第12話「午前3時のルール」
私の一日は正確だった。
朝七時に目を覚まし、トーストを焼き、コーヒーを淹れる。豆はカルディで買ったグアテマラの中深煎り。最近、たまに二杯淹れるようになった。二杯目は一杯目ほどおいしくないけれど、飲みたい朝がある。そういう朝には二杯淹れる。特に理由はない。
八時十二分の電車に乗り、大学に行く。三年生になった。ゼミが始まった。十八世紀イギリスの社会構造を専門にしている教授のゼミで、学生は八人。火曜日の三限。ゼミのあとに教授が紅茶を淹れてくれることがあって、それが地味に楽しみだった。ダージリンのセカンドフラッシュ。渋みがあって、でもすっきりしている。
書店のバイトは火曜と土曜に減らした。金曜日はゼミの発表準備にあてている。その代わり、水曜日に大学の図書館で学部生のレポート相談のアルバイトを始めた。一年生が「参考文献の探し方がわからない」と言いに来る。教えるのは嫌いではなかった。人に説明することで、自分が何をわかっていて何をわかっていないかが見えてくる。
夕飯はだいたい自炊。最近レパートリーが少し増えた。麻婆豆腐を覚えた。豆板醤と甜麺醤を買い足して、花椒を最後に振る。山椒の痺れが唇に残る感覚が好きだった。それから、だし巻き卵を焼けるようになった。何度も失敗して、巻き方のコツを覚えた。弱火で、卵液を少しずつ流して、箸でなく菜箸の腹で手前に返す。きれいな楕円になると嬉しい。
食器を洗う。歯を磨く。髪を乾かす。日付が変わる前に電気を消す。
季節は秋になっていた。十月。
去年の十月は——何をしていただろう。カイとデートをしていた。渋谷で映画を観て、吉祥寺でカレーを食べて、金木犀の匂いのする中庭を歩いていた。
今年の十月は、金木犀の匂いがしたとき、立ち止まって深く吸い込んだ。そして数秒後にまた歩き出した。それだけだった。それだけで十分だった。
*
生活が安定している、とはこういうことだろう。
波がない。大きな喜びもなければ大きな悲しみもない。予測可能な日々が予測可能な速度で過ぎていく。テスト前は少し忙しくて、テストが終わると少し暇になる。季節が変わると服が変わる。気温が変わると夕飯のメニューが変わる。それだけの変化。
新しい出会いは、ない。
ないわけではない。ゼミには新しい人がいるし、図書館のバイトで顔を合わせる一年生たちもいる。美咲とは相変わらず月に二回くらいカフェに行く。
でも——あの種の出会いは、ない。
深夜三時のコンビニの前で、缶コーヒーを持ってしゃがんでいる人にはまだ会っていない。「お前もこっち側?」と聞いてくる人は現れていない。あの種の出会いは、あの種の時間の中にしか存在しない。そしてあの種の時間に、私はもういない。
カイのことは——海人のことは——ときどき思い出した。ときどき、というのは週に一回くらい。何かのきっかけで。コンビニの前を通ったとき。缶コーヒーの広告を見たとき。誰かがチャーハンの話をしたとき。
思い出すと、少しだけ胸の奥が温かくなった。痛みではなかった。もう痛みではなくなっていた。温かさ。お湯を注いだばかりの湯呑みの底のような、小さくて丸い温かさ。
連絡は取っていなかった。LINEのトーク画面はまだ残っている。ときどき、友だちリストの中にカイの名前を見つけることがある。アイコンは変わっていた。あの真昼の笑顔の写真ではなく、どこかの海の写真に。青い海。水平線。人は写っていない。
海。海人。
変えたのはいつだろう。確認はしなかった。
*
十月の第三週。木曜日。
特別なことは何もない一日だった。朝起きて、大学に行って、ゼミの資料を作って、図書館で一年生にデータベースの使い方を教えて、帰宅して、夕飯に鮭の塩焼きと豆腐の味噌汁を作って、食べて、食器を洗って、風呂に入って、髪を乾かした。
