焼き肉
「ったく、何なのよあの男! 『オレが好きなのはあいつだけだ』って? だったら私とデートすんじゃないわよ」
「おい、原田」
「女も女よ、身を引いたんだったらおとなしくしてろっつーの、目をうるうるさせながらデート現場に現れてんじゃないわよ!」
「原田」
「好きなら好きって言って奪えばいいじゃないの、相手の幸せを考えて身を引くとかワケわかんない! しかも結局よりを戻すとか、私は単なる当て馬か!」
「原田、声デカい」
「デカくもなるわよ!」
だんっ、とジョッキグラスをテーブルに振り下ろす。
三井はハアッと呆れるようなため息をついて二人分のおかわりを注文した。
「毎度のことだろ? いい加減学習しろよ。フラフラしたやつじゃなくて、おまえのことを本気で好きになってくれるやつと付き合え」
「そんな悠長なことを言ってられる年じゃないでしょ! いい男を見つけたらガツガツいかないと! ただでさえ独身のいい男は貴重なんだから」
「貴重とかモノみたいに言うな」
「じゃあ、レア」
「肉か」
「あ、そういや頼んだ肉豆腐まだ来てなくない?」
「失恋直後でも食欲落ちないのな」
「食わずにやってられるかってーの!」
久しぶりに素敵な男性とお付き合いできたと思ったのに……。
有希は苦いビールを飲み干した。
34歳、自分と釣り合う適齢の男はもう大抵結婚している。いい感じの独身男性は少ないし、さらにフリーだなんて超絶レアな機会だ。有希は、レア男と数回デートを重ねただけでもう結婚を意識した。しかし、彼の方はというと元カノと単なるすれ違いで別れただけで実は変わらず愛し合ってたらしく、有希とのデートを聞きつけた彼女が泣いたことで愛が再確認されるという(彼にとっての)万々歳。有希の存在は一体何だったのか。
だいたい、好きなのに相手のためを思って別れるとか、好きな人の気を引くために他の人と付き合うとか、後ろ向きで面倒な思考は大嫌いだ。好きなら食いついて離れなければいいし、嫌いなら別れればいい。有希のような女性のことを“肉食女子”と言うらしいが、単に正直かつシンプルなだけだ。
三井にはよく『みんながおまえみたいに単純じゃない、相手のことだって考えろ』と言われるが、本心と異なる態度を取る方がよっぽど相手に迷惑をかけていると思う。今回のことだって、好きなのに別れたカップルのおかげで有希の貴重な二ヶ月が飛んだ。適齢期の貴重な日々を無駄にされるとは我慢ならない。
「あー、どっかにレアな男が落ちてないかな」
「落ちてるような男を拾うんじゃねえ。いるだろ、独身の男なんてゴロゴロ」
「いないわよ」
「おまえの目の前にいる男は?」
「あ、そうだった」
三井も独身だった。フリーかどうかは定かでない。二人で飲みに行く機会は多いが、いつも有希の方が喋るので三井の話を聞くことはあまりないのだ。
失恋したとき、仕事でうまくいかないとき、ただ飲みたくなったとき。一方的な話を、文句を言いつつも聞いてくれる三井の存在は有難い。
「いつもありがと。今日はおごるわ」
暗い話に付き合わせてる後ろめたさから、ぽつりと呟く。
「は? 居酒屋で礼を済ませようとしてんじゃねーよ。おごるなら焼き肉連れてけ」
「はあー? 珍しく反省したんじゃないの、私がおとなしいからって調子に乗ってるんじゃないわよ」
こういった気安い会話ができるのも三井のいいところだ。
「原田がおとなしいとかキモい。ほら、肉豆腐来たぞ、食えよ」
そして、三井はなんだかんだ言って、優しい。
新たに知り合う男性に対しては気張る有希だが、三井は入社以来の付き合いだから気負う必要もない。身近すぎて気づかなかったが、意外と三井もいい男なんじゃないかとひらめいた。華やかさはないがスッキリとした顔立ち、真面目な仕事ぶりに穏やかな性格。服の趣味もいい。酒や食べ物の好みも合うし、好きな映画の傾向も同じだ。
「三井。……ペアで買った映画のチケットあるから付き合ってくんない? 無駄になってもヤだし」
件の男と一緒に行くつもりで買ったものだが、まさかこうして役立つとは。
「……ああ。いいよ」
三井が、いつも以上にぶっきらぼうな感じで呟くと一気にジョッキを空けた。
*
「三井と毎週出掛けてるんだって?」
隣のデスクの和歌子は同僚でランチ仲間だ。
すでに結婚して小さな子供がいる和歌子と夜遊びすることはめっきり少なくなったが、昔は三井を含めたみんなでよく飲みに行っていた。
「うん。なんか、気軽で楽なんだよね」
