72.belong
ふとテレビをつけると、またあの子が映っていた。反射的にチャンネルを変える。
「お母さん、どうしたの?」
六歳になる娘は無神経な母親とは真逆にそだったようで、敏感に私を心配した。
「なんでもないよ。そうだ、ちびまる子ちゃんが始まっちゃうわ」
「まる子ちゃん!」
娘は奪うようにリモコンを手に取ると、隣の椅子に飛び乗った。無邪気な笑顔だ。私には、勿体ないくらいの。
あの頃、私はあの子を親友だと思っていた。
行き帰りが一緒だったからすぐに仲良くなって、しょっちゅう話をしていた。
似た者同士、という訳ではない。むしろ性格は真逆で、私は落ち着きのないお喋り。あの子は沈着冷静な聞き役だった。けれど大人しいばかりではなく、時には驚くほど鋭いツッコミをする。今考えると、私の何倍も賢い人間だったのだろう。周囲からは、私がまるで落ち目の道化のように見えたに違いない。
そして、私たちの関係はあっさり終わりを告げた。
その日、いつものように私は一方的に話をしていた。内容は失恋話。告ってきた男が、たった三日で今度は別れを告げてきた、という愚痴だった。中身のないだらだらした嘆きを、あの子は辛抱強く聞いて慰めたり忠告したりしてくれていた。私はそれに対し、男の「理不尽な仕打ち」をひたすら呪っていただけだった。
「大体さ、人の気持ちを分かれとか何様?って感じじゃね? 三日で何か分かれって方が無茶でしょ。私は告られた側なんだからさ、相手見れてないし。あんたとは違うんです的なね? そこは妥協して欲しいじゃん」
「…まあ、彼的には『それ以前の何か』が欲しかったのかもね。見込み違いっていうか、本当には見えてなかったんじゃない。なっちゃんのこと」
「やっぱ? だよねー! 全然相手のこと見てないよね。マジKY」
そう言った途端、あの子は僅かに空気を固くした。私が返事がないことに違和感を抱き、振り向いたときには、もう遅かった。
「…ごめん。力になれないみたい。ちょっと、先、帰るね」
言うが早いか、走り出した背中がみるみる遠ざかり、それを最後に、あの子と私が言葉を交わすことはなかった。
今なら分かる。私がいかに独り善がりだったかが。私は、他人の気持ちまで自分のものにできるつもりでいたのだ。親友も彼氏も、最初から裏切っていたのは私の方だった。
あの子とは一度も目も合わせないまま卒業し、次に見たのは、テレビの中から眩しい笑顔を見せるタレントとしての姿だった。所属しているという芸能事務所は私でも知っているくらいの大手で、もう雲の上の人なんだ、とどこかで納得した。
だから私は、私の出来ることを、せめて同じ後悔をしないように続けていく。そう、決めたはずなのだけれど。
「お母さん、テレビ」
「ん?……」
気づくと、チャンネルがまた元に戻っていた。カメラの方を振り向きながら歩くあの子。心臓の奧に、重い痛みが差し込んでくる。駄目だ。やはり、まともに見ていられない。
「ごめんね、チャンネル…」
「お母さん! キリンの公園!」
娘の訴えるような声に顔を上げる。テレビの背景に映り込んでいたのは、見慣れた近所の公園だった。
「え……」
心臓が、大きく膨らんだ気がした。
「ねえ、うちの方来てるよ」
娘がはしゃいでいる。あの子は相変わらず笑顔のまま、確かに私達の住むマンションの方に近づいてきていた。
耳の奧で鼓動が聞こえる。記憶が脈打って、あの声が、会話が、恐ろしく鮮明に蘇る。
「テレビの人が来るよ、ねえ、見に行こう、早くぅ」
娘は懸命に私の袖を引き、動かないと分かると焦れてひとりで駆け出そうとした。
「だ…駄目っ」
腕を捕まえる。娘は不機嫌にむずかった。
体が強張る。唇が震える。あの子が手の届く範囲にいるというだけで、私は壊れてしまいそうだった。
『この辺なんですよねー。緊張してきました…』
やっぱり近づいている。が、近づいているというだけだ。関係ない。私には関係ない筈だ。
『あっ、この建物!』
「……」
このマンションだ。
「……え」
「お母さんお母さん、ほら、こっち来るよ」
「来ないわよ!」
思わず強い口調になった。娘が目を丸くし、次いで泣き出しそうになって、スカートを握って堪えている。
「…来るはず、ない」
あの子が階段を上っている。私は頭が真っ白になって、娘に謝ることも、テレビの音声をまともに聞くこともできなかった。
『わ、ホントにドキドキする。…喧嘩別れしたんですよー。会ってくれるかな』
冷や汗が背中をじっとりと湿らせた。体が熱い。頭の芯が震えている。呪文のように来るな来るなと念じながら、膝に手をついて何とか自分を支えていた。
『…じゃ、行きまーす』
呼び鈴が、鳴った。
「はーい」
我ながら、どうしてそんなことができたのか。私は訪問セールスでも迎えるように、答えて立ち上がった。頭の中は依然、思考が止まっている。
覗き窓から外を確かめ――しかしまともには見えず、ドアを開ける。
「あっ、奈津子さん、ですか?」
『…ですか?』
背後のテレビから、ほぼ同時に山彦がかかる。私は無表情だったのか、それともアホ面だったのか。知らず知らず、声が漏れていた。
「…亜美ちゃん」
あの子が満面の笑顔になる。
「覚えててくれたんだ! わあっ、嬉しい。急にごめんね。実はこれテレビの企画で…」
「ああ、知ってる。今見てた」
私の淡々とした対応に、後ろのカメラマンが困惑する気配を見せる。私はと言えば、混乱と緊張を通り越してもはや考えることを放棄していた。
と、その時だ。
あの子がふいに微笑した。今までの屈託のない笑顔ではなく、妙に悪戯っぽいような、切ないような表情で。
「…やっぱ? だよねー」
止まっていた心臓が、再び大きく音を立てた。
あの時の私だ。
「見ててくれると思った。私もなっちゃんのこと、忘れてなかったし。いきなり腹立てたりして、ずっと後悔してました。だから…」
「よく、ないよ、ね」
手が震えた。胸の中で訳の分からないものが渦巻いて、力を抜くと噴き出してしまいそうだ。
「『やっぱ』…とか、『だよね』…とか、人を、決めつけるみたいで…よく、ないんだよね」
言いながら顔にかっと血が昇って、俯いた。どうして私は素直になれないのだろう。どうして、たった一言。
「…そうだね」
あの子が言った。恐る恐る顔を上げる。
「ごめんね」
あの子は、亜美は、そう言って笑った。その瞬間、感情はいとも簡単に堰を切って溢れ出していた。
カメラマンが驚きを見せ、しかしすぐさま私と亜美にレンズを向ける。亜美は、私の頭を抱いてくれている。
私は何も言えず、亜美の肩の中でただかぶりを振った。ごめんなさいもありがとうも、私が言うべき言葉なのに。
折角の高そうな服が、私の涙で汚れていってしまう。流し終えたら、弁償しなくちゃ。そうして今度こそ、ちゃんと頭を下げて謝るんだ。
でも、この分じゃしばらく後になるだろうな。
「所属している」、
「所有物である」。