第10話「最後の夜」
二月の最後の日だった。
月曜日。朝七時に起きた。コーヒーを淹れた。グアテマラの中深煎り。一杯。トーストを焼いた。バター。はちみつは足さなかった。八時十二分の電車に乗った。大学に行った。後期の授業はほとんど終わっていて、レポートの提出がひとつ残っていた。図書館でそのレポートの最後のページを書き上げ、印刷し、学務課の提出ボックスに入れた。
書店のバイトに行った。火曜のシフトだったけれど、今週は月曜に振り替えてもらっていた。新刊の入荷が月曜に多いから。棚に本を並べた。文庫の棚、新書の棚、雑誌の棚。背表紙を揃えて、向きを正して、ポップを立て直した。三時間。
帰り道にスーパーに寄った。鶏もも肉と長ねぎと木綿豆腐を買った。今夜は鶏鍋にしようと思った。一人用の土鍋で、ポン酢で食べる。二月の終わりはまだ鍋の季節だ。
午後六時に帰宅して、買い物袋をキッチンに置いて、手を洗って、コートをハンガーにかけた。
スマートフォンを見た。
カイからLINEが来ていた。午後四時二十三分。
「話がある。明日会える?」
*
知ってた。
画面を見た瞬間、頭の中にその二文字が浮かんだ。知ってた。驚きはなかった。予告編を見終わった映画の本編を見るときのような、結末を知っている物語のページをめくるときのような、静かな了解があった。
話がある。
その四文字が含んでいるものを、私は正確に知っていた。「俺たちさ」の続きだ。吉祥寺で言いかけてやめた言葉の続き。あのとき飲み込んだ言葉を、カイはようやく飲み込むのをやめて、口の外に出す決心をした。
決心したのはカイのほうだった。
私ではなかった。私はまだ箱を開けずにいられた。もう少しだけ、もう少しだけと、猫の生死を確認しないまま歩き続けることができた。でもカイは——カイは箱に手をかけた。開ける側を、引き受けた。
それはたぶん、優しさだった。
どちらかが開けなければ、二人とも永遠に氷の上を歩き続けることになる。氷の下に何があるかわかっていながら。その苦しさを終わらせるために、先に手を伸ばす。それは優しさだ。少なくとも私には、できなかった種類の優しさだ。
「明日大丈夫。何時がいい?」
「夕方。五時くらい」
「わかった。場所は?」
少し間が空いた。カイが打っている表示が出て、消えて、また出て、消えた。迷っているのだろう。場所を。
「あの公園で」
あの公園。ブランコが二つと滑り台がひとつある、あの公園。金属のベンチが二つある、あの公園。入り口に時計がある、あの公園。
「わかった」
それ以上のやりとりはなかった。
スマートフォンをテーブルに置いて、鶏鍋を作った。鶏もも肉を一口大に切り、長ねぎを斜め切りにし、豆腐を四つに切った。土鍋に水と昆布を入れて火にかけ、沸いたら昆布を引き上げ、鶏肉を入れた。灰汁を取る。長ねぎを入れる。豆腐を入れる。蓋をして弱火にする。
鍋が煮えるのを待つあいだ、テーブルに座って、何も考えずにいようとした。
何も考えずにいることはできなかった。でも考えていることの輪郭がぼやけていて、はっきりとした形を取らなかった。靄のように。冬の朝の、窓の結露のように。拭けばきれいになるのかもしれないけれど、拭く気力がなかった。
鍋が煮えた。
蓋を開けると湯気が上がった。鶏の出汁のいい匂いがした。小鉢にポン酢を入れて、もみじおろしを少し落とした。
食べた。
おいしかった。鶏肉は柔らかく煮えていて、長ねぎはとろりとして甘かった。豆腐の角が少し崩れていた。もう少し後に入れればよかった。でもおいしかった。
おいしいものはおいしかった。何があっても、なくても。
食べ終わって、土鍋を洗い、食器を片づけ、台所を拭いた。歯を磨いた。風呂に入った。髪を乾かした。
十一時。ベッドに入った。
明日、夕方、あの公園で。
カイがあの公園を選んだ理由がわかった。昼のカフェではない。夜のコンビニ前でもない。夕方の公園。昼と夜のあいだ。どちらの世界でもない場所。始まった場所で終わらせるのではなく、どちらにも属さない中間地点で。
目を閉じた。眠れないかと思ったけれど、眠れた。意外なほどすんなりと。遠くの結末が決まっている物語の中にいると、その手前のページではかえって穏やかでいられるのかもしれない。終わりがあることがわかっているマラソンは、終わりの見えないマラソンより楽だ。
夢は見なかった。
*
