プロローグ
*この作品には、物語の進行上、不快に思われたり特定の行為を窺わせる描写があります。
端的に述べると、人間の醜さや生々しさ、また、それに準じた描写があります。そういうものを望まない方や、物語を物語として読めない方には、この作品を推奨しません。
「オッド! 早く来てよ!」
「待ってよアヴァ」
金髪の少女のあとを、癖っ毛の強い少年が追いかけていた。2人は小鳥が囀る木々の間を器用に駆け抜ける。澄んだ川を飛び越え、彼女らが辿り着いたのは色とりどりの花が咲く広原だった。
「僕らはいつもここに来ているね」
「でも、わたしはこの景色も、晴れた空も好きよ。大人になっても、この景色がずっと続いたらいいな」
草原に寝転んだアヴァの蒼い双眸には、コバルトブルーの空が映り、瞳の中では蒼と青が混ざり合い不思議な色味を魅せていた。
「僕も、アヴァがいるなら、こんな場所でもつまらなくないよ」
上からその瞳を覗き込むように、オッドはアヴァを見下ろした。空は隠され、アヴァの瞳にはオッドの笑顔が映る。
「ありがとう、オッド。わたしも、オッドがいるから嬉しいわ。兄様は剣術の特訓をしていて、相手をしてくれないんだもの」
アヴァは父母と兄を持つ4人家族だ。アヴァは12歳で、兄とは3歳差である。
「まあ、村の人が少ないし、どこかでセンソウが始まるって聞いたよ。センソウには、たくさんの男が必要なんだってさ」
「オッドは剣術の練習をしなくていいの?」
「お前にはまだ早いって、父さんに言われたよ。僕も強くなりたいんだけどな」
「どうして強くなりたいの?」
オッドはモジモジとした様子で、顔を赤らめながら呟いた。
「アヴァを、守るため」
「あ、ありがとう!」
アヴァはオッドの様子も相まってか、なんだか恥ずかしくなり声を上ずらせた。彼女はまだ恋を知らず、オッドのことが好きなのかもわかっていなかった。
「そうだ! 今日はオッドのために、お花の指輪を作ってあげる! オッドも作ってね?」
「やっぱり、アヴァって女の子って感じだよね。お花遊びって、恥ずかしいんだけどなあ」
「じゃあ、作りたくない?」
「ううん、作るよ。アヴァのそういう女の子らしいとこが好きだから、守りたいんだ」
一度言ってしまったせいか、オッドは好意を口に出すことが、少しは恥ずかしくなくなったようだ。
しかし、アヴァは指輪に集中していて、心半ばに聞いていた。そうして、色を被らせず、複数の花を絡ませてカラフルな指輪を作りあげる。
「オッド、完成した?」
「一応ね」
アヴァが指輪を見せると、オッドも指輪を見せる。オッドの差し出した指輪は、コスモスのような花を基調にした桃色のものだった。
「はい、交換」
「ねえ、アヴァ。指輪の交換は、結婚するときにもするんだよ」
「今から交換するのは、お守りよ? ……でも、オッドはわたしのことが好き?」
「好きだよ。守りたいって言ってるじゃんか」
「だったら、結婚できる年になってもわたしのことを好きでいてくれたら、本物の指輪を交換しましょ?」
「うん。じゃあ、それまで待っててね。僕も待ってる」
「ええ。待ってるわ」
アヴァとオッドは指輪を交換し、互いの指にはめた。アヴァの目には、茎と茎の雑な結び目さえも可愛く見えた。
「そろそろ帰りましょうか。日が沈んでいくわ」
夕陽が草原を赤く塗りつぶしていく。アヴァは朝に食べた、ジャムの塗られたパンを思い出した。
「そうだね。夜になったら危ないし、母さんたちに心配されるしね」
2人は手を繋いで高原を走り、草原を抜けていった。風になびいた長草が、2人の手首を掴もうとするようにまとわりついたが、アヴァは全く意に介さない。
* * *
闇が空を覆い始めていた。村には家がいくつもあり、それらは木製のものや、加工した石でできている。家々の前には背の高い松明が置かれており、火が灯り始めていた。夕食の準備を始める家もあるようで、漂う匂いがアヴァの鼻孔をくすぐった。
「じゃあね、オッド。また明日!」
「うん。また明日」
二人は、アヴァの家の前で別れを交わす。アヴァは手を振りながら、走り去るオッドを見送り、その姿が視界から消えると家の中に入った。
「ただいま!」
「おかえり、アヴァ。もうすぐ2人も帰ってくるわね」
