第19話 1554年 上洛(2)
越前国足羽郡一乗谷 1554年(天文23年)9月 朝倉義景(21歳)
朝倉義景「おじい、安東殿と蠣崎殿は凄かったなぁ。」
朝倉宗滴「うん、凄かったとは、具体的にどう凄かったんや?」
義景「そりゃ、何ていうか…。自信に満ち溢れとったんよ。年下の筈やけど、私が家を引っ張っとるっていう自負を強く感じたんや。家を富ませ守るんだって気持ちが伝わったんよ。」
宗滴「なるほど、確かに一理あるなぁ。あの年で家を引っ張るのは並大抵の苦労じゃない。それが安東殿を鍛えたんやろうか…。」
義景「そうやね、でも蠣崎殿も同じように感じたのが不思議なんや。蠣崎殿はまだ家督を継いでおらず、父君もご健勝と言っていた。そもそも、安東殿の代替わりに付き添うなんて不思議だ。義理の弟とは言え、家臣の嫡男を将軍にお目見えさせようと考えるだろうか…。」
宗滴「うーむ、確かにそうだな。きっと蠣崎殿は安東殿にとってただの家臣じゃなくて、右腕みたいな存在なんだろう。それで、外の世界を一緒に見て成長したいと思ったんだろうか?」
義景「そうだな、大分納得できた気がする。もう一つ気になったことがあるんだ。蠣崎殿はどうして我々を富ませようとしたんだろう。ただの貿易相手としての提案じゃなかったぞ。」
宗滴「確かに…。越前の平和を守るだけじゃ、いずれ強大な外敵に潰される。若狭や加賀の領土を広げて国力を高めないと、滅びてしまう、って言ってたな。驚いたわ。」
義景「うん、私も驚いたけど、それが真理だとも思ったよ。駿河の今川殿や阿波の三好殿、出雲の尼子殿みたいに、ただ自分の領地を守るんじゃなくて、外に広げようとする勢力も確かにいるんだ。安東殿の先祖も南部家に100年ほど前に陸奥の領土を取られてたんじゃなかったか?」
宗滴「確かにそうだな。朝倉家が治める越前は50万石の大国じゃが、それ以上の敵に攻められたら無事ではすまん。一乗谷が灰燼に帰すことだってあり得る。」
義景「おじい…。私は朝倉家を、越前を、一乗谷を守りたいんだ。どうすればいいんだろう?」
宗滴「ほう…。目の色が変わったな。ほんまに当主として覚悟を決めたんか。よかろう、残り少ない命が続く限り、全力でお前を鍛えてやるぞ。音を上げるんじゃないぞ?」
義景「望むところだ、おじい。朝倉家が繁栄し続けるためには、私は強くならんといかん。それが当主ってことなんだろう?」
近江国蒲生郡観音寺城 1554年(天文23年)9月 蠣崎舜広(15歳)
朝倉領敦賀で船を降りた私達は、敦賀平野を南下し、七里半越を通り陸路で近江国に入った。ここには700年以上前に愛発関が有り、厳重な国境管理がされていたそうだ。塩津浜港から琵琶湖を南下すると、やがて巨大な山城が見えてきた。近江国の殆どを支配する大国、六角家の本拠地である観音寺城だ。石高は70万石を超えるだろうか、私達と比較するのも嫌になるな。
2年前に名君である六角定頼殿が亡くなり、現在は六角義賢殿(33歳)が当主を務めている。3年後には嫡男の義治殿(現在9歳)に家督を譲り、義賢殿は剃髪して六角承禎と名を帰る。義賢殿が当主である期間は5年間ととても短い。しかし実際は14年後までは承禎殿が権力を握るので、後継者との二頭体制で緩やかに権力を移行させようとしたのかも知れない。尚、この義治殿は6年後に野良田の戦いで浅井長政に敗北して北近江を失陥する。更に9年後には観音寺騒動で 重臣を殺害し、一時的とは言え父親と共に観音寺城から追放される事になる。この事件により六角家の大名権力は重臣に大きく制限される事になる。11年後の永禄の変では、足利義昭を匿い矢島御所という立派な住居まで建て与えるのに、最終的には三好家に怯えて義昭を追放してしまう。14年後には織田信長に観音寺城を奪われ、数年間甲賀郡でゲリラ戦を展開した後で降伏する事になる。うーむ、朝倉義景と同じかそれ以上の勿体無いやらかしを続けているな。
