第二十八話:絶望的な防衛会議
夜の闇を切り裂くようにして、私たちはフロンティアの街を駆けていた。
私の少し前を、ぜえぜえと肩で息をしながら走るのは、この街の冒険者ギルドを取り仕切るギルドマスターその人。普段の威厳に満ちた姿はどこへやら、その背中は焦りと疲労で痛々しいほどに丸まっている。彼の掲げるランタンの頼りない光が、石畳の道を慌ただしく照らし出していた。
「はあ……っ、はあ……っ! アリア殿、申し訳ない! 急がせてしまって……!」
「いえ、お気になさらないでください。それより、マスターこそ大丈夫ですか? あまりご無理をなさると」
「こ、これくらい、なんの! 街の一大事なんじゃから!」
彼の悲痛な声が、しんと静まり返った夜の街にやけに大きく響き渡る。
私の足元では、フェンが音も立てずに、しかし警戒を最大限に高めながら並走していた。彼の優れた嗅覚が、街全体を覆い始めている、尋常ならざる『何か』の気配をはっきりと感じ取っているのだ。
(魔物の大発生……。いわゆるスタンピードってやつ? 冗談じゃないわ。私の家が、ようやく手に入れた最高のセーブポイントが、雑魚モンスターの群れに蹂躙されるなんて、絶対に許せないんだけど!)
先ほど、我が家の扉の前で叩きつけられた、その絶望的な言葉。
それは、私の穏やかだった休日気分を、木っ端微塵に粉砕するには十分すぎる威力を持っていた。
私の家。私とフェンが、ようやく手に入れた、かけがえのない宝物。
それが、魔物の大群に蹂躙されてしまうかもしれない。
その事実が、私の思考を、普段とは違う色に染め上げていた。
いつものような、ゲーム感覚の楽しさじゃない。
もっと、冷たくて、静かなもの。
『私のテリトリーを荒らす奴は、誰であろうと容赦しない』
そんな、実にシンプルな怒りにも似た感情が、私の心の奥底で、青い炎のように静かに燃え上がっていた。
やがて、見慣れた冒険者ギルドの建物が見えてくる。
いつもなら、この時間にはもう閉まっているはずの重い木の扉が、今夜は大きく開け放たれていた。中からは、ランタンや松明の明かりが漏れ出し、多くの人々のざわめきが、まるで巣を揺躙された蜂の羽音のように、不穏に聞こえてくる。
ギルドの中は、まさに戦場のようなありさまだった。
屈強な冒険者たちが、鎧を身に着け、武器を手に、険しい顔つきで行き交っている。壁際には、負傷者に備えてか、清潔な布や薬草が山のように積まれていた。酒場のテーブルはひっくり返され、作戦用の大きな地図を広げるためのスペースと化している。
汗と、鉄と、そして、むわりと立ち込める緊張の匂い。
その全てが、これから起ころうとしている災厄の大きさを、雄弁に物語っていた。
「マスター! ご無事でしたか!」
「アリアさん! 来てくださったのですね!」
私たちの姿を見つけたのは、栗色の髪をきゅっと結い上げた受付嬢さんだった。彼女も鎧こそ着ていないが、その顔にはいつもの朗らかな笑みはなく、緊張と不安が濃く浮かんでいる。
「ええ、聞きました。私の家も危険に晒されているようですし、他人事ではありませんから」
私が答えると、彼女は「よかった……!アリアさんがいてくだされば、百人力です!」と、少しだけ安堵の表情を見せた。
「さあ、アリア殿! 作戦会議室はこちらじゃ!」
ギルドマスターに促されるまま、私たちはギルドの一番奥にある、普段は幹部しか入ることのできない一室へと足を踏み入れた。
◇
作戦会議室、と呼ばれたその部屋は、むっとするような男たちの熱気で満ちていた。
部屋の中央に置かれた大きな円卓を、十数人の男たちが、険しい顔つきで囲んでいる。
その誰もが、このフロンティアのギルドで腕利きとして知られる、ベテランの冒険者たちだった。巨大な両手剣を背負った戦士、いかにも切れ者といった風情の魔術師、そして、気配を消した盗賊風の男。パーティーのリーダー格ばかりが集められているのだろう。
その誰もが、一様に暗い表情をしていた。
部屋の空気は、重く、そして冷たくよどんでいる。
「……それで、斥候からの続報はまだないのか!」
「ダメです! 先ほど送った第三斥候隊からの連絡を最後に途絶えました! おそらくは……」
「くそっ! 飲まれちまったか……!」
