1-8
怒声、叫声、轟音。人の波が成す氾濫は、反乱の意思を持って、多大なる崩壊を起こしていった。虐げられてきた人々の感情は決壊し、止まることも知らず敵対者を巻き込んでいく。
敵意を向けられた男たちは、今までこの場所で湖のように存在し、旅人や道行く人々を引き込んでいった。それが今、大きな海に飲まれようとしているところだった。また、その渦の中心にいるのは、皮肉にも両者を裏切った人間だった。
「え? ディルが、この騒ぎを起こしたの?」
「そうだ。あいつが俺に、反乱を起こさないかと持ち掛けてきたんだ。俺はその意志を広めてきた。その後は、元気な奴らで計画を立てて、結果は見ての通りだ」
暗い底から脱出できたのは良かった。アヴァは心からそう思う。ただ、それが今、光ある地上に出てきたというのに、見渡す限り広がるのは、多くの血が流れ、傷がつく惨劇だ。被害に遭っている者が因果応報だとはいえ、見ていて心が晴れるようなものではなかった。
「お兄様、わたし、会いたい人がいるの」
不安に駆られ、アヴァは意を決した。エフィーに会いたい。ここから出たら、離れ離れになるのかもしれない。その前に、会っておきたい。
「それは、誰だ?」
「エフィーって名前なの。赤毛で、お兄様よりちょっと年上の女の子」
「そうか。あいつに会いたいのか」
「知っているの!?」
ブラムには心当たりがあるようだった。アヴァは彼に飛びついて、上目遣いを向ける。
「ああ。だが、この争いの中に入っていくのは無謀でしかない。状況が落ち着いてからの方がいい」
「それじゃ、遅いかもしれない。危険なのはわたしたちだけじゃないもの。エフィーだって、危険のすぐ近くにいるかもしれないのよ?」
「それは、否定できない。だけどな、俺だってアヴァを危険な目には遭わせたくないんだ。わかってくれ」
たった一人残された、家族なんだぞ。アヴァを直視できないままに、ブラムは言い聞かせる。
アヴァは言い返すことができなかった。頭の中では、言いたいことがいくらでも思い浮かぶのだ。エフィーだって、わたしの姉妹みたいなものだとか、わたしたちだけ安全なところにいることが間違っているだとか。しかし、口に出そうとすれば、それらは全てなにかに止められてしまう。
「せめて、ここで終わりを見届けよう。この男の最後も」
ブラムは、リーダーの男に目をやる。両手で頭を抱え、首を前に倒している。気力の欠片さえ見てとることができなかった。
「ねえ、あなたは、どうしてこんなことをしていたの? なにを苦しんでいるの? 悪いことをしたら返ってくるのもおかしくないでしょ? そんなの、わたしでもわかるよ」
待つとしても、惨劇を目にしたくはないからか、アヴァは危険がないと判断して、男に話し掛ける。顔を挙げることは無かったが、彼はどうでもよさげに話し出した。
「最初は母親のためだった」
「あなたの、お母様ということ?」
「そうだ。俺は母さんと二人で暮らしていた。あの国のスラムで、金がなくても不幸と感じることはなかった」
彼自身、話を誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。リーダーであるがために、弱音など誰にも吐かなかったのだから。いつでも強くある存在でなければ、彼はその立場にいられなかったはずだ。
「だが、金が必要になった。母さんが病気になったんだ。薬は高かった。俺みたいなやつじゃ、まともに働いても稼げないほどだ。だから、盗もうとした。それしかないと思った。そして、失敗した」
アヴァには、なにも言うことができなかった。意味のわからない言葉があったというのもあるが、光景を想像できなかったからだ。見たことのないものを、想像する力がまだ足りなかった。
しかし、話は通じる。具体的に、彼がどんな場所で、どんな生活をし、どんな感情を抱いたか。それらは想像できなくとも、なにが起こっているかだけはわかる。
「警戒されて、国にいられなくなった。金が必要だ。俺は母さんを連れて、ここを見つけた。根城にした。旅人や通行人を襲った。奪って殺そうとした。命乞いをされた。だから殺さなかった。従わせた。そして、言うことを聞くやつらが増えていった」
そこまで言って、男は勢いよく顔を上げた。アヴァともエフィーとも変わらない、同じ色、同じ温度の涙を流している。
ブラムは嫌悪を、アヴァは同情を覚えた。