さて、主君と六角家当主の当たり障りの無い挨拶にも退屈したし、蠣崎家の野望を叶えるためには六角家にどう動いて欲しいだろうか…?そうだな、やはり朝倉家同様に、織田家に対する壁になって欲しい。織田家が日本海で海軍を編成するだけで蠣崎家にとっては脅威になり得るからな。織田家が日本海に出ようと思えば、近江国を抜いての敦賀が最も近い。次点で小浜だが、こちらは敦賀に比べて近江国からでは山道が長い。どちらにしろ北近江を織田家に取られないようにしたい。その北近江を史実で支配するのは浅井家だ。今は一時的に六角家に従っているが、5年後には浅井長政が当主で父の浅井久政を追放。6年後には六角家に対して独立戦争を起こす。織田信長が妹のお市を浅井長政に嫁がせるのは13年後くらいだったか。なれば、六角家には浅井長政が父を追放するのを阻止させるのが最良か。そうすれば浅井久政が六角家に従い続け、野良田の戦いは発生しないだろう。観音寺騒動は、力を持ち過ぎた重臣の後藤賢豊の排除が目的だったので、戦が無くなったからと言って避けられるかは分からない。しかし浅井家の独立を阻止出来れば、仮に足利義昭が織田信長を上洛の主力に選んだとしても、六角家の存在感は史実より大きいだろう。三好・六角連合で織田家に敵対しても良し、織田・六角連合で三好家を京から追い落としても良しだ。どちらにしろ織田家は近江国を得られず、日本海にも出られないのではなかろうか。
まあ、不確定要素が多過ぎる上に、重要部分が他人(他家?)任せなこの目論見は、当たったら幸運くらいで考えておこう。大事なのは蠣崎家が蝦夷島で力を溜めて、適切な時期に安東家から独立する事だ。義治殿には2つ下(現在7歳)の弟、義定殿がいるのだが、こちらが兄と違い人当たりが良く優秀なのだと義賢殿が頭を抱えていた。名門の嫡男として奢り高ぶる長男と、家臣に好かれる優秀な弟。六角家はお家騒動の火種が豊富なようだな。
「六角殿、この後室町御所さ行って、将軍様に代替わりのごどば報告しようど思ってらんす。どんな贈り物持っていげば喜ばれるが、分がりますべが?」
「…?安東殿、将軍は室町御所にはおらんよ。」
「…ちゅうごどは、京さ新しぐ城ば建てで、そっちさ引っ越しだっちゅうごどが?」
「そんなんちゃう、将軍は室町御所どころか京にもおらんのや。今は近江国高島郡の朽木っていう小さな国人の屋敷に避難しとるんや。」
…将軍が京に居なくても、国は問題無く運営されるんだな。少し将軍が気の毒になって来たぞ。
近江国高島郡朽木谷 1554年(天文23年)10月 蠣崎舜広(15歳)
急遽目的地が京から朽木谷となり、私達は琵琶湖を北上している。足利義輝将軍が朽木谷に避難するのは今回が初めてではないらしい。以前は三好長慶殿vs.足利義輝将軍&六角定頼殿の構図だったが、肝心の六角定頼殿が一昨年亡くなってしまった。大きな後ろ盾を失った将軍は三好家にそれ以上抗えず、半ば降伏の形で京に戻った。しかし1年も経たずに反三好家感情が足利幕府を支配した。戦を仕掛けるも数ヶ月で敗北し、再び京から離れざるを得なくなったそうだ。
本音を言えば、力も無いのに一体何をやっているんだと思う。足利幕府にはまだ権威が有るのだから、京を統治出来る大勢力の武力に頼り、自身はそれに権威を与えて武力行使を正当化するという手段も取れる筈だ。現状なら三好長慶殿と手を組む事で、少なくとも畿内からは争いを無くせるだろう。しかし将軍はそれを選ばず、むしろ反三好連合として六角家や河内畠山家を利用している。これではいつまで経っても戦は無くならないだろう。これは足利将軍家に代々伝わる悪弊だな。頼れる筈の大国の力を削るために、他の国を焚き付けて戦を起こす。それを繰り返すから幕府の権威がここまで落ちているのだ。それに決別したのが史実の織田信長だったわけだ。幸い、というか何というか、主君の安東家は将軍に頼られたり煙たがられたりする程の国力は無い。京から遥か遠い出羽国に居るというのも有るだろう。そのため、軍資金や家臣への褒美に使える宝物を持って来てくれるなら有難い存在程度に考えられており、ある意味気楽である。蠣崎家はその宝物の原産地程度の認識だろう。先代の舜季様のお陰で、将軍や天皇が蠣崎家を知ってくれているだけでも有難い事だ。
「足利義輝将軍がご着席なされた。安東愛季殿、蠣崎舜広殿、顔を上げよ。」
幕臣の細川藤孝殿(20歳)の呼び掛けに応じ、私達は初めて将軍の顔を見た。今年18歳の将軍は剣豪将軍の噂通り、鍛錬を重ねて引き締まった体をしている。指揮官としての能力は不明だが、接近戦での個人の戦力はかなり高い水準に有るのだろう。また、京奪還への強い意志が目に宿っており、一見すると頼もしい若武者に見える。但し幕府の現状を考えるとどうも空回りしているように見えてならない。武家の棟梁が武芸を修めるのは望ましいが、あくまで本業は政務であるべきだ。しかし実権の伴わない亡命政権になってしまった現状では、取るべき政務も大して無いだろう。結果的に朽木谷でも出来る武芸に益々のめり込むというわけだ。将軍の剣術が発揮される時点で幕府としてはまずいのだが、周りは分かっていても指摘出来ないのだろうか。
