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第二話 脳みそリセットコース〜ドライヘッドマッサージ&肩たたき〜by夏川

 コツ、コツ、と硬いハイヒールの音が、凍てつく夜のコンクリートに鋭く響く。40歳の桜井は中央省庁の根幹を支える官僚である。彼女の頭の中は、今もなお、沸騰した薬缶やかんのように熱を帯びていた。

(……あの大臣、また会見で余計なことを。無能な政治家どもの尻拭い、一体何度目だと思っているのかしら)

 完璧に整えられたスーツのポケットの中で、拳を強く握りしめる。論理の通じない相手、前例踏襲しか頭にない組織。神経質な彼女の眉間には、消えない深い溝が刻まれていた。住宅街の角を曲がると、見慣れた暖色の灯りが見えてくる。


リラクゼーション処『ことこと』


 カラン、とドアを開けると、ハーブの香りと共に「いらっしゃいませ」という落ち着いた声が届く。受付には宮野が立ち、その隣には彼女の後輩である夏川が控えていた。


「桜井さん。本日もお疲れ様です」


「あ、桜井さん。お待ちしてました。今夜は一段とお疲れのようですね。目がかなり辛そうです」


 夏川の声は、宮野の声より明るく、相手の懐にスッと入り込むような、不思議と落ち着いた響きがあった。


「……最悪の一日だったわ。夏川くん、いつものをお願い。頭が割れそうなの」


「承知しました。脳みそリセットコースですね。まずはお召し物をお預かりします」


 促されるまま入り口近くの椅子に腰を下ろす。夏川は手際よくコートを預かると、湯気の立つカップをテーブルに置いた。


「今夜は、神経の昂ぶりを抑えるカモミールのブレンドをお淹れしました。どうぞ」


「ありがとう」


 温かいカップを両手で包み、立ち上る湯気を吸い込む。ハーブの香りが鼻腔を抜け、張り詰めていた肩の力がわずかに抜ける。夏川は静かな所作でバインダーを差し出した。


「お手数ですが、本日の体調をカルテにご記入いただけますか。特に重点的に解してほしい場所があれば、ぜひ」


「……全部よ。頭も首も肩も。この備考欄じゃ書ききれないわ」


 尖った筆致でカルテを埋めていく。彼女の苛立ちがそのまま乗り移ったような文字を、夏川は丁寧に受け取り、深く頷いた。


「……前頭部から肩まで、かなり負担がかかっているようですね。かしこまりました。では、頭の芯からリセットしていきましょう。奥のお部屋へどうぞ」


 案内された個室で、桜井は重い溜息と共にリクライニングチェアに腰掛けた。


「失礼します。まずは、頭皮を緩める準備をしますね」


 シュッ、シュッ、と微細な音が響く。夏川が手にしたスプレーから専用のケアオイルが頭皮全体に吹きかけられた。


「あったかいタオルかけますねー」


 ずっしりと熱を蓄えた厚手のタオルが、衣服越しに桜井の肩を包み込む。熱がじわりと筋肉の奥まで浸透したのを見計らい、夏川の力強い掌がその上から置かれた。


「肩の血流を流していきます」


 掌の付け根を使い、首の付け根から肩先へ向けて体重を乗せながら、溜まったおりを力強く押し流していく。次に、夏川の指先が頭へと戻った。指先を細かく動かし、頭部全体を軽快に叩く「タッピング」が始まる。ポコポコ、と小気味よい音が耳の奥で反響し、停滞していた脳内の意識が心地よく揺さぶられる。そして、夏川は再び肩へ意識を向けた。

 両手の手刀を使い、みじん切りをするような速さで肩を叩く。トトトトトトト、と一定のリズム。強すぎず、けれど確実に肩の強張りを散らしていく振動が、桜井の昂ぶった神経を鎮めていった。


「……頭皮に指圧で深く入れていきます」


 夏川の親指が、オイルで柔らかくなった頭皮に食い込んだ。まずは、前頭部の生え際からだ。眉間の延長線上、生え際のキワに親指が添えられる。


「ここ、考え事をしすぎると真っ先に固くなる場所です。……ぐっ、と入れますね」


 指の腹が前頭筋の奥深くまで潜り込む。夏川はそこから逃がさないように、小さな円を描きながら頭皮を頭蓋骨から剥がすようにマッサージした。額に溜まっていた重圧が、指先が通るたびに溶け出していく。左右の生え際を一点ずつ、時間をかけて丁寧に押し広げられていく。

 続いて、指先は側頭部へと移動した。耳の少し上、桜井が日々のストレスで無意識に奥歯を噛み締め、パンパンに腫れ上がっていた「側頭筋」だ。


「桜井さん、ここ岩みたいになってますよ。少し強めにいきます」


 夏川の四本の指が、側頭部をガッシリと掴んだ。親指を起点に、螺旋を描くようにグイグイと筋肉の束を捏ね上げられる。そして最後は、頂点の「百会ひゃくえ」だ。頭のてっぺん、左右の耳を結んだ線が交わる場所。夏川は、両手の親指を重ねるようにして、その中心点に据えた。


「一番の急所、じっくり沈めますね」


 垂直に、一点の迷いもなく体重が乗せられていく。ズ、ズズ……と、頭の芯まで指が貫通するような錯覚。百会から全身の神経へと、心地よい痺れが波紋のように広がっていく。脳内の雑音が完全に消え、真っ白な静寂が訪れる。夏川は数十秒かけてゆっくりと指を離した。その瞬間、せき止めていた血流が一気に脳内を駆け抜けた。

 仕上げに差し掛かる頃、夏川は桜井のおでこに優しく掌を添えた。頭を固定するように支えながら、もう片方の手で首筋を丁寧に揉み解していく。


「首、詰まっていましたからね。丁寧に流します」


 そのまま、再び首筋への切打法が始まった。トトトトト、と小気味よい刺激が首のラインを駆け抜ける。最後に、もう一度頭全体をタッピングで整え、夏川は静かに手を離した。


「お疲れ様でした。桜井さん、少しは頭が軽くなられましたか?」


 しばらくの沈黙のあと、桜井は深く長い溜息を吐き出した。


「ええ。またお願いするわ」


 受付で会計を済ませる。宮野が静かに会釈をし、夏川が「またお待ちしております」と穏やかに見送った。


再び夜の街へと踏み出した。ハイヒールの音が、鋭く、確かなリズムで夜の静寂を切り裂いていった。

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