10.涙の旅立ち
シアードが家の扉に手をかけたとき、会話が聞こえた。
入りにくい雰囲気を察した彼は、窓の斜め下に座って女同士の会話に耳を澄ました。
「私は子供に恵まれなかったから、あんたたちを本当の子どものように想っているよ。」
「オリバおばさん……。」
「けど、やっぱりいつかはこんな日がくるんだねぇ。
男の子だもんね。
あの子、好きな子でもできたんだろうねぇ。
甘ったれのワガママで、一番人を困らせてきたくせに、いっちょ前に旅に出るなんて言い出してさ。」
目を閉じてしみじみと語るオリバの表情に、普段は見られない優しい笑みが浮かぶ。
きっと、三人の成長を思い出しているのだろう。
「こんな話、あんたにしか出来ないよ。
あたしゃ、娘がいて息子がいて、本当に幸せモンだよ。」
「おばさん……。」
セレスは、丸みを帯びたオリバの両手を握る。
「あのねぇセレス、お願いがあるんだけどさ。」
握った両手に、きゅっ、と力が入る。
もう言わなくてもいいよ、と伝えるかのように。
「うん、分かってるよ。
心配なんだよねレンジの事。
私も、シアードだってきっといいって言ってくれるよ。」
「そうかい、ありがとう。
あの子はね、あたしがいなくてもいいけど、あんたら二人が傍にいてやらなきゃダメなんだよ。」
自分のいないところで、話が進んでいたことに対しての怒りは全くなかった。
オリバから頼まれなくても、セレスが止めたとしても、まだ未熟なレンジについていこうと、心に決めていたからだ。
自分を兄のように慕ってくれている弟分は、島を出ることをきっと心細く思っているだろう。
それをシアードは十分に分かっていた。
「……地図、あったっけ。」
上を向いて、煙草の白い煙を吹き上げる。
それから船が港に着く日が訪れた。
この三日間、オリバとは会話らしい会話など無いに等しかった。
ハープから預かった琥珀のネックレスを着用し、旅支度を整えた金髪の少年は、深呼吸をして重い口を開く。
「おばさん、シアードとセレスは?」
「用事を頼んだんだ。
ここにはいないよ。」
「そっか……。」
レンジは心の中でがっくりと肩を落とす。
本当はとても心細かった。
一緒に時を歩んできた兄弟分にしばらく会えないだろうから、一言だけでも話したかった。
声が聞きたかった。
だが、待っていては船出の時間に間に合わなくなる。
彼らならきっと、解ってくれるだろう。
少年は別れを告げることを諦めた。
「おばさん、行ってくるよ。
それと……今までいっぱい迷惑かけてごめんな。」
「いってらっしゃ……い。」
次々に込み上げる思い出が、とっくにオリバの平常心を奪っていた。
声だけは、かろうじて平常心を保つことが出来た。
玄関のドアが、別れを惜しむかのようにゆっくり閉まる。
カチャリ、という音が聴こえた瞬間、スイッチが入ったように目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
彼女のその姿を目撃したのは、窓辺にいたつがいの小鳥たちだけだった。
「おばさん、そっけなかったな。
まだ怒ってんのかよ……。」
足早に森を抜け、ポートベリーに着く。
そこには、三日前に見た同じ船が泊まっていた。
そのためなのか、前ほど鮮明な印象はなかった。
それよりも胸に広がる不安と孤独が、船に乗りこむレンジの脚を渋らせる。
「ちょっと、早く乗りなさいよ。
後ろつっかえてるんだからねっ。」
後ろから弾むような聞き覚えのある声が聞こえた。
人の気も知らないで、と振り返ると、そこには心から求めてやまなかった二人の姿があった。
いつもとは違う背格好で、荷物も少し多い。
「あれ!?
二人とも何でいるんだよ!」
「オリバおばさんに頼まれたの。
あんたが心配だから、一緒に行ってあげてって!
私たち、実は密かに楽しみにしてたんだよね。」
にっ、と笑うセレスの隣に、少しだけ口角が上がったシアードの笑みも見えた。
シアードは、使い古したバスケットを少年に差し出した。
「ほら。」
「これは?」
「お前の好物だろ。」
嗅覚を研ぎ澄ますと、バスケットの包みの下から漏れる匂いに唾液腺が刺激される。
ベアの肉を挟んだサンドイッチだ。
ベアの肉は一旦干して臭みを取り、再度熱湯で戻して初めて調理が出来るようになるという非常に手間のかかる食材である。
それをまた長時間甘く煮て、マーマレードが隠し味の決め手となるベアの肉が挟んであるサンドイッチが、少年は何よりも好きだったのだ。
「おばさんがね、いつでも帰っておいでって。
それと、無茶だけはするなってさ。
おばさんがこんなこと、レンジに直接言うワケないじゃん?」
セレスが優しくレンジに告げる。
長く母の代わりをしてくれた叔母の言葉に、熱い想いが込み上げてくる。
「俺、あっちで食べてくるからお前ら来んなよ!?
絶対来んなよな!」
レンジはバスケットを抱えたまま、顔を伏せて船の先端を目指し駆け抜けた。
「坊主、危ねぇぞーっ。」
大柄な船乗りの忠告を脇に、レンジはどかっ、と船首に座り、ベアのサンドイッチを勢いよく頬張る。
口いっぱいに広がるオリバの───母の味を、思い出と共に噛みしめる。
少年の右頬を一筋の涙が伝う。
それにつられて、左頬も濡れていく。
少年は、止め処なくあふれる涙を乱暴に拭う。
そんな未熟な少年の後ろ姿を、シアードとセレスは遠くからそっと見守っていた。




