122.兆し
レンジは相変わらず記憶は取り戻せないでいたが、ミリルと共に過ごす時間は、彼にとっては楽しい時間だった。
だが、刻一刻と迫る満月の夜に何も感じないわけではない。
今はミリルと二人で、今にも動き出しそうな石像を見ながら海岸を歩いていた。
一時間もあれば一周することができるほど、島の規模は非常に小さい。
ここまでとはいかないが、以前にも自分は小さな島にいたような気がしてならない。
だからこそ足に絡む砂も、大海が見えるこの景色も、妙に落ち着くのだろう。
砂から緑の短い草が生えつつある場所に到着すると、ミリルはそこにある今にも動き出しそうな石像に触れて、そして呟いた。
「……お姉ちゃんなの。」
弱々しくレンジにそう告げた彼女の表情は、今にもほろほろと崩れてしまいそうなほど、切ない。
ミリルが姉だと示す石像も、彼女と同様に美しかった。
「今日はきっと満月だわ。
ボローニャはきっと来る……。」
たとえ記憶を失っていても、少年の真っ直ぐで前向きな性格は変わっていなかった。
「大丈夫、俺が絶対みんなを助けてやるから───。」
レンジは、遠巻きにハープとロイドの後姿を確認した。
ミリルも、彼が微動だにせずじっと見据える方向に目をやった。
するとそこには、昨日見かけたレンジの仲間であろう、二人の人間の姿があった。
「危ない!」
柔らかい海岸の砂に足を取られてよろけたハープを、隣にいるロイドが咄嗟に支えた。
「あ、ありがと……。」
黒髪の少女の両肩に添えられた男の手が目に入った瞬間、レンジは無性に腹が立った。
全身が熱くなり、ムカムカしてならなかった。
「レンジっ!?」
レンジはミリルの呼ぶ声を無視して、無意識のうちに二人のいるところまで駆け寄り、ハープの手を握った。
「きゃっ!」
ハープはいきなり繋がれた手に、声を上げて驚いた。
ばっと振り向くと、そこには息を切らしたレンジの姿があった。
名前も分からない少女が驚いているその表情に、自分が咄嗟に何をしたのかを思い出す。
「あっ、ご、ごめん!」
そして、ハープの手はロイドに、レンジの手はミリルによって離された。
「……ハープに触れるな。」
ロイドは低い声でレンジに注意し、ハープを連れてその場を去った。
その迫力に、少年は思わずたじろぐしかなかった。
だが、あの黒髪の少女に青年が触れた時、無意識のうちに強烈な熱い感情が湧き出た。
青年が少女に触れる姿を見るのが、嫌で嫌でたまらなかった。
自分の手を見つめているレンジの傍らで、ミリルは彼を悲しそうな表情で眺めていた。
レンジはきっと、身体が咄嗟に反応してしまうほどにあの少女を想っていたのだろう。
ミリルは、彼があの少女に触れるのを嫌だと感じる前に、そう確信した。
自分がレンジに恋焦がれているように、彼もきっと、あの少女を強く思い続けていたのだろう。
だからこそ、レンジが何故無意識のうちにあのような行動をとったのかが理解できる。
記憶なんて戻らなくていい、ずっと傍にいてほしい。
ミリルは切にそう願った時、自分の独占欲がいかに醜いものかという事に気付く。
ごめんね、レンジ。
あたしは、嫌な女だね。
ミリルはレンジの横顔を見ながら、自分自身を責めた。
「……満月だ。」
日が落ちて、辺りは薄暗くなった。
そして満月が夜空に浮かび、大地を照らす時、海から一人の女性がセイレーン島に上がってきた。
出会った時のミリルと同じように、下半身が鱗で覆われており、大きな尾ひれがついている。
確かに彼女も人魚なのだが、美しいとは思えない容姿だった。
長い前髪で顔の左半分が隠れている。
燃えるような赤い髪は、ミリルのストレートな髪質とは異なり、きつくウエーブがかかっている。
レンジとミリルは、岩陰からその人魚の様子を見ていた。
「あれが……あれがボローニャよ。
あたしのお姉ちゃんと、仲間たちを石に変えた張本人……!」
ミリルはひどく怯えているが、ボローニャを捉える眼差しには強い恨みが込められているのが分かった。
そして海岸にある人魚に触れた時、レンジとミリルは岩陰から飛び出した。
「石像に触るな!!
みんなを元に戻しやがれ!!」
ボローニャは石像の頬を撫でる様に触っていた。
その姿はゾッする程、不気味なものであった。
そして、彼女は弧を描くように首をこちらに向けると、ゆっくりとこちらに向かって歩き出した。
「……どうしてかしら。
どうしてこいつらと同じ人魚に生まれたのに、私はこんなに醜いの?」
「うっ!」
彼女が髪をかき上げると、レンジとミリルは思わず目をそらした。
そこには無数の疣があり、左目玉があるはずの位置には窪みが出来ていた。
肌はひどく膿んでいるのか、ビチッ、プチッ、と黄白色の液体が時折飛び出ている。
「……やっぱりあんたらも目を逸らしたね。
ふ、ふふっ、まあいいわ。
美しい人魚と共に、私のコレクションに加えてやるよ!」
「そうはいくかよ!」
レンジは炎の拳で、ボローニャの腹部に攻撃を仕掛けた。
だが、レンジの攻撃はボローニャにはさほど効いていないのだろう。
彼女はにやっと口角を上げると、レンジの手を掴み、長く赤い爪をくい込ませた。
「痛ぇ!!」
レンジが声を上げた瞬間、ボローニャは彼を片手で軽々と持ち上げ、砂浜に思いっきり叩きつけた。
そしてレンジの上に馬乗りになり、不気味な笑みを浮かべながら目玉をくり抜く真似をする。
「まずはお前の目玉をいただこうかね。」
あまりにもグロテスクな顔面が目の前にあることで、レンジは顔をしかめる。
そして、ボローニャが獲物の頬に指を滑らせたとき、背中に熱と衝撃が二回に分けて迸る。
その直後、髪のタンパク質が焦げる臭いが二人の鼻につく。
ボローニャが顔を上げてギロリと辺りを見回すと、そこには黒髪の人間が二人立っていた。