十一時にベッドに入った。
電気を消した。天井。国境線。
目を閉じた。
眠れなかった。
久しぶりだった。最近は布団に入ればすぐに眠れるようになっていた。体が疲れていて、頭が適度に使われていて、睡眠に必要な条件が揃っていた。
でも今夜は眠れなかった。理由はわからなかった。体は疲れている。カフェインも午後三時以降は摂っていない。部屋の温度はエアコンで調整してある。枕は——去年の春に買い替えたやつで、もう一年半使っている。何の問題もない。
問題はないのに。
あの最初の夜と同じだった。何も問題がないのに眠れない。
仰向けになった。横を向いた。反対側を向いた。また仰向けになった。
天井を見た。
国境線がそこにあった。一年以上前の七月の夜と同じ位置に。あの夜と同じように、暗闇に目が慣れるとくっきりと見えた。クロスの継ぎ目。こちら側と向こう側。
スマートフォンで時間を確認した。
午前二時五十分。
*
窓の外に目を向けた。
カーテンの隙間から、外の光が細い線になって差し込んでいた。街灯の光。白い光。去年まではオレンジ色だった街灯が、今年の夏に付近一帯がLEDに交換されて、白くなった。市の省エネ政策で。
白い光。
あの深夜三時の街灯はオレンジ色だった。ナトリウムランプの、温かくて単調な色。一本だけ青く光っていた夜があった。カイと二人で見上げた夜。「きれいだな」とカイが言った夜。
記憶が来た。
呼んでいないのに。ドアをノックしないで入ってくるように。
コンビニの蛍光灯。水槽のような白さ。アイスの棚の前で迷っている自分。ハーゲンダッツのストロベリーを手に取る手。百八十円。
ガードレールの冷たさ。アイスが舌の上で溶けていく音。世界が静かすぎること。怖いのではなく、きれいだったこと。
空の色が変わっていく時間。紺色から紫へ。紫から藍へ。藍から白へ。一秒ごとに違う空。同じ空は二度とない。画家が色を剥がしている。夜という塗料を、朝が一枚ずつ丁寧に。
公園の時計。秒針がゆっくりと動いていた。粘度の高い液体の中を泳ぐように。ストップウォッチで計った。四分五十二秒。
自販機の「夜光」。青いラベル。白い文字。メーカー名なし。冷たくて、うすく甘くて、青い味がした。
白黒の猫。瞬きに八秒。
線路のレール。振動していた。電車の記憶を再生するように。
全部が鮮明だった。
一年以上前のことなのに。昨日の夕飯の献立よりも、先週のゼミの内容よりも、はるかに鮮明に覚えていた。記憶の解像度が違う。昼間の記憶が標準画質だとしたら、あの夏の記憶は一段も二段も解像度が高い。細部が残っている。空気の湿度が。アスファルトの温度が。サンダルの足音のリズムが。
そして——
カイの横顔。
コンビニの蛍光灯に照らされた横顔。名前を知る前の横顔。「カイ」でしかなかった頃の。本名も大学も住所も知らなかった頃の。情報が少なくて、だからこそ輪郭だけがくっきりとしていた、あの横顔。
缶コーヒーを持つ指。プルタブを開ける音。カシュ。飲むときに少し目を細める癖。「お前もこっち側?」と聞いたときの声。低くて、柔らかくて、蛍光灯の白を含んだ声。
全部きれいだった。
全部がきれいだったのは、あの時間だったからだ。深夜三時だったからだ。世界がほんの少しだけずれていたからだ。ずれた世界の中では、缶コーヒーの温度も、信号の音も、自分の足音も、全部が特別だった。
そして——あの世界が特別だったのは、私がルールの外にいたからだ。
二十年間守ってきたルーティンの外に。判を押す手を止めて、白い紙のほうを見ていた時間。日付が変わる前に眠る。一日の中に計画外の空白を作らない。知らない場所に一人で行かない。理由のない行動を取らない。そういうルールの全部を、あの夏だけ手放していた。
手放していた自分は、もういない。