火曜日。
朝七時に起きた。コーヒーを淹れた。一杯。八時十二分の電車——には乗らなかった。今日は大学に用がない。
部屋にいた。洗濯をした。掃除をした。本棚の整理をした。整理をするふりをして、三段目のノートに手を伸ばしかけた。伸ばしかけて、やめた。
やめた理由はわからない。今開いたら、八月の筆跡が見える。メモアプリの記録を手書きでノートに転記した、几帳面な文字。公園の時計の速度。自販機のラインナップ。猫の瞬きの秒数。あの夏の私が記録した、あの世界のデータ。
今日はそれを見る日ではなかった。今日は別のことをする日だった。
午後一時。昼食にトーストを焼いた。チーズを載せた。焼き上がりを待つあいだ、窓の外を見た。曇っていた。雨は降らなさそうだった。気温は八度。コートとマフラーが必要な温度。
トーストを食べた。チーズが溶けていて、端のほうがかりかりに焦げていた。おいしかった。
午後三時。シャワーを浴びた。髪を乾かした。何を着るか考えた。考えて、普段着にした。白いニットにデニム。スニーカー。マフラーはグレーのカシミヤ。カイにもらったやつ。
選んでから、これを巻いていくべきなのかどうか迷った。
巻いていくことにした。もらったものを巻いて行くのは自然なことだ。不自然に外すほうがおかしい。それに、あたたかかった。二月の夕方は寒い。実用的な判断。
*
午後四時五十分に家を出た。
公園までは五分。いつもの道。クリーニング屋の前を通った。営業時間は終わっていて、シャッターが下りていた。銀色のシャッター。
立ち止まった。
夏以来、初めて昼間にこのシャッターの前で立ち止まった。じっと見た。
百合は——
見えなかった。傷と汚れと錆があるだけの、普通のシャッター。深夜三時でも昼間でもない、夕方の曇り空の下で見るシャッターには、何も描かれていなかった。
わかっていた。
歩き出した。
*
公園に着いた。午後四時五十八分。
カイはもういた。
入り口側のベンチに座っていた。あの金属のベンチ。夏に二人で並んだベンチ。黒いコートを着て、ネイビーのマフラーを巻いて、両手をポケットに入れて、少しだけ前かがみに座っていた。缶コーヒーは持っていなかった。
「来た」
カイが言った。あの最初の夜が重なった。コンビニの前で、十メートルの距離から私を見つけて、最初に声をかけてきたときのこと。
「来たよ」
私も同じ言葉を返した。
ベンチに座った。カイの隣に。左側に。いつもの配置。
金属が冷たかった。十二月よりはましだけれど、二月のベンチは充分に冷たかった。冷たさがデニムの裏側を通って、太ももに届いた。
二人のあいだには、三十センチくらいの距離があった。拳ひとつでもなく、ベンチの両端でもなく、その中間の、何にも対応しない距離。
時計を見上げた。午後五時三分。
秒針が正常に動いていた。一秒に一メモリ。正確に。
空は曇っていた。夕方の光が雲を通して拡散して、世界全体がフラットな灰色に包まれていた。影がなかった。太陽が雲に隠れると、影が消える。建物にも、木にも、ベンチにも、人にも、影がない。
影のない公園に、二人で座っていた。
*
「よる」
「うん」
「なんか——違くなっちゃったな」
カイが言った。
前を向いたまま。公園の向こうにあるマンションの壁を見ながら。声はいつものカイの声だった。低くて、柔らかくて、少しだけかすれている。
違くなっちゃったな。
それだけだった。
長い前置きも、回りくどい説明も、言い訳もなかった。七文字。違くなっちゃったな。その七文字が、この半年間のすべてを含んでいた。
深夜三時のコンビニ前で出会ったこと。「お前もこっち側?」と聞かれたこと。一緒に歩いたこと。青い街灯を見上げたこと。名前を教え合ったこと。LINEを交換したこと。昼間に会うようになったこと。映画を観たこと。手をつないだこと。付き合ったこと。友達に紹介したこと。カレーを食べたこと。クリスマスに手袋を贈ったこと。バレンタインにゴディバを渡したこと。
全部のあとに、「違くなっちゃったな」が来た。
「うん」
と私は言った。
それだけ。
うん。二文字。カイの七文字に対する、二文字の応答。それ以上の言葉が必要なかった。違くなっちゃった。うん。二人のあいだにある言語はこの九文字で足りた。何が違くなったのかを説明する必要はなかった。二人ともわかっていた。ずっとわかっていた。