三井とはあれから、週末のたびにどこかに出掛けている。映画だったり、美術館だったり、ビールの試飲イベントだったり。疲れたら「疲れた」と言えるし、用を足したい時は「ちょっとトイレ」と言えるし、肩を張らずにゴハンを食べられる。長年、いつもどちらかに彼氏や彼女がいたから二人で出掛けるなんて思いつきもしなかったが、いざ一緒に過ごしてみたら驚くほど快適だった。
「いいじゃん。私、有希はぜったい三井みたいに素で付き合える人の方がいいと思ってたよ」
「そうかな?」
どちらのことも良く知っている和歌子にそう言われると、照れくさい。
「あ、でも、付き合ってるわけではないから」
微妙に異なる点を訂正しようとしたら、和歌子に驚かれた。
「まだ付き合ってないの!?」
「えーと、たぶん。だって、告白とかないし、そーゆーこともしてないし」
帰りは家まで送ってくれるようになったが、お互いの部屋へ遊びに行ったりはしていない。それをしたら関係が決定的になるという予感が二人にあって、腹を探り合っている気がする。この関係を壊したくない、そんな雰囲気。
「してないのー!? 何、三井って草食だっけ!?」
「し、知らないよ!」
甘い雰囲気になることは、ある。さりげなく背中に手を添えてエスコートされたり、有希の顔をじっと見つめてきたり。でも、そこから先はまだない。
「有希は?」
「え?」
「え?じゃないわよ。『好きなら奪え!』が口癖でしょ」
「あー……、うん」
「煮え切らないわね。好きじゃないの?」
「そんなことない! ただほら、長年友達だったからきっかけが掴みにくいっていうか」
付き合いがスムーズすぎて、友達から恋人に変わるタイミングがわからないのだ。
いきなり「好きです」というのもヘンだし、かといってメールで告白するのも何か違う気がするし。ラブストーリーの映画を観に行った時は、何だか二人でもじもじしてしまい、居心地の悪さを吹き飛ばすように酒を飲みまくって騒いだ。冗談ならいくらでも言えるが、真面目な告白は難しい。
ぐずぐずしつつ、ふっと顔を上げると和歌子がにやにやしながら有希を見つめていた。
「何よ」
「好きなんだ。ふうーん」
「!」
いま、さりげなく誘導されて「好き」という意味のことを言っちゃわなかったか?
「ぎゃー! 和歌子、何すんのよー!!!」
顔が熱い!
「いやあ、有希の本音が聞けて良かったわー。うまくいったら教えてね、赤飯炊くからさ!」
「何よそのベタなお祝い方法は!」
にやけの止まらない和歌子を叩きつつ、有希はほてる頬を押さえた。
『好き』。
口にすると、目をそらしていた本心がはっきりとした輪郭をもって押し寄せてくる。
どうしよう。次、どんな顔をして三井に会えばいいんだろうか。
「……飲みに誘うか」
照れて赤くなるのであれば、酒を飲んで最初から赤くなってしまえばいい。
言いづらい言葉は、酒の力を借りて勢いをつけよう。
猪突猛進一辺倒だった有希だが、こと三井に関しては弱気になってしまう。
これまでは、振られたら次の男を探せば良かった。でも、三井に振られても次の三井はいない。
三井は三井なのだ。
*
「めずらしいな、月曜から飲みたいだなんて。何かあったのか?」
毎週末に会うようになってから月曜に飲みにいくことがなくなっていたので、急な誘いに三井は不思議そうだったが、断られることはなかった。
「えっ、いや、別に。おなか空いちゃってさ」
ああ、話があるって先に言えば良かったのに。ついごまかしてしまう自分を叱咤する。
「腹減ってるなら、最初からメシもの頼むか?」
「えっ? いや、大丈夫。つまむ感じでOK」
緊張で、告白するまで食べ物が喉を通らなそうだ。
「ふうん」
三井は訝しげだ。ああ、さっさと酒を口にしたい。
有希は、運ばれてきた生ビールのジョッキを三井のものと合わせ乾杯すると、一気に半分ほど飲み干した。
「勢い良過ぎじゃね?」
三井は呆れ、自分は二口ほどを口に含むとジョッキを置いて黙ってしまった。
「……何か、話したいことあんのか?」
ああ、鋭い。
「えーっと、うん」
「何だよ」
「直球過ぎ!」
「直球が原田の売りだろ?」
「私にだって言いにくいことくらいあるし!」
「言いにくいこと?」
三井の顔が曇った。長い沈黙が訪れる。
「……男ができたから週末会うのやめよう、とか?」
ぼそっと口を開いたのは三井の方だった。
「ち、違う!」
慌てて否定する。誤解されるのは困る!
しかし、不機嫌そうにそんなことを言うということは、三井は私を……
有希に、俄然勇気が湧いてきた。
しかし。
「じゃあ何だよ。合コンのこと聞いたとか?」
「ご、合コン?」
告白しようと開きかけた口から出て来たのは違う言葉だった。合コンて何?
