諍い
蒼は、燐から事の次第の説明を受けた。
焔は、桜の離縁の申し出には、快くというか、興味もなく了承したが、しかしその最後にも桜に労いも、己の扱いを省みる事もない姿に燐が切れて、そうして宮を出て来た、ということらしい。
燐も、今回の神世の事態で焔と共に、王の責務を担って半分以上は処理してやっていたのにも関わらず、焔がそれを当然とばかりに扱う事に、腹を立て始めているところだったらしい。
それで、余計に桜はどんな心地だったのかと思うと、もう我慢も限界だったのだそうだ。
臣下達も、そんな王の様子に出来る者にさせたら良いという雰囲気になってしまい、結局真面目な者が馬鹿を見るような様になっていた。
もう、そんな宮の中に嫌気がさしたということだった。
つくづく、宮の空気は王が作っているのだ、と蒼は思った。
「…その様子だと、誰が言っても変わらなかったんだし、しばらくは帰れそうにないな。別に、いくらでもこちらに居たらいいから。オレも焔のやり方にはちょっとなあと思っていたし、折れる必要などないと思う。高瑞も居るし、話し相手にもなるだろうから。で、居る間はオレが未熟だから、政務を手伝ってくれたらそれで。」
燐は、笑顔で頷いた。
「それは我で役に立つならいくらでも。こちらに来て生き返った心地よ。主にならいくらでも手を貸したい心地になるし、ここは穏やかだし誠に維織の里がここで良かった。」
維織は、微笑んで頷いた。
「誠にこちらは、気が清浄で落ち着きますわ。ところで、お父様はどちらに?」
蒼は、ため息をついた。
「話したければ月から話すといい。今はいろいろ大変で、龍の宮にずっと詰めてるんだ。ほんとに神世は、今大騒ぎで。」
燐は、事情を知っているので、頷いて言った。
「邪魔をするでないぞ、維織。主は杏奈殿の話し相手にでもしてもらえば良かろう。落ち着けば十六夜殿もまた顔を出すだろうし。」
維織は、頷いて言った。
「はい、燐様。」
蒼は、それを見ながら、神世にどれだけ維心が必要だったのかと身に染みた。
一度みんなが黄泉へと行ってしまい、将維と二人になった時も、将維は本当に上手くやっていたのだ。
だが、今の状況では維心が死んだ事を誰にも言えないので、維明が同じようにするわけにも行かない。
この世に、絶対的な龍王は必要なのだ。
桜は、父の駿から文をもらい、焔からあっさり承諾の書状が戻って来たと聞いた。
ホッとしたものの、この百年がこれで終わったとは、なんだか呆気ない心地だった。
息子の煌のことは気になったが、煌ももう大きく育っているし、会いに来たければいくらでも来るだろう。
なので、桜は前を向いて行こう、と思っていた。
だからといって、すぐにあの名も知らぬ男とどうのとは、考えていなかった。
あれから、庭の端の東屋には行かなくなっていたし、あちらもああして病が良くなった今、わざわざ他神の妃をどうのとは、考えないだろうと思ったのだ。
きっと、一時の気の迷いなのだ。
あちらは、あれだけ力もあって、美しい神だった。
一緒に散策している時も、饒舌で会話の種に困る事もなく、時が経つのも忘れたほどだった。
あんなに魅力的な神なのだから、宮には妻も多数居るだろうし、今頃はそれらと穏やかにしているのではないだろうか。
桜は、覚めてしまった夢にこだわらず、ただ思い出に浸って居られさえいたら、それで良かったのだ。
何の労いの言葉も品もなく、あっさり離縁した焔には、綾が大層憤っていたが、早々に身籠った腹を抱えて、綾は桜と椿を訪ねて来た。
いつもの事なので二人が穏やかに迎えると、綾は言った。
「お父様が焔様の行いに我慢がならず、維織様と烙殿と共に月の宮に入られたと我に文が参りました。」
開口一番そう言った綾に、二人は仰天した顔をした。
つまりは、燐は切れて宮を出たのだ。
確かに維織の実家は最上位の月の宮で、しっかりしていていくらでも世話してくれるだろうが、思いきった事を。
「また燐様には思いきった事をされたもの。」椿は、思わず言った。「そうなれば、焔様の御代のうちは鷲の宮へ帰るのは難しい事になるのでは。」
我のせいで…?
