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月の宮で

維月は、維心が帰ったのを見て、十六夜と共に月の宮へと降りて来た。

別に、維心に怒っているわけではないし、今の落ち着いた維心なら一緒に帰ってもいいぐらいだったが、十六夜がここでしっかりもう一度話し合っておくべきだと言うので、そうしようと思ったのだ。

維月にしても、維心が急に怒り出して、どうしたらいいのか分からずに、困るのは嫌だった。

維心は本来激しいので、怒ると維月を褥で乱暴に扱ったりするので、さすがにそれは嫌だった。いくら陰の月でも、そんな神に奉仕しようなど、考えないからだ。

そんなわけで、昨夜は戻らなかったし、維心が帰るのも黙って見ていたのだが、これは一度、碧黎も交えて話し合った方が良いのでは、と思った。

自分の心持ちも、ここ百年以上でかなり変わったし、碧黎自身も落ち着いていて、前の維月が惹かれた状態へとすっかり戻っていた。

なので、今ならしっかり話し合えるし、それの結果命は繋ぐと決めたとしても、別に良いかと思えるほどだった。

ただ、やはり夫は維心なので、体を繋ぐのはしたくないと思っていた。

何にしろ、話し合い次第だな、とは思っていた。維心が、もしもう嫌だと言い出したら、この限りではないからだ。

つまりは、維月の夫の座が空くことになるので、その先のことは、またそれから考える事になるという事なのだ。

十六夜は、維月と共に自分の部屋の居間に座って、大きなため息をついた。

「全く…成長しねぇなあ、維心も。どうしたもんだろうな。一度は決めたことで、オレも親父もしっかり守ってるし、別にさ、もう今さら体がどうのなんて、どうでもいいんだよな。お前はオレを慕ってくれてるし、何でも話してくれるのは変わらねぇし。だが維心は、駄目なんだよなあ。仕方ねぇけど、別に親父と結婚するとか言ってるわけでもないのに。」

維月は、息をついた。

「分かっていらっしゃると思っていたのに、昨夜急にあんな風におっしゃるから驚いて。お父様と体を繋いだり、絶対にないわ。だって、お父様はしっかり約束していらっしゃるんだから、するはずがないのよ。現にこの百年以上も、全く何も無かったわ。誘われたことすらないわよ。それなのに、どうして急にあんな風に。琴を弾いただけなのよ?確かにあの後、笛もお聞かせくださったけれど…でも、すぐに消えて行かれたのに。」

十六夜は、窓から見える庭の空を、椅子にそっくり返って見た。

「心も体も自分だけのものにしたいわけなんだよな、維心は。夫としてなら維心だけなのによ、他に父親も兄も駄目ってなったら面倒だよなあ。確かに親父とは、それ以上かもしれねぇけど、体の仲じゃないわけだし。複雑なのはわかるけどよ…あいつがどう思ってるのかで、どうするのか決めるしかねぇ。お前の心も縛ろうとし始めたら、残念だが離婚した方がいいぞ。モラハラ夫一直線だからよ。」

維月は、袖で口を押えて下を向いた。少しぐらい、嫉妬深くても維心の事を愛しているので、我慢して一緒に居たいとは思う。だが、十六夜が言う通り、常に父と話すなとか接するなとか言い出して、その度に怒るようになったら、さすがの維月も傍には居られないだろうとは思う。

「…維心様を夫と愛してるのは変わらないわ。でも、維心様が耐えられずに常、お心を乱して憤っていらっしゃるような事になったら、臣下達も迷惑を被るだろうし、私も無理にお傍に居ようとは思わないから、里へ帰りますと申し上げるつもり。だって、しようがないんだもの…十六夜だって、お父様だって私を心底想ってくださる。私だって、父として兄として、愛して行きたいと思うもの…。」

十六夜は、どうしたものかと思いながらも、今回は気長に解決していこう、と心に決めていた。

性急に決めて、後でまたこんな風にごたごたするのは、もう面倒だからだった。


十六夜と維月が並んで座って庭を見て考え込んでいると、珍しく、碧黎が庭に歩いて来た。

二人が驚いて思わず椅子の背から身を起こすと、碧黎は窓を開いて中へと入って来て、言った。

「ちょっと琴を弾いただけであったのに、面倒な事になってしもうたようだの、維月よ。」

維月は、碧黎の顔を見ると何やらホッとして、思わず涙ぐんだ。

「お父様…。」

碧黎は、それを見て慌てて寄って来て、その頭を撫でた。

「おおすまぬ。嘆くでないぞ。何なら我が維心に話を付けて参っても良いから。別に我は、主を維心から引き離そうなどと考えてはおらぬのだからの。」

十六夜が、横から言った。

「いや、別に維月は維心と喧嘩したから泣いてるんじゃなくて、親父の顔を見てホッとしたから泣いてるんだと思うぞ。あいつさあ、維月に親父の事を好きだから別れてくれって言われたわけでもねぇのに、なんか怒っててさあ。こいつも困ってたから、オレがさっさと引き揚げて側から離したんだけどな。」