「遥々出羽国からよう参った。御父上の安東舜季殿からは多くの北の珍しき品を送ってもろうて、大層楽しませてもろうたで。この度は愛季殿が安東家の家督を継ぐ旨、確かに承知したわ。これからも良き品を送ってくれる事を楽しみにしてるで。」
「はっ、代替わりば認めでけで、まんずありがてぇごどに存じます。こん度も、ほんの少しばりだばって、贈り物ば持って来ましたけんども、どうぞ受げ取ってけれ。」
「ほう、今回も興味深い品ばかりやな。有り難い事や。今や足利幕府とは名ばかりで、京を支配する事すら能わぬ。しかし、そんな幕府と将軍を重んじて、定期的に贈り物を届けてくれる大名が居る事に安堵してるわ。」
将軍の弱気な発言に側近の細川藤孝が思わず声を上げた。細川と言っても、彼は半将軍を輩出した名門の細川家の生まれではない。彼の父は三淵晴員で、藤孝は次男だったので養子に出された。11年後の永禄の変で足利義輝将軍が殺害されると、その弟の覚慶(後の足利義昭)の側近として六角家や朝倉家を放浪。最後に辿り着いた織田家の武力で14年後に上洛に成功し、以降は足利義昭将軍の側近として権力を振るう。しかし織田信長と足利義昭が対立すると、19年後に主を捨てて信長に臣従し、後に丹後国を与えられる。28年後に本能寺の変で信長が殺害されると、謀反人で親戚の明智光秀の援軍要請を断り、髷を落として細川幽斎に名を変える。その後も天下人である豊臣秀吉や徳川家康の間を上手く駆け抜け、最後は小倉藩で約40万石の大名として長い人生を終える。肥後細川藩は彼の息子の細川忠興殿から始まり、20世紀末になっても首相を輩出する程の名門であり続けた。
つまり細川藤孝という男は、権力者に取り入る達人なのだ。2人の将軍と3人の天下人に仕え、最後は国持大名にまで上り詰めた。主と共に沈むよりも、主を切り捨てて己の出世を追い求める、有能な現実主義者だ。部下として扱うのは難しいが、将軍との繋ぎとしてはとても役立つだろう。将来蠣崎家が安東家から独立する際には、旧体制の維持よりも利益に基づいて蠣崎家の独立を認めるように、将軍を上手に説得してくれるだろう。今後は蠣崎家の名義で将軍と細川藤孝に北の名産品を贈るとするか。安東家に気付かれないように、幕府の中で蠣崎家の存在感を高めていかねば。
おっと、考え事をしていたら謁見が終わりそうだ。今回の朽木谷訪問では、将軍だけでなく細川藤孝と接点を得られたのが収穫だったな。史実通りならば永禄の変まで後11年、それまでにまだ存在しない「蝦夷守護」の称号を将軍から受け取り、蠣崎家独立の正当化に役立てねば。
・六角定頼:1495~1552年。六角氏第14代当主。父は六角高頼。18年に家督を継ぐ。足利義晴を将軍にする際に大きな貢献をし、管領代・従四位下になる。浅井久政を従属させる。
・六角義賢/承禎:1521~1598年。六角氏第15代当主。父は六角定頼、母は呉服前。52年に家督を継ぎ、57年に家督を嫡男の義治に譲るが、68年の信長襲来までは実権を握る。60年の野良田の戦いで浅井家に敗北し、独立を許す。三好家と何度も衝突するが、63年の観音寺騒動で当主権力を大きく損なう。信長被害者の会の会員。
・六角義治:1545~1612年。六角氏第16代当主。父は六角義賢、母は畠山義総の娘。57年に家督を継ぐが、63年に観音寺騒動で派手に自滅する。当主権力の弱体化から立ち直ろうとするも、65年の永禄の変や68年の信長襲来といった荒波に乗り切れず、領土の殆どを失う。信長被害者の会の会員。
・細川藤孝/幽斎:1534~1610年。父は三淵晴員、母は智慶院(清原宣賢の娘)。前半生は幕臣として足利義輝将軍を支え、永禄の変の後は織田信長の支援を受けて足利義昭将軍を支える。信長と義昭が決別すると信長の家臣となり活躍する。80年には丹後国南部を得る。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍として田辺城籠城戦を生き抜き、戦後は小倉藩39.9万石の大名となる。勝馬に乗るのが上手い男である。古今和歌集の秘伝の解釈である古今伝授を受けた超文化人。そのお陰で田辺城籠城戦で公家の支援を得られたとか。




