、どうにも私の言うことを信じていただけないようですし。百聞は一見にしかず、と申しますでしょう? 少し場所を移して皆さんにご覧いただきましょうか。私のささやかな化学実験を」
「か、がく……?」
「じっけん……?」
耳慣れない言葉に、冒険者たちがきょとんとした顔で顔を見合わせる。
私はそんな彼らの反応を面白がるように、にこりと微笑んだ。
「さあ、皆さん、こちらへどうぞ。ギルドの裏手にある空き地で十分です。それから、どなたか近くの農家から肥料をほんの一握りで結構ですので、持ってきてはいただけませんか?」
私の自信に満ちた抗いがたいその態度に、冒険者たちはまだ半信半疑ながらも、何か尋常でないことが始まろうとしているのを感じ取ったらしい。
彼らは顔を見合わせ、やがて一番近くにいた若い冒険者の一人が、「……わ、分かりました! すぐに持ってきます!」と素早く部屋を飛び出していった。
(よし、食いついてきたわね。ここからが私の独壇場よ!)
私は内心でそんな実にくだらないガッツポーズを決めながら、絶望に沈む男たちを伴って、月明かりが射し込むギルドの裏庭へと意気揚々と足を踏み出したのだった。
◇
ギルドの裏手にある空き地は、冷たい夜の空気に満ちていた。
遠くで夜警の兵士が打ち鳴らす拍子木の音が、からんと乾いた音を立てていた。
私の周りには、ギルドマスターと受付嬢さんを始めとする十数人の冒険者たちが、少し離れて、しかし興味津々といった様子で私の一つ一つの動きを息を詰めて見守っていた。
彼らの視線はもはや嘲笑や侮蔑といったものを失い、純粋な好奇心とほんの少しの期待がうかがえる空気だ。
「お、お待たせしました! ひ、肥料、持ってきました!」
そこへ先ほどお使いを頼んだ若い冒険者が、息を切らしながら駆けつけてきた。
その手には麻袋が握られており、中からはむわりと土と家畜の糞尿が混ざった独特のあの匂いが漂っていた。
「ご苦労様。それで十分ですよ」
私は彼から麻袋を受け取ると、その中身を地面にざらりと広げた。
茶色くて少し湿った、どこにでもあるただの堆肥。
それを見た冒険者たちから、またしても「……本当にただの肥料じゃないか」「一体、これで何を……」という困惑の声が聞こえる。
「さて、と。皆さん、よく見ていてくださいね。これから、このただの土くれが魔法の素材へと変化する、その瞬間を」
私はにやりと笑うと、黒檀の杖を静かに懐から取り出した。
そして地面に広げた肥料の上に、静かに手をかざす。
目を閉じ、意識を集中させる。
まずは生活魔法、『乾燥』。
この肥料に含まれている余計な水分を、根こそぎ取り除く。
私の手のひらから目には見えない乾いた風が放たれる。
するとどうだろう。
茶色く湿っていた肥料がみるみるうちにその水分を失い、ぱらぱらとした乾いた砂のような状態へと変わった。
「お、おい、見ろよ……! 一瞬でからからに……!」
誰かが驚きの声を上げる。
けれど、驚くのはまだ早い。
「ここからが本番です」
私は今度は生活魔法、『分離』を発動させる。
イメージするのはこの乾いた土の粒子の中から、ある特定の成分だけを選り分けること。
前世の化学の知識が私の頭の中で、明確にその成分の名を告げていた。
硝酸カリウム。
通称、『硝石』。
火薬の最も重要な主原料。
(イメージは砂場の中から特定の形の砂粒だけをピンセットで、一つ一つつまみ出す感じ。もっと精密に、もっと見事に!)