ルールに戻った。朝七時に起きて、コーヒーを淹れて、電車に乗る。ルーティンの中で生活する。それが私の形だ。あの夏は例外だった。例外は定義上、繰り返さない。繰り返したら例外ではなくルールになる。そしてルールになった瞬間に、特別さは消える。
だからもう行けない。
行こうとすることはできる。アラームをセットして、カーディガンを羽織って、ドアを開けて、深夜三時の道を歩くことは、物理的には可能だ。でもそれは「行く」のではなく「再現する」だ。あの夏を再現しようとする行為だ。再現は体験ではない。写真の中の風景をもう一度見に行っても、写真を撮ったときの感動は戻らない。
ルールの外に出るのは、一生に何度もあることではない。
一度かもしれない。二度かもしれない。でも「今日は特別な日だ」と思って出かける日は特別ではない。特別な日は、特別だと思わずに訪れる。七月の蒸し暑い夜、ただ「出てみよう」と思っただけ。理由はなかった。計画もなかった。何が起きるかの予想もなかった。
あの無防備さが、すべてだった。
あの無防備さは、もう手に入らない。一度あの世界を知ってしまった人間は、次に深夜三時に外に出るとき、あの世界を期待する。期待した瞬間に無防備ではなくなる。手ぶらで行くことが、もうできない。
*
時計を見た。
三時一分。
三時を過ぎていた。考えごとをしているうちに、深夜三時が通過していた。
あのころの私なら、三時の一分前に体が勝手に起き上がっていた。カーディガンに手が伸びていた。ドアを開ける直前のあの一呼吸、ダイバーが潜る前の呼吸を、していた。
今の私は、ベッドの上で天井を見ている。三時を一分過ぎた暗い部屋で。
一分前と一分後。その二分のあいだに深夜三時が通り過ぎていった。私はそれを、横になったまま見送った。
悲しいとは思わなかった。
不思議なくらい、思わなかった。三月にこの部屋で感じた「それだけで十分だと思おうとした」という半端な感覚は、もうなかった。「思おうとする」のではなく、ただそう感じていた。半年かけて、「思おうとする」が「思う」に変わっていた。いつ変わったのかはわからない。たぶん明確な瞬間はなかった。すり減るのではなく、なじんでいったのだ。新しい靴が足に馴染むように。最初は固くて痛い場所があって、でもある日気づいたら痛くなくなっていて、いつ痛くなくなったのかはわからない。
悲しくなかった。
行けなくなったことが悲しいのではなく——行けたことが、たぶん奇跡だったのだ。
二十年間ルーティンの中で生きてきた人間が、ある夏の夜にふとドアを開けた。理由もなく。計画もなく。ただ「出てみよう」と思って。そしてその先に、世界の底が見えた。蛍光灯が水槽のように光っていた。自販機に名前のない飲み物が並んでいた。公園の時計がゆっくり動いていた。そしてそこに、同じものを見ている人がいた。
あの全部が起きた。
起きなかった可能性のほうがずっと高い。あの夜、眠れなくても布団の中にいたら。外に出ても右ではなく左に曲がっていたら。コンビニに入らなかったら。カイがあの夜に限っていなかったら。
無数の分岐のうちのひとつだけを通って、あの夏が起きた。
それは奇跡と呼んでいいものだと思った。
奇跡は一度きりだから奇跡なのだ。繰り返せたら、それは奇跡ではなく法則になる。法則は便利だけれど、奇跡ほどきれいではない。
だからもう行かない。
行かないことを、悲しまない。
行けたことを、覚えている。それでいい。
*
天井を見ていた。
国境線が見えていた。暗闇の中の、薄い線。こちら側と向こう側。
向こう側に、あの世界がまだあるのかもしれない。ないのかもしれない。確かめない。確かめないことを、もう怖いとは思わなかった。
可能性のまま、持っておく。