台所で鍋の中身をかき混ぜている母親の背中に、アヴァは声を掛ける。
「あのね、お母様。わたし、大きくなったらオッドと結婚するかもしれないの」
「あら、そうなの? それは楽しみね」
「楽しみなの? でも、わたし、まだオッドよりもお母様と一緒にいたいの」
「ありがとう、アヴァ。そうね、まだしばらくはお母様と一緒よ」
「良かった!」
母親に抱きついたアヴァは、まだ幼かった。恋を知らない彼女は、友愛と恋愛の違いもわかってはいない。それだけの経験をするほど、同年代の子供が多くないのだ。
「ほら、アヴァ。嬉しいけれど、それじゃ動けないわ。少し離れていてね」
「うん」
アヴァは丸椅子の上に座り、母親の様子を眺めてみる。アヴァと同じ金髪で、後髪は編んでおさげになっている。そのおさげが、動く度に揺れていて、アヴァはそれに合わせて首を振っていた。
「ただいま」
「ただいまー」
そうしていると、よく通る低い声と、疲れた若い声が聞こえてきた。アヴァが振り返ると、男性と少年が立っている。
「おかえりなさい。お父様、お兄様」
「2人ともおかえりなさい」
アヴァの父は白髪混じりの黒髪に長身、眼光は鋭い。肌にぴったりとした黒シャツの上には黒い外套を羽織っており、シャツ越しにも鍛えられた肉体がよくわかる。
一方で兄は、アヴァよりは高いものの、まだ身長は伸びきっておらず、光の強い目に茶混じりの黒髪を持っていた。白いワイシャツは前のボタンが開いており、ところどころ汗で濡れている。透けたシャツからは最近つき始めた腹筋が見え、朝には羽織っていたはずのコートが、今は腰に巻かれていた。
「お兄様、今日も勝てなかったの?」
「まだ全然だめだよ。剣術も習いたてだし、父さんは手加減してくれないしさ」
「私は、ブラムに早く強くなってもらいたいからな。手加減をするつもりはないぞ」
ブラムというのが、アヴァの兄の名前だった。ブラムを見下ろす父の瞳には、鋭さの中にも温かい柔らかさが見て取れた。
「家族を守るために必要だからでしょ。そりゃ、わかってるけどさ。だから俺も頑張れるし。でも、なにから守るのかなって。戦争は遠くの話なんだしさ」
「生きているうちに、なにが起きるのか予測することはできない。しかし、それに対処する力を身につけることはできる。だからこそ、今は力を身につけなさい」
「いまいち自覚が湧かないんだよね。まあ、いいよ。嫌いじゃないし。ああ、汗が気持ち悪いから、川で水を浴びてくるよ」
ブラムは再度、外に出て行く。ブラムは納得がいかないときに、頭を冷やしに近くの川へ向かう癖があった。家族は皆それを知っていたために、アヴァは風邪を引かないようにねと注意だけ送った。
「あと少しで料理ができるけど、ブラムは早く帰ってくるかしら」
「気にすることはない。剣術を教えていて気づくが、ブラムはかなりの速さで上達している。賢い子だよ」
「そう。きっと、あなたに似たのね」
「いや、クレシダ、君に違いないよ」
アヴァは笑い合う両親を見ていると、目の前が2人だけの世界という感じがして、なんとも言えない居たたまれなさを感じるのだった。しかし同時に、2人の間から窺える確かな繋がりに、憧れも抱いていた。
わたしにも、こんな風に心の底から信頼ができる人ができるのかしら。アヴァの頭をふと過るのは、オッドであったり、兄のブラムであったりするのだが、なんだか違うような気もするのであった。
彼女が閉じかけの瞼でぼんやり考えていると、突如として大きな音が静寂の世界を鋭く切り裂いた。カーンカーンカーンと、村に危機を知らせる警鐘の音だ。
「え? え? なに!?」
「落ち着きなさいアヴァ。さっきまでの静けさから、災害が起きたわけではないだろう。そうなると、敵襲か」
テキシュウ。アヴァは、これまでに聞いたことのない言葉に、恐ろしさと緊迫感を覚える。父親の鋭い眼光と、その中に見える淀んだ闇が、彼女をそうさせるのであった。
「私は行かなければいけない。ブラムが帰ってきて、もし私の元へ来ようとしたそのときは、必ず止めてくれ」
「ええ、わかったわ。絶対に死なないでね、あなた。もしものときはーー」
「心配することはない。盗賊が数人程度だろう。では、行ってくる」
アヴァは、漆黒を纏った父を見送った。闇に紛れて消えてしまう姿に、不吉さを感じながらも。