『元素分離』
私が心の中でそう唱えると、黒檀の杖の先端から翠色の微弱な魔力の波が、乾いた肥料の中へと染み込んでいった。
するとどうだろう。
茶色い土の山の中から、まるで目には見えない磁力にでも引き寄せられるかのように、きらきらと光る白い塩の結晶のような粉末だけが、ふわりと宙に浮かび上がってきたのだ。
「な、なんだ、ありゃあ……!?」
「ただの土くれから、塩みてえな粉が……!」
「ま、魔法か……? いや、こんな魔法、聞いたこともねえぞ……!」
目の前で起こっているあまりにも非現実的な光景に、冒険者たちは騒然としている。
私は宙に浮かんだ白い粉末を風魔法で、静かに持参していた小さな革袋の中へと集める。
「よし、第一段階、完了ですね」
私は満足げに一つ頷くと、今度は自分の冒険用の革袋から別の二つの小さな袋を取り出した。
一つには火山地帯で採れるという鮮やかな黄色の粉末、硫黄。
もう一つには木を蒸し焼きにして作った真っ黒な粉末、炭。
この二つは街の錬金術師の店で、護身用の煙玉の材料として安く売られていたものだ。
「そしてこの三つの粉を、ある特別な比率で混ぜ合わせます」
私は地面に広げた大きな羊皮紙の上に、先ほど抽出した硝石、硫黄、そして炭の粉末を慎重に少しずつ載せる。
その配合比率は私の前世の記憶に、くっきりと刻み込まれていた。
硝石が七十五パーセント。
炭が十五パーセント。
硫黄が十パーセント。
これこそが黒色火薬の黄金比率。
「……おい、今度は黒い砂か……? 一体、何がしてえんだ、あのお嬢様は……」
誰かがぽつりと、そんな呆れたような声を漏らした。
私はそんな声などどこ吹く風。
三つの粉末を羊皮紙の上で均一に、そして丁寧に混ぜ合わせる。
やがて私の目の前には、不吉なまでに真っ黒でさらさらとした、一握りの粉末の山が出来上がった。
「さあ、皆さん。いよいよフィナーレです」
私はその黒い粉末を水魔法でほんの少しだけ湿らせ、粘土のように練り上げると、親指の先ほどの大きさの小さな黒い塊を作り上げた。
そしてそれを空き地のちょうど真ん中あたりに、静かに置く。
「皆さん、少しだけ後ろへ下がって耳を塞いでいてくださいね。ほんの少しだけ、大きな音がしますから」
私のそのあまりにも静かな口調。
それが逆に彼らの緊張感を最高潮にまで高めていた。
冒険者たちはごくりと唾を飲み込みながら、言われるがままにじりじりと後退り、おそるおそるといった様子で自分の耳を手で覆った。
私はそんな彼らの様子を満足げに一瞥すると、黒い塊から十分に距離を取った場所で立ち止まった。
そしてその塊に向かって、黒檀の杖の先端をぴしりと向ける。
最後の仕上げはこれ。
生活魔法、『発火』。
指先からぽんと、ごくごく小さな豆粒ほどの火の玉が、夜の闇を貫いて黒い塊へとまっすぐに飛んでいった。
火種が黒い塊に触れた、その瞬間。
◇
―――ドォォォォォォォォォォンッ!!
