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「ここはどこだ。私は誰だ」
暗闇の中でむっくりと起き上がり、男は自分の体を確かめた。汚れた髪、伸びた髭。安物のくたびれた寝間着。
と、どこからか声が降ってきた。
『忘れたのかい。君は君が寝泊まりしている四畳半から、ここに来たんだよ。魂だけでね。まあ、まだ思考や記憶は――』
「そうだ、思い出した」
男は手を打った。
「そうだったそうだった。私は貧乏暮らしで、うんざりして神様にお祈りしたんだったな。『私を王様にしてくれ』と。あなたは誰だ? 神様か? 私の願いを叶えてくれるのか?」
『切り換えの早い男だな…』
声の主は呆れた。
『うん、まあ、王様にはしてやるよ。だけど色々話もあるんだ。まず、クーリングオフは一ヶ月まで。それから…』
「いい、いい。ややこしい話はごめんだ。何だか分からないが今すぐ王様にならなきゃいけない、そんな気がする」
『…しかしこっちとしては…』
「いいから早くしてくれ」
『……。分かったよ、そこまで言うなら説明はナシだ。後で文句言うな』
男が肩をすくめる。直後、男の魂は再び眠りへと落ちていった。
目を覚ますと、男は確かに王様だった。が、その生活は、男が思っていたようなものではなかった。国は荒れ、家臣達の賄賂や裏切りが横行し、血縁者からは常に命を狙われる。城には連日、争いを逃れた民が押し寄せて食糧だの何だのを乞うた。
が、男は状況を甘んじて受けた。
折しも隣国との戦争は末期に突入しており、人の心は荒れる一方だった。その内、王妃は目前に迫る滅びに絶望して自殺し、王子の一人が事故を装って殺された。
男は、誰も磨く者がない玉座に、一人座り続けた。
国はひと月経たず、隣国と手を結んだ奸臣による政権奪取という形で、滅びを迎えた。男も王ではなくなり、嘗て味方だった兵士達に引っ立てられて、新しい王に額づいた。
「…うんざりだ」
結局、王様になれたのはたったひと月だった。だが、そのひと月の間に見たものは、人間に、世界に絶望するには充分過ぎた。
「もう結構だ。そうだ、思い出したぞ。クーリングオフが使えるんだったな。ああ、腰抜けでも何でも構うもんか。もう戻してくれ。元の貧乏暮らしに帰してくれ」
ぶつぶつと呟きながら、男は薄いシーツで体をくるんだ。
『やれやれ、だから話を聞けと言ったのに。じゃあ戻すけど、今度は苦情は受け付けないからね』
「うー…ん」
寝返りを打ち、すぐに気が付いて男は起き上がった。自分の身を確認する。
粗末な服、粗末なベッド。伸ばし放題の髭。窓の鉄格子。外からかんぬきの掛かった扉を見張る番人。
数日前、弟に国を乗っ取られた、元国王の自分。
「…あれ?」
まだ戻っていないのか。
『いや、戻したよ』
どこからか、あの声がした。
『手違いはない。これが元の君だ』
「馬鹿な…」
言いかけて、男ははっとする。何かが頭の中を駆け巡った。
『話を聞けと、何度も言ったろう。あの日、王様になりたいと願った君は、自分の素性もロクに思い出さないままそれを実現させた。こっちは人が変化を望む念に対処するだけだからね。とはいえ現実をねじ曲げるのは無理だから、現在進行形で王様やってる奴と君を入れ替えたんだ』
ペラペラとよく喋る声を聞き流しながら、男は漸く自分のミスに気が付いた。
どこの誰とも知れない王様なんぞになりたかったのではない。弟から王位を取り戻したかったのだ。その思いだけが、やたらと急ぎすぎた。
『まあ、こっちとしては別に困らないし、元の時間に戻してあげたから文句もないだろう? ほら、確か今日は、君の処刑日だしさ』
声に促されて耳を澄ますと、遠くの広場から人々のどよめきが聞こえてくる。それとは別に、ひたひたと石畳を踏んで近付いてくる足音が、鼓膜にはっきりと響いた。
『じゃね。いい人生を。と言っても、あと二時間くらいか』
それきり、声は消えた。
男は、一人俯いていた。長いことじっと冷たい床を見つめていた。
やがて、拳を握り締めて立ち上がる。
「なあ」
話し掛けられ、番人は敏感に振り返った。
「煙草、ないか」
番人は複雑な表情になり、逡巡していたが、やがて殊更わざとらしく表情を引き締めて懐に手をやった。
「一本だけですが」
顔に似合わぬ声色で、微かに囁く。男は微笑を返し、番人の差し出す煙草の吸い口をくわえる。
番人の目には憐憫が浮かんでおり、おかげで、元国王が自分の腰に素早く伸ばした右手には、未だ気付いていなかった――。
「~に取って代わる」、
「~を取り替える」、
「~を元の場所に戻す」。