「母さん! なにがあったの!?」
それから間も無く、出て行くときよりも些か汚れた姿のブラムが現れた。ゼイゼイと大きな呼吸をしているところからも、全速力で帰ってきたことが推測できる。
「敵が来たのよ。あなたは家でおとなしくしていなさい」
「なに言ってんだよ! 俺は皆を守るために鍛えてきたんだろ? 俺も行く!」
「ブラム!」
クレシダは呼び止めようとするが、ブラムは走って行ってしまった。それを、アヴァも追う。
「アヴァ?」
「わたし、お兄様を止めに行くわ!」
「待ちなさい!」
ブラムを追ったアヴァ。そして、アヴァを追うクレシダ。彼女ら家族は、全員が戦場へと向かって行く。煌々と成長し続ける、村を食い尽くすような炎が遠くに見えていた。
3人の走るスピードには明確な違いがあった。しかし、やがてクレシダがアヴァに追いつき、そしてブラムにまで追いつく。だが、追いつかれたそのとき、ブラムはその場に止まっていた。ブラムの姿を捉えたアヴァは不思議に思ったが、その先にある光景を目にして理解した。
彼女らの目の前は主戦場だった。そこは、元は子供の遊び場にもなる広場であった。昼間はいつも、親同士が和気藹々と雑談をしているような場所だ。しかし、今は違う。血の滴る剣を持った野蛮な男たちや、火矢を構えた男が何人もいた。
血に塗れ倒れ伏している者もいれば、炎の舌に絡め取られ悲鳴をあげている者もいる。それらは確実に、幼いアヴァとブラムが見ても良い景色ではなかった。
二人にとってトラウマになりかねないその場面を、しかし瞼を閉じずに見ていられたのは、彼女らの父が戦っているからだ。
闇に紛れ、闇に乗じ、敵と思われる者たちが徐々に倒れ伏していく。他の村人も、中には鍬や包丁を持って立ち向かう者もいたが、リーチの違う剣に対しては腰が引けて戦力になっていなかった。平和慣れしていた村人なのだ、仕方がないことではある。
アヴァとブラムは呆然と立ち尽くしていたが、クレシダが動いた。アヴァを抱え、ブラムの腕を引っ張りその場から離れようとした。
アヴァは、抱えられながらも戦場から目を離せなかった。そして、ふと、敵の1人と目が合う。
あ、気づかれた。なんの感情もなく、ただそう思った。
途端に1人の男がアヴァ達の方へ走り始める。アヴァの父親もその視線の先に気づく。旋風をも巻き起こしそうな速度で駆け抜けると、即座に男の足を切り落とす。
「逃げろ!」
最も短いメッセージを、振り向いた彼が発した瞬間、彼の時間が止まった。遠くから放たれた矢が、胸を貫いていた。
「あなた!」
全力で逃走を図ろうとしたクレシダも、立ち止まってしまう。まだ死を理解できないアヴァは、不安そうでいながら不思議そうな表情を浮かべ、なにが起きているのかわかってしまったブラムは、絶望の表情を浮かべた。
クレシダは膝を折り、倒れかかる夫を抱えた。そして、素早く矢を引き抜く。
「ごめんなさい。でも、許して!」
クレシダは彼の心臓に両手を当てる。ブラムが駆け寄ると、アヴァもよくわからないまま釣られて駆け寄った。そこで母親の顔を見ると、青かったはずの両目は赤く染まり、そこからは涙が伝っている。
「お母様、なんか変だよ?」
アヴァは声を掛けるが、クレシダの反応はない。他の村人は、最大戦力を失ったことに気づいたのか士気を失い、光のない目でクレシダ達の方を眺めていた。
「アイツだ! アイツを殺せば賞金が手に入るぞ!」
「お、お母様?」
アヴァは屈強な男たちが、自分らの元へ向かってくるのに気付いた。そして、クレシダの顔と手の先を交互に見る。手と触れた部分が光っていた。
その光が、儚く淡く、消えていく。すると、代わりに父親の目が開き、勢いよく上半身を起き上がらせた。
「クレシダ……すまない。奴らの狙いは君だ。逃げてくれ」
「ごめんなさい。いつか、こうなるかもしれないと思っていたわ。でも、あなたは?」
「私も覚悟をしていた。だからこそ、ここは奴らの足止めをする。2人を連れて逃げるんだ。早く!」
クレシダは躊躇しかけたが、子どもらに目をやったのち頷くと、立ち上がり2人を連れて駆けた。アヴァもブラムも目前の状況に理解が追いつかず、されるがままになっていた。