空気を打ち破るという生易しいものではない。
空気を殴りつけるとでも表現すべきか。
鼓膜が破れそうなほどの凄まじい轟音が、夜の静寂を打ち砕いた。
それと同時に地面が、まるで巨人に殴りつけられたかのようにびりりと激しく揺れる。
黒い塊が置かれていた場所から、眩いほどのオレンジ色の閃光が一瞬だけ飛び散った。
熱風が衝撃波となって、私たちの体をぐらりと揺らす。
「「「うわあああああああああっ!?」」」
冒険者たちの悲鳴とも驚愕ともつかない、素っ頓狂な声があちこちから聞こえた。
やがて轟音が耳鳴りのような残響を残してゆっくりと消えていく。
煙が晴れたその先にあった光景に、その場にいた誰もが言葉を失った。
さっきまでただの平らな地面だったはずの場所にぽっかりと、大人が一人すっぽりと嵌ってしまいそうなほどの黒く焦げ付いた小さなクレーターが口を開けていたのだ。
その周りの土は爆風で抉り取られるように吹き飛ばされている。
焦げ付いた土の鼻をつく匂いがあたりに漂っていた。
「…………」
「…………」
「し、信じられない……。肥料がこんな威力に……。アリアさん、あなた、一体……」
最初に口を開いたのは受付嬢さんだった。その声は呆然自失という言葉をそのまま音にしたかのように、ひどくかすれていた。
親指の先ほどのあの小さな黒い塊が、これだけの破壊力を生み出した。
そのあまりにも信じがたい事実を、彼らの脳はまだ処理しきれずにいるようだった。
肥料が。
ただの家畜の糞尿が。
上級の攻撃魔法にも匹敵する強力な爆薬に変わった。
この目の前で。
たった一人の手によって。
「……アリア殿」
やがて我に返ったギルドマスターが、かすかに震える声で私の名を呼んだ。
私はそんな彼のほうをゆっくりと振り返る。
そしていつものように、にっこりと優雅に微笑んでみせた。
「どうでしたか、マスター? 私のささやかな化学実験は」
「……君は……一体、何者なんじゃ……」
その問いに私は悪戯っぽく肩をすくめてみせる。
「さあ? ただの通りすがりの冒険者ですよ。少しばかり生活魔法が得意な、ね」
私はもう一度、冒険者たちのほうへと振り返った。
彼らの顔からはもはや嘲笑も侮蔑も疑念もすっかり消え去っている。
そこにあるのは畏怖と驚嘆、そしてほんの少しの希望。
「さて、マスター。私の作戦、採用していただけますか?」
私のその問いにギルドマスターは、まるで夢から覚めたかのように、はっと顔を上げた。
そしてその顔には先ほどまでの絶望などどこにもない。
そこにあったのは、この街を守る長としての覚悟と決意だった。
「……採用も、何も! これしか、ないじゃろう!」
彼は腹の底から絞り出すようにそう叫んだ。
そして周りにいるまだ呆然としている冒険者たちに、号令をかけた。
「全員、聞けい! ぐずぐずしておる暇はないぞ! 今すぐこのアリア殿の指示に従い、街中の全ての家を回り、肥料を根こそぎここに集めるんじゃ!」
「それから街にいる全ての魔法使いを叩き起こせ!生活魔法が使える者なら誰でも構わん! アリア殿の指導のもと、この『黒い粉』を夜が明けるまで作り続けるんじゃあ!」
その力強い魂のこもった号令。
それが絶望の淵にいた冒険者たちの心に、再び闘志を燃え上がらせた。
「「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」
地響きのような雄叫び。
それはもはや諦めの声ではない。
希望と闘志に満ちた、戦士たちの戦いの雄叫びだった。
冒険者たちは先ほどまでの絶望が嘘のように活気に満ちた表情で、次々と夜の街へと駆け出していった。
肥料を集める者、魔法使いを呼びに行く者、そして私に黒い粉の作り方の教えを請う者。
ギルドの裏庭は一瞬にして、この街の未来を賭けた巨大な兵器工場に変わったのだった。
◇
それからの時間はまさしく戦争のようだった。
私の周りには叩き起こされまだ寝ぼけ眼の、しかし目の前の異常事態に尋常でない空気を感じ取っている街の魔法使いたちが並んでいた。
その数は二十人ほど。
そのほとんどが私と同じように火を起こしたり水をきれいにしたりといった、簡単な生活魔法しか使えない非戦闘員の魔法使いたちだ。
けれど今のこの状況では、彼らこそが最強の兵士だった。
