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あれは、いつのことだっただろうか。
失敗しちゃったよ、と彼は色の抜け落ちた短髪を指でつまみ上げて苦笑する。
どこかの国の王子様みたいね、と私が返せば、それなら君はお姫様だ、と彼は恥ずかしがることなく手を差し伸べた。
快活に笑う彼。お喋りな彼。少し天然で、お調子者な彼。
私はそんな彼が大好きだった。彼の隣だと、私も上手く笑える気がした。
好きだった。ほんとうに、すきだったの――。
「……ほんと、に……あ、れ……?」
意識が朦朧として、目に映る天井がぼやける。
けれど今や遠く離れた私の部屋の華やかな天蓋でも、屋敷の私室にある色味の落ち着いた天井でもない。真っ白な、それ。
ああ、ついに現代の病室のベッドで目を覚ます日が……どうせ来ていないんだろうなあ。
諦めの気持ちたっぷりで視線を動かせば案の定。そんなに間近ではないとはいえ、眉間に深いシワを寄せた怖い顔の旦那様が私を見ていて飛び上がる。
悲鳴が出るかと思ったが、咄嗟に口元を手で封じて呼吸を丸ごと飲み込んだ。
「具合は?」
言葉少なに問われたが、その時の目が怖いのなんの。そんなに親の仇を見るように睨まなくたっていいのに。
横たわったまま、私は両の掌を見比べて、頭を触り、耳に触れたところで息が詰まって鳥肌が立つ。
そうだ、思い出した。私、祈祷師様というか、教皇様と会って、悪魔が何だと言われ、そしたら触られて、ええ、と……?
それで頭がパニックになったのは覚えている。その後、その後どうしたっけか。
「特にないなら、ないでいい」
「……ご迷惑を、おかけいたしました」
目を伏せて旦那様はそう言った。ぶっきらぼうだけど、どこか安心したような声色だった。
私は寝台から身体を起こして、旦那様に向き合ってから頭を下げた。編み込みを解かれた銀髪がさらり、と肩から落ちる。
沈黙が続く。旦那様は視線を下げたまま、より一層深刻そうな顔をして黙り込んでしまった。
それにどう声をかけていいか分からずに、結果私も黙り込む。
「あ、の……! 帰らないんです、か?」
いかん、ここままじゃ平行線のままだ、と察したので私は勇気を振り絞って旦那様に声をかける。
屋敷の天井ではないということは、ここは私が訪れた教会の一室なのだろう。部屋には見慣れないものばかりが並んでいる。
「帰るって……、大丈夫なのか?」
「えっ、そんなに私の状態、酷いんですか?」
ぱちくり、と旦那様が目を瞬かせて意外そうに聞いた。
屋敷に帰ることが不思議、みたいな言い方に驚いて、ついつい言葉を崩して質問を重ねてしまう。
だから私、悪魔とか憑かれていないんですけど。……たぶん。きっと。
「いや、酷いというか、その……」
「あの、きちんと言って下さらなければ分かりま――」
と、旦那様はまた黙り込んでしまう。歯切れの悪い返しにムッときて、きつい口調で言いかけたところでノックの音が響いた。
これ幸い、と言わんばかりに旦那様が扉の向こうの誰かに返事をする。
「ご気分はいかがですか?」
と、鬱金の髪の若い男が入ってきた。ぎくり、と身体が強張る。
いいや、ここで負けるなリリアーヌ。さっきは相手のペースに乗せられたけど、今度はそう簡単にいくと思うなよ!
「先ほどよりかは、良くなりました。私、お屋敷に帰りたいのですけれど、もちろん帰ってよいのですよね?」
竦む身体を奮い立たせ、強めの口調で言ってやった。けれど私ひとりの身では負けそうだったので、旦那様の身体という盾を利用する。
教皇様は少し驚いたような顔をして、一瞬だけ眉をひそめ、その後思案するように目を伏せてから微笑んだ。
「貴女がそう言うのであれば本人の意思に任せます。しかし何か困ったことがあれば、いち早く私に頼ってくださいね? いつでもお待ちしていますから」
誰が頼るか、あんたは信用ならん、と全力で吐き捨ててやりたいが、また面倒なことになりそうなのでやめた。台詞が一々怪しいのなんの。
馬車を用意しますね、と教皇様は言い残して部屋を出て行った。取り残された私たちは時間巻き戻ったかのように沈黙する。
「あの、アイリーンは」
「彼女は先に屋敷に戻ってもらった」
先ほど言いかけた言葉は出てこなかった。代わりに一緒にいたはずのアイリーンがいないことを話題に出す。が、一瞬で終わってしまった。
ええと、あとは、と寝起きで上手く回らない頭をフル回転させて話題を絞り出す。
しかも旦那様の表情がいつの間にかもっと険しいものに変わっていた。なんでだ、私が何をした。
と、ここで1番大事なことを思い出す。
「あの、お仕事……。忙しいのに、付き合わせてしまって申し訳ありません」
ここ最近でまた疲れた顔をして屋敷に戻ってきていることは知っている。だからこんなことに時間を取らせてしまうことが心苦しい。
ちなみにお出迎えもしたところでスルーされそうなので、朝の見送りと同様に柱の影に隠れながらこっそりと様子を見ている。
しかし出迎えは朝と違って旦那様との距離が近い。きっと彼にはバレているのだろうが、特に何も言われないので続けている。
「気にするな。お前は、謝ってばかりだな」
そう言った旦那様の口元に、目を疑った。苦いものが混ざっていても、彼の唇は確かに微笑んでいたのだ。
弾かれたように視線をもう少しだけ上げる。瞳も優しげに細められていた。眉間のシワだって心なしか和らいでいる。
こ、れは、と心臓が跳ね上がった。
「馬車の支度が整ったようだな、帰るぞ」
暴れ回る胸の奥をよそにして旦那様はサクサクと帰り支度を終え、何やら手続きをしてから教会を辞して馬車に乗り込む。
チラリと見上げた彼の顔は、もういつも通りの怖い顔。そう、眉間のシワが深くて、傷痕があって、眼光の鋭い怖い顔。
でも、でも。今はいくら見詰めたって、目が合ったって怖くない。むしろドキドキするくらいだ。
――ちょっと待った! いくらなんでも私ってばちょろすぎない!?