「あれ? 違うのか。営業の内田が、受付の子たちと企画してるってやつに誘われてて。その話かと思った」
「い、行くの?」
行くと言われれば、有希のことは友人としか思っていないことになる。
息を詰めて返事を待った。
が、三井も黙ったままだ。
口を開かず、かといってビールも飲めず。
泡が消えていくのをずっと睨んだ。
「……行くって言ったら?」
そう口にした三井の声は、少し掠れていた。
有希の胸が、ずんと重くなる。
―― 三井は、合コンに行きたいと有希に言いづらかったのか。
友達に戻りたいのであれば、笑って『行きなよ』と言うべきだ。そうすれば友情は保たれる。
だが、本心でないことを言えるほど有希は強くない。嘘をついたことがないのだから。
『行かないで』と言う? そうしたら、行くのをやめてくれるだろうか。
いや、もし三井が有希のことを好きだったら、合コンの誘いがあった時点で断るのではないか?
はっきりと断っていない、つまり参加を考えている時点で有希への気持ちはあまりないことになる。
有希は、うつむいたまま顔を上げられなかった。
沈黙を破ったのは三井だった。
「何も、言わないんだな」
諦めたような口調だった。
「オレ、帰るわ」
残ったビールを口にすることなく、席を立つ。
有希は、固まったまま動かなかった。動けなかった。
ビールが温くなってきたころ、ようやく顔を上げた。目の前にある空いた席を見つめ、伝票に差し込んである五千円札を見つめ、何のサインも残されていないテーブルを見つめ……泣いた。
*
「ちょっと有希、どうしたのよ、その不審者っぷり」
出勤してきた有希を見て、和歌子が顔をしかめたのも無理はない。
泣きはらした目を隠すためにコンタクトを眼鏡に変え、赤い鼻を見られないよう大きなマスクで顔を覆い、普段はセットしている髪も全部前に下ろして顔を隠している。
「警備員さんに止められなかった?」
「……平気」
「うわ、ひどい声」
「みんなには花粉症だって言っといて」
「こんな時期に?」
「ハウスダストでもいい」
「有希、綺麗好きで有名じゃん」
「虫に刺されたとか」
「ひどい虫がいたもんだね。三井?」
急に名前が出されて、びくっと肩がはねた。反射的に、目に涙が溜まってくる。
「う、うわ! ごめん」
和歌子が慌てて抱きついてきた。
「トイレ行っておいで、部長に何か聞かれたらひどい生理痛で遅刻しますって言っとくから落ち着くまでゆっくりしてな」
「……ごめん」
「いいから」
コートやバッグを持ったまま、背中を押されオフィスをあとにする。
始業直後のトイレには誰もいない。 有希は個室にこもると、情けなさでまた泣いた。
何で三井に好きって言えないんだろう。
何で恋愛なんかで仕事さぼってるんだろう。
何でこんなくだらないことで泣いてるんだろう。
いい年してバカじゃないの私。
こういう、うじうじした女が一番嫌いなのに!
いかにも傷ついています的な顔を三井に見られたりしたら最悪だ。気を引いていると思われたら死ぬほど恥ずかしい。
「くそー」
負けてたまるか。化粧でごまかせ。
有希は個室を出ると鏡に向かい、手櫛で髪をかきあげると眼鏡を外した。
ビューラーで思い切りまつげを上げ、アイラインをしっかり引く。
マスクを取り、赤い鼻にファンデーションを重ね付けした。血の気のない唇に、赤いリップを塗る。
「よし!」
ぱんぱん!と頬をはたくと、天然のチークのように色づいた。コンタクトがないので少し視界がぼやけているが、細かい文字を見ない限りは大丈夫だろう。
勢い良くトイレを出る。早くデスクに戻らなければ。
「うわっ!」
「きゃっ!」
出た瞬間に人にぶつかり、目の前のスーツにファンデーションがべったり付いたのを見て真っ青になる。
そして
「み、三井!」
スーツを着ているその人を見て、さらに青くなった。
「何でここにいるのよ!?」
「須藤にメールもらった」
「和歌子?」
あ、と思う。
「急いで来てみれば、おまえ……」
三井がジャケットの汚れを見て、震えた。
「化粧濃すぎじゃね?」
笑っている。
「はあー!? 誰のせいだと思ってんのよ!」
「オレのせい?」
「わかってるなら聞くんじゃない!」
「わかってても聞きたいことがあるんだよ」
ずい、と顔を寄せられた。
「『好きなら好きと言って奪え』って、原田の言葉じゃなかったっけ。肉食女子の原田がずっと黙り込んだままって、昨日は結構ショックだったんだけど?」
「そうならそうと言えばいいじゃない、バーカ!」
「原田だってなんも言わなかっただろ」
「今から言うわよ! 合コンなんか行くなバカ!」
「……うん」
「諦めて私と付き合いなさいよ!」
「うん」
「昨日飲めなくなったぶんのビールをおごれ!」
「金払ったのはオレだろ」
「細かいことを気にするな!」
三井は、声を立てて笑っている。
「今日は焼き肉にしよう」
「三井のおごり?」
「いや、原田のおごり」
「何でよ!」
「ずっと目の前のオレに気づかなかった罰」
その晩は、焼き肉を食べた。
……もちろん、三井のおごりで。