桜は、困惑して袖で口許を押さえる。
綾は、ため息をついた。
「それでも良いとのお考えのようですわ。何しろ、宮のお務めをお父様も相当数引き受けておられたのに、それが当然という姿勢であられたとか。その様子に桜様のお気持ちもあいまって、お父様はキレてしまわれましたの。我は、良かったと思うておりまする。」
言われてみたら、そうだった。
燐は、多くの業務を引き受けていたし、焔はそれに助けられていくらでも外で遊んでいられたものだが、当然という空気だった。
最近では、烙も優秀なのでそれを手伝い、焔の負担は少なかったはずだ。
桜は、燐ですらそんな感じなのだから、自分など当たり前だと、思ったのも確かなのだ。
だが、やはりあれはおかしいのだ。
燐がキレても、おかしくはなかった。
「…確かに燐様は細やかにお気が付かれるかたですから、あれこれお気遣いくださって我も助かっておりました。あのかたが烙殿も共に宮を出られたとなると、今の宮はどうなっておることか…。」
煌はまだ子供だし、しかも今は龍王が引きこもっていて大変な時。
最上位である鷲の宮が、内が大変だから無理だと業務を他の王達に押し付けることは、面子もあってきっとできないだろう。
焔は宮で、大変な窮地に立たされていると思われた。
「だからといって、あなたがお気になさることはないわ。」椿は、強めに言った。「焔様の身から出た錆なのですから。己でなんとかしてもらうよりありませぬ。これも、焔様自身が己を省みる良い機会なのですから。」
綾は、何度も頷いて同意した。
「その通りだと我も思いますわ。我が王も、困ったやつだからここで少しは考えを改めたらとおっしゃっておられました。我もそのように。まさに身から出た錆なのです。」
それでも、一気に宮を回す事を担っていた燐、烙、桜が居なくなった宮は、きっと大混乱だろう。
臣下達が気になったが、それでももう、桜の臣下ではない。
桜は、南西の宮から遠く鷲の宮の方角を眺めて、ため息をついたのだった。
鷲の宮では、桜が危惧した通り、大混乱に陥っていた。
思えば燐や桜に依存することに慣れていた、内向きの政務は完全に止まり、臣下に下賜する品すら決められない始末だ。
あいにく焔は、外向きの政務の多さに翻弄されていて、それすら燐に手伝われていたので、そちらに必死で内向きのことにまで気を回す暇がない。
普通の時なら焔一人で何とかしただろうが、今は龍王が引きこもっていてそちらもあるのでとても無理なのだ。
加えてこれまで楽を覚えていた者達しか残っていないので、何を誰に振り分けるのかで今はもめていて、本当に大混乱を呈していた。
さすがに、河が慌てて焔の前で額づいて、必死に言った。
「王、せめて桜様に、龍王様がご機嫌をお直しになるまでの間だけでも宮へお戻りくださいますように、お願い申し上げてくださいませ!燐様も、烙様まで出て行ってしまわれた今、宮が全く回らないのでございます!」
焔は、ただでさえやることが多くてイライラしていたので、河を怒鳴りつけた。
「煩い!そんな事ぐらい、主らでやれば良いではないか!桜と燐が居らぬだけで宮が立ち行かぬなど主らの体たらくではないか!」
河は、それでも食い下がった。
「我らでは、決められぬことがあるのでございます!王族のかたでなければ、我らに下賜してくださる品の品目や量などは、取り決められぬのでありまする!」
確かに、それを臣下に決めさせたら、良いようになってしまう。
焔は、ギリギリと歯を食いしばった。