「それが、ここまでなった! 誰が提案したのかも忘れたが、母さんを救うためだけに、こんなにも多くの人間が犠牲になった! なのに、なのにっ!」
その言い方で、ブラムは気づいたようだった。
「まさか、亡くなったのか」
息を詰まらせたように、男の呼気が消える。外の喧騒も今だけは聞こえず、僅かばかりの静寂が訪れた。次に男が話し出すと、崩壊の足音は徐々に近づいてくるように感じられた。
「そうだ。母さんが死んだ。一体、なんだったんだ? 俺は、なにをしてきた。なにをさせてきた。なんの意味があった? もう、考えたくもない。なにもしたくないんだよ。このまま殺されるのなら、それが一番いい」
生きることを諦めていた、地下の女性たちとは違う。彼女らは、悲惨な日々を繰り返すうちに、精神がやすりに掛けられるようにして削られていった。そして、生気を無くしてしまったのだ。器がないのだから、渇望することさえない。
それが、この男の場合は一度で失われた。器をそのまま盗まれてしまったのだ。母親のために生き、全ての活動を行ってきた。それ以外のことは、彼にとってどうでもいいことだ。考える必要のないことだったのだ。
「こんなやつに、俺たちは」
男は上げた顔を、再び落としていた。話すだけ話したら、もうそれで良かったのだろう。あるいは、それこそ彼が生きるための、最後の理由となっていたのかもしれない。彼という人物を、誰かの記憶に留める。そうすることで、意味を持たないと感じてしまった彼自身の人生も、なにかを残すことができるのではないかとかんがえたのかもしれない。
しかし、ブラムには恨みと怒りしか湧くことがなかった。不幸は理解できても、悪になり他人を巻き込んでまで幸福を得ようとする考えが、彼の正義には受け入れられなかった。抱いたのは、潔癖的な嫌悪に近い。
もしも男が、正真正銘の悪であったなら、ブラムは男の話が終わるのも待たずに切り捨てたことだろう。それをしなかった理由は、アヴァの存在だけではなく、つまり明確な悪だとは判断できなかったということだ。
「ねえ、お兄様。もしかしたら、わたしの力を使えば」
「お前、こんなやつの母親を助けようっていうのか?」
ブラムには理解できなかった。理解できるはずがなかった。彼は、ここでの生活を、環境への復讐心と、家族を守るという意志で乗り切ってきたのだ。周りのことなど構う余裕もない。この場に唯一の肉親がいるから、激情を振り撒かずにいられるものの、男の話を聞いて救いたいと思うことはあり得なかった。
「この人は悪い人だけど、お母様のためだもの。わたしだって、お母様、友達のためなら頑張れる。この人は、それがたまたま、悪いことしかなかったってことじゃないかしら」
アヴァは、エフィーと別れた日のことを思い出していた。エフィーのことを悪く言った女性を、きっと酷い目に遭わせようとしていた。それが、悪いことだとわかっていてもだ。だからこそ、男にも共感できてしまった。
「だからって、この男は俺たちの幸せを奪ったんだぞ!? こいつらは何もしてくれなかった。むしろ、与えるどころか奪っていったんだ! なのに、どうして救えって言うんだ。救う必要があるのか?」
アヴァには、兄を説得できる言葉が思いつかなかった。もしかしたら、自分が包丁を持って他人を傷つけようとした話をすれば、抱いている感情を理解してくれるかもしれない。そう考えつつも、それはできなかった。
言えば、嫌われてしまうかもしれない。その思いが、頭を過ぎったからだ。兄のみを残した心の幼き少女に、その考えを無視しろというのは酷だ。
そうなると、残された道は、一つしかなかった。
「ねえ、あなたのお母様はどこにいるの? もう、埋めてしまったの?」
「おい、アヴァ。やめろって」
「わたし、止められたってやめないからね」
肩に手を置いてブラムに対して、アヴァはキッと睨んだ。正確には睨んだつもりだ。ブラムはその目を恐れはしなかったし、仕方ないなと諦めるようだった。
「母さんは、隣の部屋で寝ている。墓を作る気も起きなかった。俺は、本当に情けない」
場所を知るなり、アヴァは兄を振り切って駆け出した。ブラムも、止めようとはしなかったが、その後についていく。
二人が入った部屋は、簡素なベッドがいくつかあるだけで索漠としていた。小さな窓はあったが、そこから射す光は部屋を満たすほどでもなく、地下ほどではないにせよ気が滅入りそうだった。
人の姿があるベットは一つだけだ。アヴァが近づいていくと、安らかな表情をした女性が眠っている。
