30.recognize
人気のない、森の奥に一軒の小さな家が建っている。その古びたドアを、一人の女がノックした。
「お婆ちゃん、来たよ。私。遅くなってごめんね」
女はそう話しかけたが、布団を被って丸くなった人物は、後ろ頭を見せたまま振り返らなかった。
「怒ってるの?…そうだよね、ずっと来てなかったもんね。もう、あれから七年になるかな。覚えてる?私がまだ小さい頃にさ、お酒とパン持ってお使いに来たでしょ」
人物はやはり振り返らない。動こうともしないようだった。
「あの時、危ない目に会ったから、ってお婆ちゃんのとこ行かせて貰えなくなったんだ…こんなこと、言い訳だよね。けどお母さんは悪くないよ。私のこと心配してくれただけだから。悪いのは…悪いのは私。人のいない道でのんびり花摘みなんかしてたから悪かったんだ」
女が足先で、床にのの字を描く。埃の下から傷んだ床板が顔を出した。「やっと一人前になって、家を出て…だから来られたけど。本当に遅すぎたよね。せめて…せめて、お婆ちゃんが私のこと、わかるうちに来たかった。私は…私も、お婆ちゃんも、随分変わっちゃったよ。もう狼に騙される馬鹿で素直な女の子じゃなくなった。…ねえ、お婆ちゃん。お婆ちゃんがもし生きてたら、私のこと、分かってくれたかな。私を見て、あの時みたいに笑ってくれたかな…」
窓から光が差し込み、室内に舞う埃を浮き上がらせた。ベッドに横たわるのは、目玉も失い皮と骨だけになった、小さな体だ。
「ねえ、お婆ちゃん。分かる?私のこと。…ねえ…」
「わかるさ」
不意に、低い声が発せられた。女がはっと顔を上げると、ベッドの向こうからおもむろに立ち上がった影がある。
「わかるとも。お前、あの時の女の子だろう?『赤ずきんちゃん』」
「あなたは…」
女の目に溜まった涙が、瞬きの拍子に零れ落ちた。
「そうさ。あの時の狼だよ、赤ずきん。俺も随分歳をくった…なあ。冥土の土産に、あんたを食わせちゃくれないか」
嗄れた声の主を、女は暫く見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「…いいわ。好きにして。どうせ独りなんだもの、死んだって一緒…」
「そうかね」
「だけどその前に、一つ。訊きたいことがあるの」
「なんだ」
女は、じっと狼を見つめた。
「どうして、お婆ちゃんと手を組んだの?」
日が陰った。古びた家の中が、濃い影に包まれる。
「…何?」
狼が聞き返した。
「知ってたのよ。…普通狼が、人間を丸呑みにする?お腹を切り裂かれて、誰が生きていられるの?お婆ちゃんが死んだことを誰がどうやって伝える?…気付くよ、それぐらい」
狼が、面を俯けた。
「…理由は…俺が、お前を、食べたかったからだ。俺にはお前が、とても素晴らしく見えた。触りたい、全て俺の物にしたいと…だから、食べようと思った」
「嘘」
女は静かに言った。
「それだけじゃない筈」
狼が渋面を作る。
「そうさ。…お前を食えと言ったのは、この婆さんだ。理由?知らないね。俺に分かるのは、若い頃の婆さんがお前にそっくりだったことだけだ」
「…そう。分かった」
呟いて、女は暫く目を閉じ、瞼の裏で天を見上げていた。
やがてゆっくりと息を吐き、目を開ける。
「…さあ。質問は終わり。あなたの好きにして」
それを聞くと、狼はのそりとベッドを乗り越え、女の目の前に立った。鋭い爪を肩に掛け、引き寄せる。老いてなお堅牢な牙を剥き出し、乳房に食らいつかんとして、
はたと動きを止めた。
「…婆さんはお前を、…いや」
小さくかぶりを振る。
「何でもない。…すまんな」
大口を開け、それこそ丸呑みする勢いで、女の体を抱き寄せた。呻き声、血の飛沫。一人と一匹の胸元が、みるみる朱に染まっていく。
「ああ…」
狼が、かすれた息を漏らした。
「そうか。やっと、わかった。お前は……」
力を失い、崩れ落ちる。色褪せた毛並みを濡らして血溜まりが広がっていく。喉元には、刃物の鈍い煌めきがあった。
「わかった…?何がわかったって言うの」
衣服を血に染めて、女が呟いた。狼の閉じかけた目が、辛うじて見上げる。
「あなたは分かってない、私が誰かすら。『赤ずきん』は私の姉さんだよ」
狼の瞳が大きく見開かれた。何か発しようとしたが、虫の羽音のようなか細い声が漏れたのみだ。それを最期に、狼は絶命した。
女は踵を返し、家を出た。森の向こうへは、最早獣道と化した小道が続いている。
「姉さん、駄目だったよ…」
小さく呟いて、女は藪の中へ消えた。
「~を認める」、
「~を識別する」、
「~だとわかる」。