わかっていて、言わなかっただけだ。
今、カイが言った。私が「うん」と言った。箱が開いた。猫は——
猫は死んでいた。
いや、違う。死んでいたのではない。最初からいなかったのかもしれない。箱の中にいたのは猫ではなく、猫がいるかもしれないという可能性だった。可能性だけがそこにあって、箱を開けたら、可能性が消えた。何も残らなかった。
「ごめん」
カイが言った。
「謝らないでよ」
「でも」
「カイは何も悪くない。私も何も悪くない。誰も悪くない」
そう言った。本心だった。カイは悪くない。優しかった。いい人だった。面白かった。手袋のサイズを聞かなくても合う手の大きさを、聞かなくても覚えていてくれる人だった。
私も悪くない。名前を聞いたのは私だけれど、聞くなと言われたわけではない。LINEを交換したのは二人の選択だ。昼間に会ったのも二人の選択だ。すべての選択は合理的で、正しくて、自然な流れの中にあった。
誰も間違っていない。
誰も間違っていないのに、こうなった。間違いのない一連の選択が、積み重なって、取り返しのつかない場所まで来た。一つ一つは正しい足取りだったのに、気づいたら元の場所から遠く離れていた。
「なんか、もっとちゃんと理由あると思ってた」
カイが言った。
「理由?」
「別れるときって、もっとこう、決定的な何かがあるのかなって。浮気とか、ケンカとか」
「なかったね」
「何もなかった。何もなかったのに」
「何もなかったから、かもしれない」
カイが少しだけ顔を向けた。目が合った。
「何もなかったから?」
「何か決定的なことがあったら、それを直せばいい。でも何もないと、直すものがない。直すものがないのに壊れてるのが、いちばん直せない」
言いながら、自分でも驚いていた。こんなにきちんと言語化できると思わなかった。何ヶ月もかけて言語化できなかったことが、最後の最後に、ベンチの上でするりと出てきた。遅すぎた。何ヶ月も前に言えていたら何かが変わっただろうか。変わらなかっただろう。たぶん。
「そうだな」
カイは前を向き直した。
「直すものがないのに壊れてる。それだな」
しばらく黙っていた。
沈黙があった。この沈黙は——どの種類の沈黙だろう。七月の軽い沈黙でもなく、十二月の重い沈黙でもなかった。もっと薄い。もっと透明な。何も含んでいない沈黙。期待も、不安も、未来も、過去も、全部抜き取られた、真空の沈黙。
真空は音を伝えない。
風が吹いた。二月の風。冷たいけれど、刃物のような鋭さはなかった。丸い冷たさ。季節が変わりかけている冷たさ。二月の終わりは、冬の終わりでもある。
「あの時間、楽しかったな」
カイが言った。
「うん」
「缶コーヒーとアイスで」
「チャーハンの具の話とかして」
「卵って即答したくせに」
「事実だったでしょ」
「事実だった」
笑った。少しだけ。二人で、少しだけ笑った。
笑いが消えたあと、空気がまた静かになった。公園には誰もいなかった。夕方の五時過ぎ。子どもはもう帰った時間。大人はまだ来ない時間。昼でも夜でもない、空白の時間帯。
「よる」
「うん」
「あの時間に、お前がいてよかった」
カイの声が少しだけ震えた。震えたのは寒さのせいかもしれなかった。でもたぶん、寒さだけではなかった。
「私も。カイがいてよかった」
カイ、と呼んだ。海人ではなく。深夜三時の名前で。最後に一度だけ、あの時間の名前で呼んだ。
カイは何も言わなかった。ポケットの中の手が少し動いた気がした。
*
午後五時半。
空が暗くなり始めていた。曇り空の夕暮れは早い。灰色が濃くなって、建物の輪郭が空に溶け始めていた。
「行こうか」
カイが立ち上がった。
「うん」
私も立ち上がった。
並んで公園の出口に向かった。数歩。出口の手前で、互いの帰る方向が分かれる。カイは右。私は左。いつもの解散場所はコンビニの前だったけれど、今日はここだ。
立ち止まった。向かい合った。
「元気でな」
カイが言った。
「カイも」
「マフラー」
「え?」
「似合ってる」
グレーのカシミヤを首に巻いている私を見て、カイはそう言った。マフラーの話をしているのか、それ以外の何かの話をしているのか、わからなかった。わからなくてよかった。
「ありがとう。大事にする」
「うん」
カイが片手を上げた。いつもの合図。最初の夜からずっと同じジェスチャー。軽く上げて、軽く振る。じゃあ、という意味の。
