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83.earn

「あんまり無理するなよ」

 彼がそう言って、いつものとろけそうな笑みを浮かべる。彼と関わった数多の女が、一度はオチかけたに違いない笑みだ。

――何言ってやがる、馬鹿野郎

 内心口汚く罵って、私は曖昧に苦笑して見せた。



 彼にプロポーズされたのは、社会人三年目の時。大学の同窓会で再会して、しょっちゅう会うようになって、半年ぐらい過ぎた頃だ。色恋沙汰に慣れていなかった私は大層動揺して、混乱しながら必死に考えて、決死の覚悟で返事をした。

 その時も、彼には余裕があるように見えた。いつもそうだ。驚いたり喜んだり嘆いたりしながら、いつもケロッとして笑っている。恋に無知な私に、手酷く別れた昔の女の話をしたりして、明るく爽やかに笑う。

 私には、その笑みの奧にあるものがさっぱり見えなかった。今でもそうだ。彼の話によく共感できなくて、そのたびに自分がひどく惨めに思えた。

 彼には追いつけない。彼と同じ顔ができない。

 私はひたすら働いた。自分から仕事を探したり、空いた時間を使って資格を取るために勉強もした。疲れ切って帰宅して、溜め息を吐いたら、同じように仕事で疲れているはずの彼がホットココアを作ってくれたりする。優しい笑みに、思わずほっとした。そうやっていつか子供も出来た。

 十年。

 疲れていた。嫌で嫌で仕方ない。いつまでこんなことが続くのか――だが、終わりは案外あっさりと訪れた。



「あれ」

 洗濯物を分けながら思わず漏らした私に、彼が振り返った。

「ん、何?」

「……何でもない」

「何だよー」

 笑いながら、彼は食器を運ぶ。シャツの襟の後ろに付いた口紅には、どうやら気付いていないようだった。

「……」

 来るべき時が来た、と思った。そんな気はしていたのだ、ここ最近は――いや、本当は出会ったときから予感していたのかも知れない。彼が、彼ほどの男が、私如きに縛られているはずはないのだ。浮気相手の一人や二人、いやむしろ本命の一人くらいいて当然だった。

「おーい、テレビ見ないのー?」

「お父さん、お母さん怒ってるよ」

「えっ。俺何もしてないぞ。シンヤ、服汚したんだろ」

「違うし!」

「ははは」

 そうだ、無駄だったのだ。ここまで私のやってきたことは、全て無意味だった。そもそも、何のためにやっていたんだっけ? 私は――…


 「…………。……?」


 分からなくなってしまった。十年間なんて、夫婦の仲が冷めるには充分な時間だ。だが、私は変わったたのだろうか。ひたすら働いて稼いで貯め込んで、何か忘れたような気もするがそれが何かすら忘れてしまった。