円卓の上には、フロンティア周辺の広大な地図が広げられている。
そして、その地図の上には、街を取り囲むようにして、無数の、禍々しい赤色の駒が置かれていた。
その駒の一つ一つが、魔物の群れを示しているのだろう。
その数は、もはや、『群れ』という生易しい言葉では表現できないほどに、膨大だった。
まるで、赤い津波が、じわじわと、このフロンティアの街へと押し寄せてきているかのようだ。
「……ひどい、な」
誰かが、絞り出すような声で、そう呟いた。
ゴブリン、オーク、コボルト、ジャイアントスパイダー……。
様々な種族の魔物が、統率もなく、ただ破壊衝動のままに、一つの巨大な『塊』となって、南から進軍してきている。
その規模は、これまでの観測史上最大だろう。
このままいけば、あと半日もせずに、先頭集団がこの街の城壁に到達するのは間違いない。
「街の防衛設備は、どうなっているんだ!」
誰かが、近くにいた街の衛兵の隊長らしき男に、鋭く問いかけた。
問われた隊長は、悔しそうに、唇をぎりりと噛み締めた。
「……申し訳ありません。ご存知の通り、このフロンティアは、まだ発展途上の街。防衛設備と呼べるほどのものは、なきに等しいのが現状です」
彼の言葉に、部屋の空気が、さらに重くなる。
その通りだった。
この街を囲んでいるのは、高い石の城壁ではない。ただの、粗末な木の柵だ。魔物の侵入を少しだけ遅らせる程度の、気休めにもならないような、頼りない柵。
一応、街を本格的な防衛用の堀で囲う計画があった。
けれど、予算不足と人手不足で、その工事は、全体の三分の一も進まないうちに、無残にも中断されてしまっている。
今、予定地にあるのは、中途半端に掘られた溝だけ。
「……つまり、我々は、ほぼ丸裸で、あの津波を迎え撃たなければならん、というわけか」
ドワーフの戦士が、自慢の髭を苦々しげにいじりながら、吐き捨てるように言った。
誰も、その言葉を、否定できなかった。
(うわあ、すごい絶望顔。完全にデスペナルティ直前の空気じゃない。これ、完全に詰みパターンってやつ?)
絶望。
その二文字が、部屋にいる全員の顔に、まるで仮面のように、べったりと張り付いている。
「兵士の数は?」
「常駐している衛兵は、五十名ほど。とてもじゃありませんが、街全体を守り切れる数では……」
「冒険者はどうだ! 今、ギルドにいる動ける者は、全員招集しろ!」
「すでに、手は打っております! ですが、Cランク以上の腕利きは、ほとんどが出払っている状況で……! 残っているのは、新米ばかり……!」
次々と報告される、絶望的な情報。
打つ手、打つ手が、ことごとく塞がれていく。
まるで、じわじわと首を絞められていくような、息苦しい閉塞感。
部屋の中を、重苦しい沈黙が支配した。
聞こえてくるのは、誰かの荒い息遣いと、壁の松明が、ぱち、と静かに爆ぜる音だけ。
「……ダメだ。もう、おしまいだ……」
誰かが、ぽつりと、そんな諦めの言葉を漏らした。
その言葉は、まるで、乾いた薪に投げ込まれた、小さな火種のように、あっという間に、他の者たちの心にも燃え移っていく。
「こんな数の魔物、どうやったって止められるわけがねえ……!」
「街を、捨てるしか……。いや、今からじゃ、もう逃げる時間も……」
「くそっ! くそっ! どうすりゃいいんだよ!」
焦りと、恐怖と、そして、無力感。
負の感情が、部屋の中を満たしていく。
歴戦の猛者であるはずのベテラン冒険者たちでさえ、完全に戦意を喪失しかけていた。
誰もが下を向き、諦めに染まりきった、その瞬間だった。
「―――皆さん、随分と。瀕死のような顔をしていますね」
場違いなまでに、明るく、そして、どこか楽しんでいるかのような私の声。
それは、この静まり返った部屋の中に、驚くほど、よく通った。
それまで、部屋の隅で腕を組んで、黙って議論の推移を見守っていた、私。
その一言に、部屋中の視線が、まるで、申し合わせたかのように、一斉に、私へと突き刺さった。
「な、なんだと……?」
「ソロコンビのAランク……」
冒険者たちの、訝しげな声。
ギルドマスターも、受付嬢さんも、驚いたように、私のことを見つめている。
私は、そんな視線の全てを、いつものように受け流してみせた。