碧黎は、顔をしかめた。

「それは維心が悪いわ。我も昨夜は天黎が煩かったゆえ、相手をしておって主らの事を見ておらなんだからの。見ておったら、すぐに参って話をつけたのだが。」

それで来なかったのか。

十六夜と維月が思っていると、碧黎は十六夜とは反対側の、維月の隣りに座って、言った。

「主はどうしたい。我は、別に主に合わせるつもりでおるし、維心と軋轢が生じるのが面倒だからしばらく姿を見せるなと申すならそうするがの。主の負担にはなりとうないし。」

十六夜が、言った。

「それじゃあ解決にならねぇよ。この百年以上、滅多に会うわけじゃなかったのにこれだろ?離れてたら、反って維心はそれに慣れて来て、当然だと思って騒ぐような気がする。むしろ、頻繁に会ってた方がいいんじゃねぇか?ここんとこ里帰りの感覚がめっちゃ空いてたけど、前にみたいに頻繁に帰って来るようにした方がいいんじゃねぇか。もしお前が維心のとこに帰るなら、だけど。」

維月は、言った。

「基本的に、私は維心様の御許へ戻りたいと思っているわ。ただ、お父様をお慕いする気持ちがあるし、それが否とおっしゃるのなら、お傍に居るのは維心様には大変にストレスになるだろうから、戻ることは出来ないわ。でもね、維心様がご懸念なさるような関係になりたいわけじゃないから…。納得なさったと思っていたのに。」

十六夜は、呆れたように手を振った。

「あーあいつはさあ、もう何もかもが自分のものでねぇと駄目なんでぇ。オレ達みたいに、兄としての愛情でも、父親としての愛情でもいいわけじゃなくて、お前の愛情の全部が自分でないと駄目って感じ。ちょっとあれじゃあ、難しいかもしれねぇなあ。ちょっと聞き分け良くなってたんだけどよ、またここんとこ自分だけだったんで、忘れちまったんじゃねぇの?」

維月は、また下を向いた。

確かに、ここ百年があまりに平穏だったので、維心はそちらに慣れてそれが当然となってしまったのかもしれない。

碧黎は、息をついた。

「…困ったの。主が望むのなら、我が話して参っても良いが。維心を見たら、恐ろしいのではないのか。また怒り出しおったらトラウマにならぬかと案じるわ。」

確かに、怒って我を忘れていらしたら怖いけど。

維月は、どうしたものかと暗い気を発して沈み込んだ。

それを見た十六夜が、維月の肩を抱いて、言った。

「ああ、もうほっとけ!」維月がびっくりして十六夜を見ると、十六夜は続けた。「ちょっとあいつにも考える時間を与えた方がいいんだよ。お前も、ちょっとゆっくりしろや。維心が怒るとか怯えなきゃならねぇなんて、DVだぞ。そんな事に耐える必要ねぇんだぞ。あっちが怒ることも出来ねぇぐらい反省したら、冷静に話し合えるだろうし、それからにしたらいいさ。ちょっとあっちの事は忘れてこっちで遊んでいけや。そうだ、オレも新しい曲覚えたぞ?琴でも弾こう。今、月の宮じゃ楽器が流行ってるんだ。」

維月は、良いのだろうか、と迷うような顔をしたが、碧黎も微笑んで頷いた。

「それが良いの。我もいろいろ楽器を弾くようになったゆえ、また合わせて戯れようぞ、維月。そうしたら、憂さなど無くなろう。さ、我の対へ参れ。十六夜も。」

十六夜は、頷いて維月の手を引いて立ち上がった。

「さ、行くぞ。なあ、胡弓もやろうや。お前、胡弓は教わってねぇだろ?親父が弾けるんだよ、オレも教えてもらってな。お前もやってみろ。」

維月は、暗い顔をしていたのだが、パッと驚いたような顔をして、言った。

「え、胡弓が弾けるの?一度やってみたいと思っていたの!」

碧黎は、笑って言った。

「ならば参れ。琵琶もあるのだ、人世から蒼が取り寄せてくれての。皆良い音をさせる。我が教えてやろう。」

維月は、そんなにたくさん楽器があるんだ、と、今悩んでいたことすら忘れる思いで、立ち上がって十六夜を手を繋いで、歩き出した。

「そんなに楽器があるなんて、知らなかったわ。蒼は、琴が流行ってるって言うから、それだけなんだって思っていたのに。」

十六夜は、笑った。

「蒼は琴だけで手いっぱいだってさ。オレは親父が教えてくれるから、全部それなりに弾けるんだ。お前もやってみたら、絶対面白いって。」

維月は、笑って十六夜と、弾むような足取りで歩いた。

「まあ楽しみ!龍の宮ではあまり、楽器にばかり時を使っていられないから…。」

そんな二人の後ろを、碧黎が微笑しながらついて歩いた。

碧黎は何より、維月が楽し気にしているのが一番に幸福だ、と思ってそれを見ていた。

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