第一話 初めてコース〜耳かき&マッサージ〜by宮野
ヒュオオォ、と乾いた北風がコートの隙間を容赦なく叩く冬の夜。31歳、プロジェクトの納期という終わりのない濁流に追われ、心身ともに削りきられた俺は、重い足取りで住宅街の暗がりを歩いていた。
(……もう、指先一つ動かすのも億劫だ)
街灯の下、小さな木製の看板がふと目に留まる。
『お疲れのあなたに、温かなひとときを』
その文字を見た瞬間、冷え切った耳の奥がズキリと痛んだ。
……マッサージか。そういえば、人生で一度も経験したことがないな。どういう人がやってもらっているんだろう。
少し離れた場所から、メニューを何となく眺めていると、不意にカラン、と乾いた音を立ててドアが開いた。
「あの、よかったら中、入って下さい。外、すごい寒いので。……あっ、メニューの説明だけでも大丈夫ですよ。どうぞ」
現れたのは、淡い生成り色のエプロンをつけた女性だった。
内側から漏れ出す暖色の光に背中を押されるようにして、俺は「あ、いや……」と言い淀みながらも、その温もりの中へと足を踏み入れた。
一歩入ると、外の喧騒が嘘のように遠のき、静かな空間が広がっていた。
「お邪魔します……」
「いらっしゃいませ。今、温かいお茶をお持ちしますね。お召し物をお預かりします」
促されるまま、入り口近くの小さな椅子に腰を下ろす。暖房の効いた部屋で少しずつ指先の感覚が戻ってくると、岩のように張り詰めいていた緊張が、じわりと解けていくのがわかった。
彼女は丁寧に淹れられたカップをテーブルに置き、メニュー表を広げた。
「こちら、ご来店頂いたお客様にお出ししているハーブティーになります。看板、見てらっしゃいましたよね? 何か気になるメニューとかありますか?」
俺は温かいカップを両手で包み、立ち上る湯気をじっと見つめた。冷え切った指先がじんわりと熱を帯びていく。落ち着いた店内を改めて見渡すと、ここが殺伐とした日常とは切り離された「異郷」であると感じた。
「えっと、初めてコース……ですかね。あまりこういうお店に来たことがなくて、勝手がわからなくて」
俺の声は、自分でも驚くほど少し掠れていた。彼女は柔らかく、それでいてプロらしい落ち着いた動作で頷いた。
「初めてコース、ですね。内容としては、竹の耳かきと梵天でお耳のお掃除をさせて頂いて、次にクリームとオイルのマッサージですね。だいたい30分で1500円のコースになります」
(……え、安っ。普通もっと高いだろ)
適当な店でもなさそうだし、この価格はだいぶ破格ではないだろうか。
「……このままやって行かれますか?」
問いかけられ、俺は一度深く息を吸い込んだ。
店内の静寂が、今の俺の耳には何より心地いい。
「あー……。……はい、じゃあお願いします」
答えが決まると、彼女は「承知いたしました」と小さく会釈し、椅子から立ち上がった。
「では、こちらのカルテにご記入頂けますか?」
差し出されたバインダーに、俺はボールペンを走らせる。
「……三上様ですね。ありがとうございます」
彼女はカルテを受け取ると、丁寧に向き直った。
「では、私、宮野がこのまま担当させて頂きますね。こちらのお部屋にどうぞ」
宮野さんの後について、奥の個室へ向かう。
案内された個室には、厚手の清潔なシーツが張られたマッサージベッドが、静かに鎮座していた。
「そちらに横になって下さい」
言われるがままにベッドに身を横たえる。
天井の控えめな灯りを見つめていると、宮野さんが俺の頭側に静かに腰を下ろした。
「失礼します。……動かないで下さいね。まずは蒸しタ
オルでお耳を温めていきます。耳を温めるのって、とってもいいんですよ」
ずっしりと蒸気を蓄えた厚手の蒸しタオルが、冷え切った俺の耳を包み込んだ。宮野さんの掌がタオルの上から耳を密着させるように覆い、じわじわと熱を芯まで浸透させていく。
(……うわぁ、これが蒸しタオル。あったかくて気持ちいい…)
「タオルの上から、ゆっくりと解していきますね」