やがて、家の中に戻るとクレシダは、アヴァとブラムに布製の鞄を渡した。
「2人とも、大事なものはこの中に入れなさい。もう、私たちはこの村にいられないわ。外に逃げるわよ」
「どうして? お父様なら、あの人たちを全員倒してくれるよ」
「難しいわ。どれだけ強くても、数はそれを上回るの。アヴァ、わかってちょうだい。私たちが生きていくには、もう逃げるしかないの」
「でも、オッドや他の皆は? 私たちだけ逃げてもいいの?」
「ええ。2人とも、ごめんなさいね。……狙われているのは私なの。だから、私たちが外へ行けば、あの人たちも外へ追ってくるでしょう。だから、お願い!」
それ以上、アヴァはなにも言えなかった。まだ訊きたいことはあったが、今までに母親から、これだけ強くお願いをされたことがなかったからだ。また、ここまで切羽詰まった様子の母を見ることもなかった。
知識も経験も乏しいアヴァは、なにが起きているのか、未だに理解しきれていない部分もあった。目まぐるしい状況の変遷に、頭がついていかない。
一方でブラムは、全ての思考を締め出して、流れに身を任せていた。もう、なにも見たくない、考えたくないと、最悪な状況に置かれていることだけは理解できていた。だからこそ彼は、いっそなにも理解できていないアヴァよりも、深刻なダメージを受けていた。
「アヴァのお母さん」
3人が荷物を詰め込み、クレシダが2人の手を取って家の外を出ようとしたとき、そこにはオッドがいた。
「さっき聞こえたんだ。この村にアイツらが来たのって、アヴァのお母さんのせいなのか?」
「……そうよ。ごめんなさい」
「なのに、逃げようとしてるの? 大人なら、セキニンってやつを取らないといけないんじゃないの?」
「そうね。だから、私たちは外へ行くわ。そうすれば、あの人たちもついてくるはずだから」
「でもさ、元々アヴァのお母さんがいなければ、こんなことにはなってなかったんだろ? 親父が、あんな風になることもなかったんだろ!?」
アヴァはオッドの手に目がいった。煤で真っ黒になっている。さっきあげたばかりの指輪も、ところどころ燃えた跡や煤で黒く染まっている。
「そうだったの……。本当に、ごめんなさい。私には、謝ることしかできないわ。だから、通して」
クレシダは声を頑なにして、扉の方へと向かう。彼女とて必死だった。夫が命を賭して開いてくれた道を渡り切るために、子供らを守るために。
しかし、外へ出ると、その道を遮るようにして、何人かの村人が立っていた。そして、責めるような目で睨めつけてきている。
「俺は見たぞ。心臓を矢が貫いて殺されていたのに、お前が手をやったら復活したんだ。化け物に違いない!」
「アイツらは化け物を殺しに来たんだろ? 俺たちは巻き込まれたんだよ!」
村人の男たちが、口々に言う。得体の知れない恐怖に駆られ、脅威に怖気付き、誰かに責任や非を押し付けようとするその行為は、仕方のないことであるのかもしれない。
誰もが必死で、なにかに縋りつこうとして、どうにかできないか、それも自らに及ぶ被害が最も少ない方法を探し求めていた。
「化け物! 早く出ていけ!」
そう叫んで、1人が石を拾い投げつけた。そして、それを皮切りにして、追随するように他の者も罵声を浴びせ、落ちているものを投げつける。
クレシダは危機を察知し、2人の子どもを連れて走り出す。子どもらも現状の危険度を本能的に感じ、走り出した。
元々、この村から出ていくつもりではあった。しかし、追い出されて出ていくのと、自ら出ていくのとでは、抱く感情が全く異なっていた。
「絶対に、許さない」
今までに聞いたことのない低い声に、獣のようなギラギラとした目。アヴァは、家族以外で最も信頼していた友達から向けられた憎しみの表情に、後戻りのできない恐ろしさを感じた。彼女は生まれて初めて、殺されるのではないかと、命の危機を覚えたのだった。
そして彼女らは父親を置いて、味方もあてもない、先の見えない旅に出ることになった。振り返ればそこには、黒煙を立ちのぼらせる、崩れた思い出が転がっているだけだった。
*ストックを作ったので、それがなくなるまでは毎週金曜日に更新する予定です。
物語として先が気になるという方は、どうか続けて読んでいただければと思います。