あの男
桜は、平穏に南西の宮で過ごしていた。
母の椿は、さすがに長く王を放って置けぬからと鷹の宮に帰ったが、桜はこちらに残る事を選んだのだ。
時々、あの東屋にも足を向けてみるものの、それは懐かしむためのことで、あの男に会いたいというわけではない。
その証拠に、行くのは夜ではなく、昼間だった。
あれから、もう数ヶ月経ってしまった。
いきなりあんなことを言って離れて言った桜を、相手は恨んでいるかもしれない。ろくに話も聞かないまま、振り切って帰って来てしまったのだ。
話の分からない女だと思われただろう。
だが、桜はこれまで、誰かを慕わしいなどと思ったことはなかったし、こんな幸福な感情は知らなかった。
なので、こうして想える相手に出逢えただけでも、自分は幸運だと思う事にした。
懐かしんで想っているだけでも、こんなに幸福なのだ。
この穏やかな時間が、桜には貴重だった。
あの、名も知らない男に嫁ぐとか、そんな感情は全くなかった。
なぜなら、慕わしいという想いが募るにつけ、もし幸運にも嫁げたとして、焔と同じような扱いをされたりしたら、それこそ焔の比ではないほどつらいと思ったからだ。
その恐れから、桜はこうして思い出すだけで、幸福だと感じるようになってしまっていたのだった。
そんなある日、叔父である紫翠が桜を訪ねてやって来た。
母の椿は、この紫翠の妹に当たり、それでもあまり顔は似ていない。なぜなら、どちらかというと椿は、桜にとっての祖父、翠明の方に似ていたからだ。
紫翠は、祖母の綾に似ているらしく、本当に美しい容姿だった。
そんな叔父が珍しく自分を訪ねて来たので、桜が緊張していると、紫翠は言った。
「桜、最近はどうか?焔殿から離れて、少しは落ち着いたか。」
案じて来てくれたのか。
桜は、思って頷いた。
「はい、叔父様。まだ数ヶ月ではありますが、もう、あの日々は遠いものに感じておりますわ。」
紫翠は、慎重に頷いた。
「それは良かった。ならば、であるが…」と言いにくそうにした。「その…乱暴な話かとも思うのだが、主も話し相手ぐらいは居ても良いと思うて。我の幼い頃からの友なのだが、最近まで病で引っ込んでおってな。やっと出て参って、今は健やかで。そんな様子なので、妃も居らぬ。前は一人居たが、合わぬで離縁しての。お互い離縁を経験しておる同士、話でもしたらどうかと思うて。」
もしかして、縁談?
桜は、袖で口元を押さえた。確かに長くここに何もせずに居たら、迷惑かもしれない。そんな話が、来てもおかしくはない。
「…まだ…そのような心地ではなくて。」桜は、言った。「お母様の所へ戻ってもと思うておりましたところですの。」
ここに居場所がないなら、あちらへ戻るしかない。
桜が思ってそう言うと、紫翠は桜の考えを悟って慌てて首を振った。
「違うのだ、主はいくらでもこちらに居て良いのだが、その…相手がの。主が庭に居る時に見たとかで、話だけでもさせて欲しいと申して、参っておるのよ。」
え、来てるの?!
桜は、驚いて目を見開いた。
では、断ったらこの宮に迷惑だ。
だが、そんな気持ちになれなかった。
「…それでは…お話ぐらいなら。でも、婚姻などはできませぬ。我は、穏やかに暮らして参りたいと思うておりまして。一度失敗しておりますし…。」
紫翠は、何度も頷いた。
「もちろん、あれもそう申しておって。話だけで良いと。我も乱暴な事だから、一度断ったのだが何度も参るしな。あれの気性は知っておるから、悪い奴ではないのは確かだし、とりあえずああ言っておるのだから、茶だけでも共に飲んでやってくれぬか。それで気が済むのだろうし。」
叔父は、断ってくれていたのだ。
だが、友人に言われては断り切れなくなったのだろう。
なので、頷いた。
「分かりました。では、どちらへ参ればよろしいですか?」
紫翠は、ホッとしたように答えた。
「我の対の応接間に。我が隣りの間に居るから案じるでないぞ。そもそもあれは、強引な事をするような男ではないから。中央の宮の王の、公明と申すのだ。」
公明様…。
聞いた事がある。
桜は、思った。それなら力のある王なので、確かに何度も打診されて断れないのも道理だった。
「分かりました。では、仕度をしてすぐに向かいます。」
桜は答えたが、気が重かった。
それでも紫翠が気持ちが軽くなったような顔をして、足取りも軽く出て行ったので、こんなことで叔父が楽になるのなら、と、桜は着物を着替えて紫翠の対へと向かったのだった。
翠明は、公明を伴って会合にも出て、今は公明が優秀なので精力的に政務の振り分けにも応じてくれて、しかも処理が速いので、皆助かっていた。
公明は、脳の病が回復してすっかり元通りに見えたが、そもそもがなぜそんなことになっていたのかの原因が分かっていないので、本神も油断はしていないようだし、他の王達も気遣って様子を見てくれていた。
どうやら、月の眷属絡みでいろいろあり、碧黎が一度、公明を見に来て顔をしかめた事があった。