掌の付け根で耳全体をじっくりと圧し、円を描くように捏ね上げられる。そして耳の中と裏側をぐしぐしとマッサージしていく。
急ぐ様子もなく、時間をかけて耳の強張りが解かれるたびに、俺の意識は少しずつ沈んで行く。
タオルが外されると、宮野さんは竹の耳かきを手にした。
「では、お掃除とマッサージを始めていきます。失礼します」
宮野さんは耳かきの背を使い、耳の外側の複雑な凹凸をツー……っとなぞり始めた。軟骨の起伏に沿って、耳かきが滑らかに移動していく。
溜まった疲れを一つずつ解きほぐすように、くりくりと耳かきが動く。
先端で耳の軟骨にあるツボを的確に捉え、心地よい圧がかけられる。
耳たぶを押されたところで、脳に鈍い痛みが走った。
「いてっ…」
「あ、耳たぶ痛かったですか?」
「あー、そうですね。なんかのツボなんですか?」
「耳たぶの中心は目のツボですね。パソコン業務でお疲れですね」
そのまま耳たぶを指先と耳かきで挟むようにして、ゆっくりと引っ張られた。小さな円を描きながら、時間をかけて捏ね上げられる。
耳全体が柔らかく解れたところで、宮野さんが少し顔を近づけて耳の中を確認した。
「……綺麗にされていますね。普段からご自身でお手入れされているんですか?」
「ええ、たまに自分でも少しやりますね」
「そうなんですか。ただ、少し乾燥されているようですので、今日は負担をかけないよう優しく取っていきますね。……奥の方を掃除していきます」
かりかりと鼓膜に心地よく響く音と共に、溜まった汚れを丹念に掻き出される。
耳掃除が終わると、宮野さんは梵天を手にした。
「次はコレを使います。まずは外側から」
真っ白で大きな梵天が、耳の軟骨の起伏に沿って、するすると移動していく。
続いて、彼女の手首が軽く回転し、梵天の先端が耳の穴の入り口へと差し込まれた。ふわふわとした感触が耳の奥に触れ、円を描くように旋回する。繊細な毛先が触れるたび、なんとも言えない気持ちよさが全身へ広がっていく。
次に、宮野さんは自分の掌にたっぷりとクリームを取った。
「クリームのマッサージをします。冷たくないように、掌でクリームをあっためていきます」
温まった掌全体が、耳を包み込むように密着する。
掌の肉厚な部分で耳全体を押し潰し、ゆっくりと円を描いて捏ね上げられる。
「クリームを馴染ませていきます」
彼女の指先が、耳の凹凸に沿って深く、力強く滑っていく。耳の裏側から首筋へ向けて、掌全体を使って溜まった澱を押し流した。
力の緩急とクリームの柑橘系の香りで、意識がどこまでも解れていく。
綺麗なコットンでクリームを丁寧に拭き取ると、彼女は再び両手を擦り合わせた。
「次はオイルのマッサージをやっていきます」
今度はオイルを纏った掌が、耳から頬、そして顎のラインまでを広く、深く捉える。耳の穴の周りを旋回させながら、掌の付け根で耳の後ろから首筋、そして鎖骨の方までを、面で捉えて一気に押し流していく。
仕上げに、宮野さんは小さなボトルを手に取った。
「お疲れ様でした。仕上げに、耳用の洗浄液で……」
ウトウトしていた俺は、宮野さんの穏やかな声に意識を引き戻された。
しゅ、しゅ……。
少し冷たい洗浄液が染み込んだ綿棒で、耳の中を綺麗にしていく。
最後にコットンで水分を拭き取ると、肌がキュッと引き締まるような感覚が戻った。
「おぉ…………………」
思わず、深く長い溜息が漏れた。
言葉にするのも億劫なほど、頭の中が空っぽになっている。
しばらくの間、呆然としていたが、宮野さんが静かに立ち上がる気配でようやく我に返った。
「お疲れ様でした。少しは、お身体軽くなりましたでしょうか?」
「……はい。驚きました。ありがとうございます」
受付で手短に会計を済ませる。
「良かったです。三上さん、今夜はきっと、ぐっすり眠れますよ。どうぞ、お気をつけて」
再び夜の街へと踏み出した。
外は相変わらず風が吹き荒れていたが、一度温まった体は、先ほどほど冷えを感じることはなかった。




