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これまでは文章量を目安にして金曜日に更新していましたが、今後は展開によってわけていきます。
今週は、水曜日と金曜日の二回更新になります。
アヴァ達家族がここに連れてこられて、長い時間が経過した。アヴァにはどれぐらいの月日、あるいは年月を過ごしたのかはわかっていなかった。
エフィーと別れたあの日から、アヴァが彼女と会うことは二度となく、孤独の日々を過ごしていた。今では代わりに、夜にふらりと訪れるネズミが、彼女の寂しさを紛らわせている。
アヴァがフィンと名付けたその友達は、夜毎に彼女と一緒に食事をしては、お礼を言うように一鳴きして去っていったり、アヴァがなにかを話したいときは、その場にいて聞いてくれた。相槌のように鳴き声を挟むこともある。
しかし、その友達が、今は眼下で苦しんでいる。2日前から、姿が見えなくアヴァは心配していた。それが今夜は、彼女が来るよりも早くこの部屋にいた。だが、様子が正常ではない。腹を横にして倒れ込み、震えも窺える。アヴァにはその症状に対する知識がなく、生まれて初めて感じるもどかしさで、意味もなく首を左右に振るしかなかった。
「アヴァ、なのか?」
そんなアヴァの耳に、懐かしい声が聞こえた。覚えているものよりは低くなっていたが、紛れもなかった。
「おにい、さま?」
振り返ると、一回り大きくなった兄の姿があった。腰に剣を帯び、鎧と呼んでいいのかわからないような、簡単な軽鎧を身につけている。彼は、アヴァが一目見てブラムとわかる面影は残していたが、表情だけはどこか恐ろしく感じた。
「やっぱりアヴァなんだな。良かった、無事だったか」
張り詰めた顔が、少し緩んだような気はしたが、まだ得体の知れない怖さは拭い切れなかった。
「お兄様も無事だったのね。良かった……」
しばらく振りの再会に心は安らいだが、すぐにそれどころではないと思い返す。
「そうだ! お兄様、この子が苦しんでいるみたいなの。どうにか助けられないかしら?」
「この子? ああ、ネズミか。そんなの、放っておけばいい。それよりも、伝えなきゃいけないことがある」
「だめ、わたしの大切な友達なの! こっちが先よ」
「友達か。……わかった。見せてくれ」
ブラムは焦りのために、軽く苛立ちを覚えたが、渋々といった様子でそう答えた。
兄が受け入れてくれたことを確認したため、アヴァは両手でネズミを掬い、ブラムの元へ差し出す。彼は一瞥して答えた。
「病気だろうな。毛並みが若いから、寿命ではないと思う」
「どうにかできないかしら? 薬を手に入れることは?」
「はっ。奴隷の薬さえ渋る連中だ。期待するだけ無駄だよ」
嘲笑するかのような笑いは、アヴァに向けられたものではなく、男たちに向けてのものだった。彼の目の前で見捨てられ、失われた命たち。それを思えば、ネズミ一匹を救うことなど考えられなかった。
それに、彼には急いで知らせたいことがあった。きっと、これを聞けばアヴァも喜ぶだろうと、そう信じていたのだ。
「そんな……。それじゃ、この子は」
アヴァにとって、唯一無二の友人。一度、エフィーを失ったからこそ、二度目の別れを迎えたくなかった。しかし、その思いの丈が、兄に伝わることはない。
「そんなことより、アヴァ、聞いてくれ。俺たちがここを抜け出せるチャンスなんだ!」
「そんなことじゃない!」
思わず叫んだあとに、恐る恐るブラムの顔を見ると、怖かったはずの表情に傷が入っていた。アヴァの心が痛んだ。だが、彼女の考えを、容易く譲ることはできなかった。
「……ごめんなさい。それは、とっても嬉しいけど、わたしはこの子のことも大事なの」
「俺も悪かった。ごめんな。……翌朝、迎えに来るよ。冷たいと思われるかもしれないけど、ネズミのことはなにもできない。……おやすみ」
一瞬の躊躇ののち、振り切るように顔を横に向けると、ブラムは去っていった。アヴァは、両手の上に乗せたネズミを胸元に寄せしゃがみこむ。喜ぶべきなのに、喜びたいのに、素直に喜べないことが悲しかった。兄と久しぶりに会えたのに、ここから脱出できるかもしれないのに、目の前には病に苦しむ友達がいて、助けることができない。
しばらくの間、アヴァはフィンを抱いていた。微かに伝わる震えが、徐々に弱まっていくのを感じながら。疲れから来る微睡みが襲ってきても、眠ることはできなかった。
「フィン、大丈夫よね? あなたは、エフィーみたいにいなくならないよね?」
アヴァはここでの生活を続けるうちに、多くの死に触れてきた。エフィーと別れてからは、仲間の女性が動かなくなる場面を何度も見てきた。これまでは、エフィーがそういう場面を見せないようにしてきたのだ。
動かなくなった女性たちは、どこかへ運ばれていく。目は光を失っていて、手足もダランと力を失い、そこにその人はもういないのだと感じさせる。動物とは違う。最初から命がないまま与えられるものと、今までそこにあったものが、唐突に消えるのと、比べ物にならないくらいの生々しさがあった。
「エフィーがいつか帰ってきたら、あなたとも友達になって欲しいの。前はあなた、逃げちゃったでしょ? だから、お願い。どこにも行かないで」
アヴァはお願い、お願い、お願いと、呟き続けた。敬虔な祈りにも聞こえるその少女の呟きは、しかし如何な力も備えていなかった。やがて、彼女の手の中で、ネズミは静かに、安らかに、眠りに就いた。
「フィン? フィン!?」
震えが止まった小さき命は、どこか笑っているように見えたが、むしろアヴァは、そう見えてしまうのが悔しかった。
「ダメよ! 行かないで。もっと、長くわたしといたいでしょう? わたしは、もっとあなたと一緒にいたいの! いて欲しいの!」
叫んだ瞬間、彼女の潤んだ青い瞳が、鈍い赤の光を放った。頭の中から、指示が飛ぶ。それは言葉の形をしておらず、本能に近いものだった。
こう動けばいいのだと、自分自身に言い聞かせるように、体は自然な動作を進める。ネズミを床に置き、仰向けにさせると、彼女は両手を重ねてそこに合わせた。掌にじんわりと暖かいなにかが広がっていき、それがネズミに伝わる感覚があった。数秒ほど続くと光は止み、ネズミが目を開いた。
「フィン……そこにいるの?」
ネズミは目を見開かせていたが、キョロキョロと辺りを見回すと、鳴き声を上げてアヴァの膝に擦り寄ってきた。
「フィン……良かった。本当に。戻ってきてくれたのね!」
アヴァが両手で顔を覆うと、涙が伝って床に滴る。ネズミは困ったように右往左往しながら、鳴き声を上げ続けた。