少し前なら、焔一人でもいくらでも宮を回して行けたのだ。それを、維心がこんなことになっている今、外向きの仕事が増えてしまい、どんなに急いでも終わらない。
普通なら、内向きの事は臣下達が大概の事は回してしまうのだが、鷲の宮には優秀な皇子の燐が居り、その子の烙が居り、そうして桜が嫁いで来てからは桜も居た。
これまで、焔が負担していたことも全て内向きを担ってくれていたので、途端に楽になって百年以上、焔の政務の速度も下がり、臣下達は楽になり、代替わりした者達まで居て、宮の流れが完全に変わってしまっていた。
それに慣れた百数年、お蔭で宮は、焔と臣下だけでは回らないようになってしまっていたのだ。
焔は、河を睨んだ。
「…我に、あれに頭を下げよと申すか。」
河は、慌てて首を振った。
「桜様が否なら、せめて燐様を。燐様さえいらしたら、これまでも宮は滞りなく回っておったのです。月の宮へ書状を送り、燐様にどうあってもお戻り頂けるように、お願いしてくださいませ。既に我らが何度も書状を遣わせておりますが、知らぬ存ぜぬでお返事すら頂けぬのでございます。」
燐…。
焔は、険しい顔で眉を寄せた。
あの時、燐は桜の扱いに憤っているようだった。
だが、あちらから帰りたいと言うのだから、こちらは飲めばそれで良いのではないのか。これまでこちらで着物や装飾品などを与えて世話していたのに、それ以上など、何を求めるという。
焔は、そう思った。
なので、自分は間違っていないし、燐が何を怒っているのか、まだ分かっていなかったのだ。
ここには、それを教えてくれるものは、もう残って居ない。
焔に、ハッキリと指摘できる者が、皆出て行ってしまったからだった。
焔は、河を見た。
「…とにかく、下賜の項目だけは作ってやるわ。後は主らで何とかしろ!見ておって分かろうが、我は今忙しいのだ!燐とて、主らにも対しても怒っておったのだと聞いておるぞ。たるんでおるのだ!」
そう、宮全体ができる神に押し付ければ楽だとたるんでいた。
そうだ、桜が来てまた格段に楽になり、そうして元から居る燐と、育って来た烙が手助けするので更に負担は軽くなり、皆それが当然と、これまでできていた事まで、できなくなっていた…。
だからか。
焔は、ハッとした。
そうだ、それが当然だと思っていた。自分の宮に住んでいて、自分の臣下が作った着物を下賜してやって世話をして、皆が皆生きているのだから、自分を手助けするのは、当然の事だと。
燐は、そうではないと言っていたのだ。
桜の扱いを、常々改めよと諫めていたのは、燐だけだった。
最近では他の王達まで気付いて、それではいけないのではと言い出して、他神の奥のことまで煩いと一蹴していたが、そうではない。
燐は、間違っていなかった。
何しろ、燐自身も同じ扱いをされていて、それでも黙って手助けしてくれていた、一人だったからだ。
燐は、桜に対する焔の扱いを、そのまま自分に投影して許せないと怒り、出て行ったのだ。
…ならば、謝るまでは帰っては来まい。
焔は、目の前の業務の山を見ながら、思った。
燐に対して、感謝などしたことがあっただろうか。兄だからと、そう、自分が王座についても助けてくれていた穏やかな気性であるのも相まって、ただ利用していたのではなかったか。
それで当然だと、思っていたのではなかったか…。
焔は、燐が居なくなった執務室で、ただ一人、相談する相手もなく、どこの宮の王でもやっているように、ひたすら案件の処理に勤しむしかなかった。
もう、兄も甥も、そして妃も頼りになるものは誰一人として自分を助けてはくれないのだ。