「じゃあ」
「じゃあ」
カイが背を向けた。歩き出した。右方向に。コートの背中。ネイビーのマフラー。スニーカーの足音。こつ、こつ、こつ。
見送った。
背中が小さくなっていく。夕闇の中に。灰色の空気の中に。何度も見た背中が、何度も見たように小さくなっていく。角に近づいていく。
角を曲がった。
消えた。
足音が消えた。
公園の入り口に、私は一人で立っていた。二月の夕方。曇り空。風が冷たかった。マフラーが頬に触れていた。カシミヤの柔らかい感触。
泣かなかった。
泣くような別れではなかった。怒りもなかったし、裏切りもなかったし、決定的な言葉もなかった。「違くなっちゃったな」と「うん」。それだけ。それだけで終わった恋は、涙の形をしていなかった。もっと静かで、もっと乾いていて、もっと深いところにあった。涙は表面の現象だ。目から出て、頬を伝って、顎先から落ちる。物理的な経路。今の痛みは、そういう経路を持っていなかった。出口がなかった。体の中のどこか、名前のない場所に溜まっていて、どこにも流れ出ない。
歩き出した。
左方向。帰り道。
いつもの道を歩いた。クリーニング屋。歯科医院。公園(別の、小さな公園。あの公園とは別の)。駅前の通り。コンビニの前を通った。蛍光灯の白い光が、夕闇の中でぼんやりと光っていた。自動ドアの横のゴミ箱と灰皿。誰もいなかった。
通り過ぎた。
アパートの階段を上がった。鍵を開けた。靴を脱いだ。コートをかけた。マフラーを——
マフラーをハンガーにかけようとして、手が止まった。
グレーのカシミヤ。柔らかい。あたたかい。カイの——もうカイではない、海人の——プレゼント。
ハンガーにかけた。
かけた。それだけだ。それ以上のことは何もしなかった。
*
手を洗った。うがいをした。
キッチンに立って、何か飲もうと思った。コーヒーを淹れようとして、やめた。夜にカフェインは摂らない。いつもの自分のルール。
水を飲もうとして、冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫の中に、浄水器のポットがあった。卵が三つ。牛乳のパック。昨日の鍋の残り。
なんとなく、冷凍庫のほうに手が伸びた。
開けた。
冷凍庫の中に、冷凍ご飯のパックが二つと、ブロッコリーの冷凍と、製氷皿があった。
それだけだった。
ハーゲンダッツのストロベリーは、なかった。
当たり前だった。食べたのだ。八月の夜に。初めてこの部屋が寂しいと感じた、あの夜に。カイがいないことが寂しくて、部屋が少し広くて、あの最初の夜の味を確かめたくて、冷凍庫から出して、蓋を開けて、半分食べた。残りを戻した。
残りの半分は——いつ食べたのだろう。
覚えていなかった。
十一月のどこかで、何気なく、特別な感慨もなく食べたのだと思う。覚えていない。あんなに大事に取っておいたのに。展示品だと思っていたのに。あの夜の出島だと思っていたのに。いつの間にか、ただのアイスとして消費して、覚えてすらいない。
それが一番悲しかった。
シャッターの百合が見えなくなったことよりも。公園の時計が正常に戻ったことよりも。「夜光」が自販機から消えたことよりも。カイと「違くなっちゃった」ことよりも。
あのアイスを、いつ食べたか覚えていないこと。
あの最初の夜——蒸し暑くて眠れなくて、理由もなく外に出て、深夜三時のコンビニで二つ買ったハーゲンダッツのストロベリー。ひとつは外で食べた。もうひとつは冷凍庫にしまった。もう一度あの味を確かめたいと、深夜三時の私の手が無意識に選んだ、未来の自分への贈り物。
その贈り物を、いつ開けたか覚えていない。
特別だったものが、特別でなくなった瞬間を、記録していない。ノートに書いていない。メモアプリにも残っていない。いつの間にか普通に戻って、いつの間にか消費されて、いつの間にかなくなっていた。
それが、この半年間に起きたことの全部だった。
冷凍庫を閉じた。
閉じた音が、静かな部屋に響いた。
*
水を飲んだ。
常温の、浄水器を通した水。喉を通る感触があった。あの最初の夜ほどはっきりとはしていなかったけれど、水が喉を通っていることはわかった。
水は水だった。
部屋に戻った。ベッドに座った。
本棚の脇を見た。「夜光」の空き缶が四本。青いラベル。埃。
見つめた。
長いこと見つめた。
