茶会
綾が紫翠の対を訪ねると、紫翠の侍女達も驚いたが、紫翠も驚いた。
普通、父親の妃が他の妃が産んだ皇子の対を、訪ねる事など無いからだ。
今桜が来たのに、と、慌てて紫翠は外へと出て来て、綾に言った。
「綾殿。どうしたのだ、こんな所に。父上に知られたらうるそう言われるのではないのか。」
綾は、そういえば紫翠は自分を母とは思っていないのだった、と思いながらも、言った。
「紫翠様には前妃のお子であられますから、我の子のようなもの。それより、桜殿のことが気になって参りましたの。公明様がいらしておるのに、こちらへ来られたのでしょう?王にも案じておられて、ご自分がご政務で離れられぬので、我に見て参るようにと仰せになったのですわ。ですので、紫翠様には我を、部屋の中を窺えるような場所へ、ご案内頂けますでしょうか。」
父上が言うたのか。
紫翠は、顔をしかめた。確かに自分は父の妃を寝取るようなことはしないし、この綾は自分の母にそっくりなのでそんな気にもならないが、しかし外から見たらそう見えるのではないのか。
だが、綾は断固とした顔でじっと紫翠を扇の上から見える、自分そっくりの紫の瞳で見つめている。
なので、紫翠は仕方なく答えた。
「…父上がそうおっしゃったのなら仕方がない。では、こちらへ。」
本当は隠しておきたかったのに、どこから父上のお耳に入ったものかと紫翠は思ったが、侍女がこれほどに多いのだから、言語統制でも敷かない限りは無理だろう。
紫翠は、落ち着かない気持ちになりながら、綾を連れて、応接間の隣りの部屋へと向かったのだった。
紫翠は、綾を応接間の隣りの部屋へと押し込んで、言った。
「綾殿、こちらでお待ちを。今、桜を我の居間に待たせておるのです。これから、公明が居る応接間に案内いたしますので。こちらに居るだけでも皆におかしな目で見られるのでありますから、おとなしゅうして居ってくださらぬと、父上もお困りになりまするぞ。」
綾は、厄介な妃だと思っているのだろうな、と思いながらも仕方なく頷いた。
「分かっておりますわ。我の事は、御心おきなく。」
そんなわけには行かぬのは分かっていたが、そう言うと、紫翠は頷いて、そこを出て行った。
…それにしても、紫翠はいつになったら妃を娶るのかしら。
綾は、その背を見送りながら、困った子だこと、と思っていた。
桜は、来たのは良いが、侍女が入って来て何やら紫翠に慌てたように耳打ちして、それを聞いて紫翠がまた、慌てて出て行ってしまったので、仕方なく叔父が戻るのを待っていた。
あの叔父は、浮いた噂一つない神で、あれほどに美しいので縁談は引きも切らず来るのだが、皆蹴ってしまっている変わり者だった。
本当は、他の王の橋渡しなどしている暇はないはずなのだ。何しろ、老いが止まっているのだが、結構な歳のはずだからだ。
それでも、弟の緑翠が婚姻して皇子が居るので、気楽に構えているようだった。
桜が、じっとベールの中で考えながら待っていると、紫翠が慌てて入って来た。
「すまぬな、待たせた。では、こちらへ。応接間に案内しよう。」
きっと忙しいのに、こんなことに時間を割いているのね。
桜は、そう思うとこの叔父が気の毒に思えた。友の頼みとはいえ、政務の合間を縫って対応せねばならぬとは。
自分も仕事に忙しかった時があったので、桜はそう思いながら紫翠の背を見て応接間へと歩いた。
応接間に着くと、紫翠は戸を叩いて、声を掛けた。
「公明?桜を連れて参った。入るぞ。」
そうして、答えを待たずに戸を開いた。
桜は、ベールの中で扇を高く上げて、目を伏せて静々と歩いた。滅多に顔を見せることがない世の中なので、王族の女の嗜みだ。
まして、これは見合いでもなんでもないのだから、桜は余程でなければその扇を下げるつもりはなかった。
紫翠は、桜の前で言った。
「公明。待たせたな、これが妹の子で獅子の宮の第一皇女、桜ぞ。桜、これが中央の宮の王、公明ぞ。」
桜は、深々と頭を下げた。
公明は、言った。
「…表を上げよ。」
桜は、その声にハッとした。聞いた事がある…?