「いいですか皆さん! まずはこの肥料から水分を完全に抜き去ります! 『乾燥』の魔法を全力で!」
「「「は、はいっ!」」」
私の指示のもと魔法使いたちが山のように積まれた肥料に、一斉に魔法を行使する。
あちらこちらからむわりと湯気が立ち上り、乾いた土の匂いがあたりに満ちていった。
「次に『分離』の魔法です! 私がお手本を見せますから、この白い粉だけを丁寧により分けてください!」
私はもう一度、硝石を抽出する過程を彼らにゆっくりと実演してみせた。
最初は戸惑っていた彼らも何度か練習を繰り返すうちに、次第にそのコツを掴んでいった。
「おお……! できた!白い粉が出てきたぞ!」
「すごい……! 本当に肥料からこんなものが……!」
「やっぱAランク様は、すげえや……!」
あちらこちらから歓声が上がる。
その顔にはもはや絶望などどこにもない。
自分の力がこの街を救う大きな力になる。
その確信が彼らを強くさせていた。
「受付さん、申し訳ないのですが硫黄と炭がもっと必要になります。街中の店を回って在庫を全て買い取ってきていただけますか? 資金はギルドで立て替えておいてください!」
「は、はい! お任せください! すぐに手配します!」
受付嬢さんが私の頼もしい補佐役として、夜の街へと駆け出していった。
作業は驚くほどの効率で進んでいった。
私たちは二種類の爆薬を用意した。
一つはあの未完成の堀を街を囲むように一気に完成させるための発破用の爆薬。
そしてもう一つは、完成した堀の向こう側にいる魔物の群れを直接攻撃するための迎撃用の爆薬。
夜が白々と明け始める頃。
ギルドの裏庭には大小様々な黒い粉が詰められた樽や袋が、まるで小さな山のようにうず高く積み上げられていた。
それは私たちの一夜漬けの努力と、そして希望の結晶だった。
◇
全ての準備が整った。
私は一夜漬けの作業で少しだけ汚れた頬を手の甲で拭い、ふうと一つ大きな息をついた。
隣ではフェンが心配そうに私の顔をじっと見上げていた。
冷たい朝の空気が火照った頬に心地よかった。
東の空がゆっくりと深い藍色から、燃えるようなオレンジ色へとその表情を変え始めていた。美しい夜明け。けれどその美しい景色のすぐ下、遥か南の地平線には一本の黒くて不吉な線が、まるで大地の裂け目みたいにうっすらと見えていた。
それはまだ小さい。
けれど確実にこちらのほうへと、その幅と濃さを増しながら近づいてきていた。
魔物の大群。
「……来たわね」
ぽつりと私の口からそんな言葉が漏れた。
隣ではフェンが「ぐるるる……」と低い唸り声を上げていた。彼の全身の銀色の毛がハリネズミのように逆立っていた。彼の優れた嗅覚と本能が、あの黒い線から放たれるおびただしい数の悪意と生命の気配をはっきりと感じ取っていた。
「大丈夫よ、フェン」
私は彼の頭を優しくぽんと叩いた。もふもふとした温かい感触が、私の張り詰めていた気持ちを少しだけ和らげた。
私たちは今フロンティアの街の南側を囲む、粗末な木の柵の上に立っていた。私の後ろにはこの街の運命を背負った者たちが、息を詰めて同じ方角を見つめていた。
ギルドマスター、街の衛兵隊長、そして昨夜私の無茶な作戦に最後まで付き合ってくれた腕利きの冒険者たち。その誰もが一睡もしていないのだろう。その顔には疲労とこれから始まる戦いへの緊張が色濃く浮かんでいた。
「……本当に、大丈夫なのでしょうか、アリアさん」
私の隣で受付嬢さんが不安そうな声でそっと囁いた。彼女も昨夜は私たちの兵器工場で物資の調達や連絡係として、徹夜で駆け回っていた一人だ。その栗色の髪は少しだけ乱れ、目の下にはうっすらと隈ができていた。
「ええ、もちろん。見ていてください。最高のショーがもうすぐ始まりますから」
私は彼女の不安を吹き飛ばすかのように、にっこりと花の咲くような微笑みかけた。
私のそのあまりにも場違いな自信に彼女は少しだけきょとんとした顔をしていたけれど、やがてこくりと一つ頷くと、「はい、信じています」と力強い声で答えた。
いよいよ始まる。
フロンティアの街の未来を賭けた、一大防衛戦が。
私の心は不思議なくらい静かだった。
恐怖はない。
「さあ、始めましょうか、フェン」
私は隣に立つ最高の相棒に、そっと囁いた。
「私たちの街を守る、最高のタワーディフェンスを」
「わふん!」
彼は力強く答えた。