それから立ち上がって、缶をひとつ手に取った。一本目。最初の夜に飲んだやつ。いちばん古い缶。ラベルの色が少し褪せている。
匂いを嗅いだ。何も匂わなかった。空き缶の匂い。アルミの匂い。それだけ。
あの夜の匂いは、もうなかった。
缶を戻した。四本並んだ列の、いちばん左。
捨てなかった。捨てなかった。それだけが、今の私にできることだった。
*
歯を磨いた。風呂に入った。髪を乾かした。パジャマに着替えた。
ベッドに入った。午後十一時。電気を消した。
天井。国境線。
見えた。暗闇に目が慣れると、クロスの継ぎ目がくっきりと見えた。あの最初の夜と同じように。こちら側と向こう側を分ける線。
目を閉じた。
眠った。
*
午前三時に目が覚めた。
アラームではなかった。もう何ヶ月もアラームはセットしていない。体内時計だけが、律儀に、頑固に、この時刻を覚えていた。
暗い天井を見た。
国境線が見えた。
窓の外に、音があった。遠くの道路を車が走る音。かすかに。それから沈黙。それからまた別の音。何の音だろう。風が窓ガラスを撫でる音かもしれない。枝が揺れる音かもしれない。
深夜三時の音だった。
深夜三時にしか聞こえない音かどうかは、もうわからなかった。昼間にも同じ音がしているのに気づかないだけかもしれない。あるいは本当に、この時間にしか存在しない音なのかもしれない。
確かめる方法があった。起き上がって、カーディガンを羽織って、ドアを開ければいい。外に出て、空気を吸えば、わかる。あの空気がまだそこにあるのか。あの世界がまだ回っているのか。
起き上がらなかった。
起き上がれなかったのではない。起き上がらなかった。
理由は——
理由はたくさんあった。寒いから。もう二月だから。明日も朝が早いから。一人だから。
一人だから。
カイはもういない。コンビニの前にいない。いない夜が永遠に続く。「明日もいる」と天気予報のように言ってくれた人が、もういない。
一人で出て、一人で歩いて、一人でコンビニの前に立ったら。ゴミ箱と灰皿のあいだの空間に誰もいなかったら。
それに耐えられるかどうか、わからなかった。
だから起き上がらなかった。
嘘だ。
本当の理由は、それではなかった。
本当の理由は——出て、歩いて、空気を吸って、もし何も感じなかったら。街灯がオレンジ色のまま、時計が正常なまま、自販機に「夜光」がないまま、何のズレもない普通の深夜の街だったら。
あの世界が本当になくなったことを、確認してしまう。
確認しなければ、まだある。あるかもしれない。行っていないだけで、あの空気はドアの向こうで待っているかもしれない。百合がシャッターの上で揺れているかもしれない。猫が塀の上で八秒かけて瞬きしているかもしれない。
行かなければ、可能性は残る。
箱を開けなければ。
——また、箱を開けない選択をしている。
わかっていた。わかっていて、選んでいた。カイとの関係で開けなかった箱を、今度は深夜三時の世界に対して開けずにいる。同じことを繰り返している。
でも今夜は、それでいいと思った。
今夜は、開けない。
今夜は、天井を見る。国境線を見る。窓の外の音を聞く。深夜三時の、この側にいる。ベッドの上で、布団の中で、まぶたの裏の暗闇の中で。
あの世界が、まだあるかもしれないという可能性を、胸の中に持ったまま。
いつか出るかもしれない。明日かもしれないし、来週かもしれないし、春になってからかもしれない。空気が柔らかくなって、湿度が戻って、夜がまた優しくなったら。そのときに、またドアを開けるかもしれない。
開けないかもしれない。
どちらでもよかった。今は。今夜は。
目を閉じた。
窓の外で風が鳴っていた。二月の風。冬の終わりの風。もうすぐ三月になる。三月になれば春が来る。春が来れば——
何も約束されていなかった。
春が来ても、あの世界が戻る保証はない。カイが戻る保証もない。何ひとつ保証されていない。
でも、季節は巡る。
七月がまた来る。蒸し暑い夜がまた来る。眠れない夜がまた来る。
そのときに私がどうするのかは、そのときの私が決める。
今の私は、目を閉じる。
*
眠りが来た。
ゆっくりと。遠くから。夜の底のほうから。
最後に聞こえたのは、窓の外の風の音だった。
風は何かを運んでいたのかもしれないし、何も運んでいなかったのかもしれない。どちらにしても、風は朝まで止まらなかった。