だが、顔を上げはしたが、扇の下で目は伏せたままだった。
「桜でございます。」
桜は、それだけ言った。
「さ。こちらへ。」紫翠が、桜の手を引いて、椅子へと座らせた。「では、我は次の間へ。ゆっくり話すが良い。」
言われて、桜は途端に不安になった。確かに、隣りに居てくれるのは心強いが、一人にされるのは心細い。
侍女達が茶器の音を微かに立てて、目の前のテーブルに茶を置いたのが分かる。
桜は、早く終わってくれないかしら、と思いながら、ひたすらに扇を上げ続けていた。
すると、目の前に居るはずの公明が、言った。
「…なるほどの。」桜が、何がなるほどなのかしら、と思っていると、公明は続けた。「主はそうしておると、確かに高位の皇女なのだ。すまぬな、あの時はまだ病を引きずっておったから。扱いが雑であったわ。」
桜は、さすがにこれだけ声を聴いたら、それが誰の声なのか分かった。
驚いて目を上げると、そこには、あの時最後に見て振り切って帰ってしまった、あの男が座ってこちらを見ていたのだ。
「え…!!公明様…?!」
桜が、思わず扇を取り落として膝へと落とすと、公明は苦笑した。
「誰かから聞かなんだか。脳の病で籠っておった王が出て来たとか。それが我ぞ。主はとっくに知っておるのだと思うておった。なのに何も言わぬし、紫翠はあれは傷心だからと会わせてくれぬし。」
桜は、もはや扇には構わずベールの中から必死に言った。
「他の宮の王などに興味もなくて。だって、公明様だなんて、思いもしませんでしたもの!あの時は、力はあられるけど、もしかしたらはぐれの神か何かかもとか、思うてしまっておりましたし…。」
はぐれの神でも、着物を盗めば身ぐらいつくろえるし。
桜が思って言うと、公明はハッハと笑った。
「我が?まあ、あの様ではそう思われても仕方がないの。だが、我は王。西の島中央の宮の王、公明ぞ。」と、桜をじっと見つめた。「主は、あの時申した通り里へ帰ったのだの。我はそれを聞いて、もしかしたら我にも機があるやもと期待しておったのに、主からは何の連絡もないし。ならばと紫翠に話を振っても、あれは全くであるし。まさか、我の正体を知らぬとは思うてもおらぬで。では、これからは文を出しても良いか?紫翠にそれも頼んでみたのだが、あれは何を言うても里へ帰ったばかりだからの一点張りで、今日の今日まで全くでなあ。」
桜は、叔父がかなり頑張って自分を守ろうとしてくれていたのを、それで知った。宮へ置けないと厄介払いに縁談を持って来たのかと思ったのを、少し後悔した。
「もちろんですわ。お文ぐらい、いくらでもお返事を。あの…ですが、我など、お話相手ぐらいがちょうど良いのですわ。一度婚姻しておりますし…他の妃の方々にも、厄介者に映りましょうし。」
公明は、呆れたように言った。
「言うたではないか、我は脳の病であったのだぞ?その前には確かに一度、妃を迎えたことがあったが、あれとは趣味が合わぬでな。考え方の違いが大きく、修復できぬと感じたので、里へ返した。主はあの折聞いたが、琴を弾くであろう?」
桜は、おずおずと答えた。
「弾くとは申して、名手ではありませぬ。嗜む程度で。母や祖父から教わって…鷲の宮では皆が皆楽器を嗜みますので、我も弾いてはおりましたけれど。」
公明は、頷いた。
「我だってそれほどではないが、共に合奏などできると良いなと思うておった。音楽を好む妃が居たら、共に楽しめるのにとよう思うておったから。前の妃はの、我が琴を弾くのも嫌がって。己が弾けぬからと。それから、溝が深くなって、別れたのだ。」
音楽を嫌うかたも居るのね。
桜は、それはそれで驚いた。弾かぬでも、楽しめたら良かったのに、それを禁じるようなことを言ったら王である公明からすると、面倒以外の何物でもなかっただろう。
どちらにしろ、合わないとお互いに不幸だということなのだ。
「…我は…確かに公明様をお慕いする心地がありまする。でも、焔様にすげなく扱われておった記憶があるので…もし、宮へとお迎え頂けいただけるような事になったとしても、また同じような事があったら、今度はもっとつらいと思うのです。気持ちが無くても、これほど虚しい心地になるものを…。」
公明は、じっと桜を見つめて、困ったように微笑むと、言った。
「我は、決してそんな扱いをするつもりはないが、主もすぐには信じられぬだろう。」桜が、顔を上げて公明の目を見つめ返すと、公明は言った。「ならば、とにかくは今も言うたように文を取り交わそう。そうして、お互いの好むもの、嫌うもの、感じるままに書いて送って、それで判断してくれたら良いから。我はの、主に感謝しておるのだ。あのように、はぐれの神だと思われるような様の我を、ああして受け入れて話を聞いてくれた。我の心は、それに助けられて回復して行ったのだ。恐らく、そう思う。今我があるのは、主のお蔭よ。それを、ここでしっかりと感謝しておきたかったのだ。桜、礼を申すぞ。」
桜は、そう言われてドッと胸の内から突き上げて来るものがあって、涙を流した。
ああ、このかたはこうして、面と向かって労ってくださる。あんな、たわいもない事であったのに…。
「…我こそあれで救われたのですわ。誰が我を必要としてくれるかなんて、分からずで…生き方すら、見失って。あなた様にお会い出来て、我こそ感謝しておりまする。」
そうして、公明と桜は、時を忘れて語り合った。
隣りで、じっと聞いている二人が居るとは、全く気付いていなかった。