 もう、疲れた。どうでもいい。

「あ、今日休み?」

 出勤日だと知っている癖に、彼はそんなことを言う。私は返事をしなかった。寝起きで機嫌が悪いフリをして、布団を深く被る。

「じゃ行ってきまーす。あ、そうだ、今週の日曜時間空けれない? ちょっと行きたいとこあるから。考えといてねヨロシク!」

 早口に言って出て行く彼を、初めて無視した。

 行きたい場所とは、彼の相手と関係があるのか。彼は真面目なところがあるから、私に話しておこうと考えたのか。そんなことを考えて、思わず自嘲の笑みが浮かんだ。

 一週間丸々、仕事を休んだ。会社にはインフルエンザだと言った。診断書がないと分かったら首になるだろうか? 構うもんか。

 彼は私を気遣って、さりげない昔話や笑い話を繰り返したが、困惑していることが伝わってきた。困惑? 何に? どうせ私が隠してきたものは、彼には見えているだろうに。

「……」

 振りかけられる笑顔から庇うように、頭を枕に埋めた。


 日曜日。

 彼が表に停めた車に乗り込む。息子のシンヤも、妙にそわそわと助手席に座った。シンヤを連れて行くということは、どうやら終了宣言は免れたのか。

 高速道路をしばらく行くと、雑談を続けていた彼がふと口調を変えた。

「文恵。俺、ちょっと謝らなきゃいけないんだけどさ」

 ……ああ。そうか、ここまでか。

「うん、何?」

「今まで、なんかずっと頑張ってくれてたよな。遊ぶ時間とかなかったし。おかげで貯金も出来たしさ、すげー助かった。感謝してるよ、マジで。ありがとう」

 こういう男だ。器用で、優しくて、残酷なんだ。

「今更何だけどさ。結婚して良かったと思う。生活が楽になったのもあるけど、ホラ、文恵ってあんまり必死で働くタイプみたいなイメージなくてね、ごめん。新しい面見れたっつーか、なんか、俺の影響かなとか妄想したりとかしてたんだけど」

 窓の外の景色が変わり始めた。ビルや住宅街が消え、高い木々の間から海の青が覗く。何だか見覚えがあるような気もする。

「で、俺も頑張ろうってなって。帰ったら文恵がいて、やっぱそれでやる気出たと思うし、出世できたのも文恵のおかげだと思う」

 インターチェンジを抜けてしばらく走ると、海に囲まれた高台が見えた。思い出した――学生の頃、よく皆で来ていた港沿いの公園だ。

「ここ、覚えてる?」

「……うん、懐かしい」

 彼は車を止め、後部座席の私を連れ出した。潮風が髪をなぶり、頬にまとわりつかせる。助手席から飛び降りたシンヤが、浜辺の方に飛び出したそうにしながら、彼の後ろで大人しく指をくわえた。

 相変わらず、ゴミが多い。足元に転がってきた紙屑を軽く蹴飛ばした。

「ごめん、文恵」

「いいよ。わかってる」

「……ごめん。気付いてたんだけど、なんか言えなくて」

 真面目で、静かだけれど重い声。初めて聞いたかも知れない。

 全部おしまいだ。私の年月が、泡になって消える。目を瞑って、海鳥の声を聞いた。

「……最近、疲れてたよね。ずっと無理してたんしょ? 働き過ぎなんだよ」

 またか。もういい。優しくするな。私は唇を噛んだ。惨めさがどんどん、肺の中の空気を食い尽くして広がっていく。

「嬉しかったし、凄いと思った。尊敬した。だけどちょっと悲しかったんだよな。あんまり目合わせてくれなくなったから。だからもう、頑張らなくていいよ」

 それが理由か。いや、きっときっかけに過ぎない。私には無理だった、それだけだ。

「文恵」

 なんでそんな、真剣な声で。私はもう、

「文恵。俺の顔見てよ」 突然、両頬を挟まれた。息の掛かりそうな距離に、彼の顔があった。

「……」

「ありがとう。ごめんね。それから、誕生日おめでとう」

 微笑んだ。

 久し振りに近くで見る彼の目は、潤いを湛えていた。本当に綺麗な目で、私はこの目をずっと向けられていながら、たった一度でも、真正面から見据えたことがなかったなんて今更気付かされた。

 確信した。確信できてしまった。彼は私を――

「大好き」

 条件なんて必要ない。経験なんて関係ない。二人になったんだから、二人でやっていけば良かった。ただそれだけだ。本当に欲しかったものは、とっくに手に入れていたのに。

「ホントごめん。嬉しくてさ。気持ちに水差したくなくて。でももう無理すんな」

「お母さん、おめでとう!」

 シンヤが、小さな背中から包みを取り出して差し出した。受け取ると、しっかりとした重みが掌に伝わる。

「これ……」

「後で開けて」

 彼は頭を掻いた。

「あり、がとう……」

「いいって。つかさ、俺の貯金今ちょっとピンチでさ。……しばらく文恵からお小遣い貰いたいんだよねー……だから、プレゼント兼お詫び。ほんとつまらんもんだから」

「……へへ、」

 うまく笑えなかった。

「それよりほんとに、あんまり無理すんなよ」

 照れ笑い。これも初めて見た気がする。私はいくつの笑顔を見逃してきたのだろう。彼に追いつけないとか、本心が分からないとか、

――何言ってやがる、馬鹿野郎

 内心口汚く罵って、辛うじて、苦笑を浮かべた。



「~をもうける」、

「~をかせぐ」、

「~を得る」。



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