もしかしたら、公明はそのいろいろに巻き込まれた形で何かあったのかも知れないが、まだ説明はなかった。
ただ、もう大丈夫だと思うが、もし具合が悪くなりそうな時があったら、腕にある王に伝わるその腕輪を、しばらく外せとだけ、言って帰った。
腕輪は金属で彫り物があるシンプルな物だったが、どういう意味なのか、その居る誰もが分からなかった。
最近では振り分けられた政務にも慣れて来て、翠明がホッと一息ついていると、また公明が来ているのだという。
病が治ってこちらへ訪ねて来てからこの方、紫翠と仲が良いのは昔からで、その頃のように頻繁に行き来するようになっていたのだが、前は身軽な紫翠の方から訪ねる事の方が多く、王である公明は宮からあまり出ては来なかった。
それなのに、ここ最近は公明の方から、こうして頻繁にやって来る。
そして、しばらく紫翠と政務の話からいろいろな事を話して、時には立ち合いまでして帰って行く。
同じぐらい政務を振り分けられているのに、公明のどこにその時が取れるのだろうと、翠明はいつも感心していた。
何しろ、会合に出る時には全て完璧にこなして整っていて、報告して来るのだ。
炎嘉も、公明が戻って誠に良かったと心底感心しているようだった。
ちなみに、上位の王にだけは密かに知らされていたが、維心は大方の予想を超えて、もう生まれて育っていた。
まだ半年ほどだと聞いているのに、語彙力もさることながら、天黎によってその、心の成長に合わせて体を育てるという術を掛けられているらしく、今は幼児の大きさで月の宮に居るらしい。
月の眷族たちが寄ってたかって必死に育てているようだったが、早く維心に育ってもらって、自分の島の統治だけで済むように、翠明は願ってやまなかった。
公明が来ている知らせを受けたその後、考えに沈んでいた翠明の下に、綾がやって来て頭を下げた。
翠明は、綾に手を差し出した。
「綾。具合はどうよ。」
綾は、せり出して来ている腹を撫でながら、翠明の手を取った。
「はい。順調だと治癒の者達は言うておりました。ところで、公明様がいらしておりますわね。」
翠明は、侍女から聞いたか、と頷いた。
「そうなのだ。いつものように、紫翠の対に居るようよ。特にあやつに用がある時は、もうこちらに挨拶は不要と申してあるので、勝手に来ておっても我は咎めぬよ。」
綾は、頷いて翠明に促されて隣りに座った。
「ですが…翠明様、気付いておられますか?」
翠明は、また何事か、と眉を寄せる。
「…何ぞ?」
綾は、ため息をついた。
「誠に優秀なかたでいらっしゃるのに、こういうことにはからきしであられるから。あの、公明様は桜を気にしておられるご様子。本日も、紫翠がわざわざ桜を訪ねて茶でも飲んで欲しいと頼んでおりました。」
普段、綾は桜も紫翠も呼び捨てにはしない。
こういう時は、前世の記憶で話しているのだ。
翠明は、言った。
「公明が桜を?…と申して、桜はまだ戻って数か月であるのに。乱暴な話であるし、いくら何でも我は良いとは言えぬがの。」
綾は、ずいと翠明に顔を寄せて、小声で言った。
「公明様は、脳の病で籠ってられたのですわね?」
翠明は、困惑しながらこちらも小声で答える。
「そう。いきなりに脳の病になって…」と、ハッとした。「…まさか、結界の穴から入っておったのは…。」
綾は、我が意を射たりと頷いた。
「そうではないか、と我は今になって思いましてございます。翠明様には、公明様が荒れていらした頃のお姿で、分からなかったのではないかと思いますわ。桜が、完全に正気に戻って綺麗に身をやつして訪ねて来たと言った時、翠明様は気取られなかったし見ておられなかったですわね?公明様なら、おできになったのではないかと。」
翠明は、綾から言われて、やっと繋がった。言われてみたら、そうなのだ。自分の結界内に易々と入って来るのは、義心と自分より気の大きな神ぐらいのもの、公明は同じぐらいなので、能力次第では全く気取れない。
公明は、完全に正気に戻って、気取られない術を思い出し、そうやって訪ねて来たので最後の訪問は気取れなかったのだ。
「…主に言われて気付くとは。」と、宙を見つめた。「…ふむ。今、紫翠の対に桜が着いた。我には、紫翠の結界の中までは分からぬからの。」
綾は、頷いた。
「恐らくは思っておる通りだとは思いますが…ちょっと、見に参って来ますわ。」
翠明は、自分の行きたいと言いたいところだったが、あいにく午後からは宮の会合が入っている。
なので、頷いた。
「後でどうであったか知らせてくれの。我も気になるし。」
綾は、頷いて微笑んだ。
「まあ、孫のことでありますのに。もちろん、お知らせ致しますわ。王には、お仕事に集中なさってくださいませ。」
だったら今知らせぬでいて欲しかった。
翠明は思いながら、意気揚々と紫翠の対へと歩いて行く、綾を見送ったのだった。




