閉幕
1886年、慶應2年に起きたこの大火の被害により吉原の町は全焼した。
ここから栄華を誇っていた吉原遊郭は衰退していくこととなる。
大規模な火災が起こる度に火に紛れて吉原から逃げ延びた遊女は少なからずいた。
しかし一度遊女となった身に新しい行き場などが容易に見つかるはずもなく……
結局は吉原へと戻るしかなかったり、町角で夜鷹として立ち、安い金で体を売ったりしたのだという……
どこに行こうとも、吉原という呪縛からは逃れられないのである。
花月と出会えた私は本当に幸せ者だ。
花月は長屋を一棟借りていて、門下生10人とともに共同生活をして暮らしていた。
男所帯のその中に、私は花月の妻として迎えられた。
「小春姉さん違いますって。これはイチョウ切りにするんです。」
「イチョウ切りってどう切るんだっけ?」
「小春姉さん、もっとキツく絞らないと夕方までに乾きませんよ?」
「そう言われてもこれ以上力が入らないっ。」
妓楼では家事を一切習っていなかった私は、毎日眼鏡君からの厳しい指導を受けていた。
花月はそんなもん門下生達にやらせとけばいいと言うけれど、私だってここに住むんだからそうはいかない。
芸事や教養を習っていた頃より、家事をしている今の方がちゃんと生きてるって感じがして毎日がすっごく充実している。
この辺の長屋の住民は文字が書けない人が多いらしく、いずれ寺子屋を開けたらなあなんて考えている。
「花月、ご飯出来たよっ。」
「おう、あんがとよ。もう直ぐ仕上がるから一緒に食べような。」
花月はそう言うと私を引き寄せてチュッと口吸をした。
元々は金儲けに興味の無かった花月は工房を直すことなく閉鎖した。
今は絵描き一本で気ままな生活を送っている。
とは言っても江戸一の浮世絵師なだけあって稼ぎはべらぼうに良いし、有名な歌舞伎役者が絵を描いて欲しいと長屋に訪ねて来たりしていた。
芝居小屋の前にあった直営店は、お礼だと言ってお薗さんにポンとタダであげた。
私が火事の中で高尾姉さんの元へ向ったことを花月に知らせてくれたのはお薗さんだし、門下生達に跳ね橋の在処を教えて下ろすようにと指示を出したのもお薗さんだったのだ。
お薗さんは貰った店の店主となり、団子屋を開いた。
従業員には年季が明けても行き場のなかった遊女達を雇い、べっぴん揃いの団子屋としてなかなか繁盛していた。
元遊女と知って寝床に誘ってくる不届きな男共が後を絶たなかったのだが、お薗さんが土佐弁で全部追い返していた。
さすが遣手ばばあとして吉原一の妓楼を回していたお薗さんだ。
……って褒めたのに、誰がばばあながあ!と怒られた。
団子好きの私はその店一番の常連さんだ。
高尾姉さんの月命日には必ず訪れている。
今もこれから先も、高尾姉さんは私の一生の憧れの人だ……
まだ仕上がらないのかな?
お腹がペコペコなんだけど……
花月が熱心に描いている絵を後ろから覗いてみると、淫らな格好をした女が男にもたれながら艶めかしく絡んでいた。
わっ、ヤラシイ……って。
この女って私じゃないの?!
「ちょっと花月!この絵何っ?!」
「昨夜俺におねだりしてきた小春。目艶が色っぽいだろ?」
確かに終わった直後にもう一回しよって誘ったけれど……だって花月って上手なんだもんっ。
「まさかこれ、売る気?」
「何言ってんだ。小春の新妻シリーズの春画は人気あんだぞ?」
は?シリーズ?
聞けば私の遊女シリーズなんてのも販売していたようで、遊女なのに恥じらう仕草がなんともエロいと評判だったらしい。
冗談でしょ……
人の春画を江戸中にバラまいていただなんてっ……
「大勢の男が小春の裸体を見ておっ勃ててるなんてそそるだろ?」
「そそるかあ!!こんのっど阿呆がっ!!」
花魁とは今で言うトップスターだった。
実在の花魁を描いた浮世絵が人気を博し、ファッションや髪型が町娘の間でブームとなってみんながこぞって真似をした。
江戸時代が今よりも性に対してオープンで男女ともにおおらかに楽しめる時代だったからこそ、このような文化が根付いたと言える。
明治、大正、昭和と規模を縮小しつつも存続した吉原遊郭は、昭和33年の売春禁止法により完全に幕を下ろした。
遊女について詠まれた有名な歌がある。
『生まれては苦界 死しては浄閑寺』
遊女は親に売られ、生まれて生きることさえ苦痛の立場であった。
そして老いて価値を失うと投げ込み寺へと葬られ、死してもなお寄る辺のないことを嘆いた歌である。
「光」と「闇」
花魁という華やかなイメージの陰で、何千人もの遊女達が非遇の死を遂げた。
そのことを決して、忘れてはならない──────……