ここで、ブラムの中で疑問が浮かんだ。果たして、これからする行いは正しいのだろうかと。
たとえば、晴らせなかった後悔や、死んでも死に切れない、そうした思いをした人間であれば、再び生を与えその願いを叶えさせる。そういったことなら、それは正しいことで、なんの疑いも覚えなかっただろう。
しかし、病に苦しんだ末、ようやく穏やかな眠りを得た彼女は、再度の生を望むのだろうか。それが、彼の中で引っかかっていた。望まぬ生を与えるのは、それこそ終わってしまった死への冒瀆的な態度を表すことになるようで、墓荒らし同然のことなのではないかとまで考え始めていた。
「じゃあ、やってみるね」
「ちょっと待て。そんな、手紙で知ったばかりだろ? わかるのか?」
アヴァはちょっと困惑したような顔をしたが、どうやらポケットに潜んでいたらしいフィンが、怒っているように一泣きし、彼女の肩に乗る。
「フィン! ごめんなさい、さっきまで忘れていたわ。良かった、ちゃんといて。次からは、絶対に忘れないから」
「ネズミか。そういえば、昨夜は苦しんでいたよな」
「この子、実は生き返らせたの。たぶんだけど、これがそうなんじゃないかって」
ブラムとしては、この会話は自身の中で生じた疑問を解くための、時間稼ぎのつもりだった。ただ、蘇生の方法を彼女が知っているかというのは、気になってもいた。
「それは、どうやってやるんだ?」
「説明はできないわ。でも、なんとなくわかるの」
彼女は両手を、女性の胸元に当てる。フィンの時のような、言葉のない指示はもうなかった。しかし、今回は、体に刻み込まれたように、自然と行えるようになっていた。
瞳が鈍く赤い光を放つ。側から見ていたブラムは、村が襲撃されたあの日、父に手を当てていた母を想起する。そこで、あれがその力だったのだと得心した。
母の力は受け継がれている。しかし、その得体の知れない光に、軽い恐怖を覚える。赤。もはや見慣れた、血液と同じ色。この力は、一体どこから来ているのか。なんの見返りもなしに、人を蘇らせるほどの力が与えられるものなのか?
母は不幸の力だと綴っていた。使わせるべきではない。しかし、どう止めればいいのかもわからない。言い聞かせても無駄だろう。……腕を、切るか?
慌てて彼は首を振り、自嘲する。人を蘇らせる力や得体の知れぬ赤い光よりも、自分の考えの方がよほど恐ろしいじゃないか。
変なことは、考えないことにした。これから、力を使わせないように気をつければいい。それだけだ。あとの不安は、この女性が蘇ったとき、一体どうなるのか。
ブラムが女性を注視していると、目の端で光が止んだ。つまり、力の使用が終わったということだ。
「終わったのか?」
確認をしてみるが、返答は結果で返されることになった。
「わたしは、いったい?」
女性が目を覚ます。眩しそうに、何度か瞬きを繰り返した。
「あの、立てますか? 痛みはありませんか?」
「痛み? そういえば、前よりも苦しくないね。これなら、立つこともできるよ」
女性はベッドから足を下ろし、行き場のない手はアヴァが受け取った。力を入れて立ち上がろうとすると、少々フラついたものの、彼女は立ち上がった。
「は、はは。立てたよ。でも、なんだか凄く頼りないね」
長年の寝たきりで、彼女の体はかなりの筋力を失っていた。それに加え、病のせいで食も細く、身体が瘦せぎすだというのもある。
「アヴァ、俺が背負う。あいつのところへ連れて行けばいいんだろ?」
「え? う、うん」
アヴァは協力的になった兄に驚いたが、彼が背負うためにしゃがみ込むと、女性を誘導した。
「ねえ、こっちを見て」
部屋を出るなり、アヴァが男に向けてお願いをする。彼は怠そうに首を巡らし、そして目を見開いた。
「かあ、さん? なん、で?」
男が立ち上がる。一歩ずつ、足取りを確かめるようにして、アヴァ達の方へ近づく。
「本物、なんだよな? 夢じゃない、よな?」
「あんたは、なにを言ってるんだい。夢じゃない、現実さ」
声が届くと、男は止まった涙を再び流し始めた。代わりに不安定な足取りを止め、その場で目を擦る。
「なにがなんだかわからないけど、良かった。本当に、よーー」
最後を聞き取ることは。誰にもできなかった。
彼の頭を、確実な致死が抉っていたからだ。
「いやああああああああああ!!」
色めき騒めき出した多くの声。それらの声に紛れ囚われた、母親の悲痛な声が響いた。