あの夏の記憶と同じ棚に、「まだあるかもしれない」を置いておく。紺色のノートの隣に。空き缶の隣に。開けない箱として。
箱を開けないのは、もう怯えているからではなかった。
開けなくていいと、わかったからだった。
中に何があっても——猫が生きていても死んでいても——私はもう大丈夫だ。でも開けなくていいなら、開けない。開けないほうが、あの夏が美しいまま残る。開けたら確定する。確定したものは変化しない。変化しないものはいつか色褪せる。
可能性は色褪せない。
「まだあるかもしれない」は、永遠にそのままの鮮度で、棚の上にある。
*
目を閉じた。
眠りが近づいていた。さっきまであんなに遠かったのに、三時を過ぎた途端に、するっと寄ってきた。
最後に——
最後に、あの夏の一番最初の瞬間を思い出した。
七月の夜。蒸し暑くて眠れない。二時五十三分にベッドから起き上がる。理由はない。「出てみよう」と思っただけ。パジャマの上にカーディガンを羽織る。サンダルをつっかける。玄関のドアを開ける。
外に出た瞬間の、あの空気。
あの空気の記憶が、一年以上経った今でも肌の上にあった。湿度と温度と匂いの記憶が、細胞のどこかに刻まれていた。消えていなかった。消えないだろう。たぶんこの先もずっと。
夏の夜に外に出ると、あの空気を探す自分がいるだろう。見つからないだろう。見つからなくても探す自分が、いるだろう。それでいい。探すことと見つけることは、同じくらい大事だ。見つけなくても、探している間は、あの夏と繋がっている。
目を閉じたまま、唇がかすかに動いた。
声にはならなかった。でも形だけ、口が言葉をなぞった。
——おやすみ。
誰に向けた言葉だったのかは、自分でもわからなかった。過去の自分か。カイか。深夜三時の世界か。あるいは、今ここにいる自分か。
どれでもよかった。全部でもよかった。
眠りが来た。
*
朝七時。目覚ましが鳴った。
目を開けた。天井。白い天井。日の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいた。朝の光。十月の朝の、少しだけ冷たい光。
起き上がった。
布団をたたんだ。カーテンを開けた。窓の外に空があった。薄い青。雲が少し。秋の空は高い。
洗面台に行った。顔を洗った。水が冷たかった。タオルで拭いた。鏡を見た。二十一歳の顔が映っていた。去年と同じ顔。去年よりほんの少しだけ、目のまわりの力が抜けている気がした。
コーヒーを淹れた。グアテマラの中深煎り。お湯を注ぐと、粉がふわっと膨らんだ。今日の粉は状態がいい。蒸らしの時間を少し長めに取った。ドリッパーからコーヒーが落ちていくのを見ていた。細い線になって、カップの中に。黒い液体が増えていく。香りが立つ。
一杯。
今日は一杯でいい。
トーストを焼いた。バター。焼き加減は、端がほんの少し焦げるくらい。いつもの焼き加減。
食べた。
コーヒーを飲んだ。
おいしかった。
特別ではなかった。でもおいしかった。毎朝のコーヒーはこの味で、この味は毎朝ここにあって、明日もここにある。
食器を洗った。テーブルを拭いた。歯を磨いた。髪をまとめた。
鞄にノートと教科書と筆箱を入れた。財布。スマートフォン。定期券。
靴を履いた。白いスニーカー。紐を結んだ。
玄関のドアを開けた。
外に出た。
十月の朝の空気が顔に触れた。冷たくて、乾いていて、どこかに金木犀の残り香があった。空は青かった。高くて、広くて、きれいだった。
誰にでも見える、普通の朝の、普通の空だった。
それでいい。
ドアを閉めた。鍵をかけた。階段を下りた。いつもの道を歩き始めた。八時十二分の電車に間に合うように。
足音がした。スニーカーの足音。こつ、こつ、こつ。
一人分の、朝の足音が、アスファルトの上に落ちていった。