「だって、そうでしょう? まだ戦いは始まってもいないというのに、まるで、負けが決まったかのような顔をして。そんなことでは、勝てる戦いも、勝てなくなってしまいます」
「……っ! 何を、知ったような口を! あんたに、この絶望的な状況が、分かっていないのか!」
熊のような体躯の戦士が、怒りを滲ませた声で、私に食って掛かってきた。
この絶望的な状況では誰しも、同じ気持ちだろう。
「ええ、分かっていますとも。状況が絶望的であることくらい」
私は、きっぱりと言い切った。
「防御設備は、なきに等しい。兵士の数も、圧倒的に足りない。そして、敵の数は、こちらの予想を遥かに上回っている。違いますか?」
「……分かっているなら、なぜ、そんな呑気なことが言える!」
「呑気?いいえ、違います。私は、いつだって、真剣そのものです」
私は、ゆっくりと部屋の中央、地図が広げられた円卓へと、歩みを進めた。
そして、その地図の上を指さした。
私が指さしたのは、建設途中で放置されているという、役立たずの堀。
「皆さん、諦めるのは、まだ、早すぎると思いますよ」
「……何が、言いたい」
男の一人が、訝しげな声で、私に問いかける。
私は、にっこりと、花の咲くような微笑みを、彼に向けた。
そして、絶対的な自信に満ちた声で、こう宣言した。
「この未完成の堀を、いえ、この街全体をぐるりと囲むように、一夜にして完成させます。そして、最強の迎撃兵器を実現いたしましょう」
「…………はい?」
ギルドマスターの口から、間の抜けた声が漏れた。
彼だけではない。
部屋にいる全員が、私が、一体、何を言っているのか、全く理解できない、といった顔で、ぽかんと口を開けて、固まっていた。
水を打ったような静寂。
その静寂を破ったのは、誰かの、乾いた笑い声だった。
「は、はは……。おいおい、冗談だろ……? 街を囲む堀を、一夜でだと……? いくらAランクでも、そいつは無茶ってもんだろう」
「迎撃兵器……。だが、このソロコンビのAランク様が言うんだ……何か考えがあるのかもしれん……」
あちらこちらから、嘲笑と、しかし、これまでの実績からくる微かな期待が入り混じった声が、上がり始める。
私の言葉を、本気で受け取る者など、まだほとんどいない。
無理もない。
私の提案は、あまりにも突拍子がなく、あまりにも非現実的に聞こえただろうから。
けれど、私は、なおも悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、さらに、追い打ちをかけるように話しかける。
「そのために、皆さんにお願いしたいことが、一つだけあります」
部屋にいる全員の顔をゆっくりと、一人一人、見渡しながら続けた。
「街中の肥料を、ありったけ、集めてください」
「…………」
「…………」
「…………ひ、肥料、ですか?」
今度こそ、部屋は、完全な沈黙に支配された。
冒険者たちは、口を半開きにしたまま、彫像のように固まっている。
肥料。
家畜の糞尿や、藁を混ぜて作った、あの、畑に撒く、茶色い塊。
それが、どうして、魔物の大群との戦いに、関係があるというのか。
彼らの頭の上には、巨大な、巨大な、クエスチョンマークが、いくつも浮かんでいるのが、目に見えるようだった。
「あ、あの、アリアさん……?」
おそるおそるといった様子で声をかけてきたのは、受付嬢さんだった。彼女だけは、他の冒険者たちのように私を疑うのではなく、純粋な興味と信頼の眼差しで私のことを見つめている。
「肥料を集めて、一体、何を……? あなたがそう言うからには、きっと何か考えがあるのだとは思いますけれど……」
私は、その問いには答えず、ただ、人差し指を、そっと口元に当て、悪戯っぽく、微笑んでみせた。
「それは、見てのお楽しみ、というものですよ」
(よし、決まり。この無理ゲーみたいな防衛戦、最高のイベントに変えてやるわ)
私の頭の中には、すでに、この絶望的な防衛戦を、最高のエンターテイメントへと変えるための、完璧な攻略チャートがはっきりと描かれていた。
前世の知識と、私の生活魔法。
その二つが組み合わさった時、この世界の誰もが想像すらしなかった、とんでもない化学反応が起こるのだ。




