聖域の残響
夜気は剃刀のような鋭さで肌を焼き、石造りの地底回廊に満ちる空気は氷のように冷え切っていた。幾重にも重なるアーチ状の天井に反響するのは、石床を激しく叩く無数の足音である。それは規則正しい行軍の響きではなく、逃避と追跡、そして焦燥に駆られた不協和音となって、湿り気を帯びた石壁の間をのたうち回っていた。逃げる足の乱れ、それを追う鋼の靴音。それらが入り乱れては増幅され、出口のない迷宮の中で、まるで生き物のように蠢いている。
「さぁこっちだ、早く来い」
迷いのない、地を這うような低い声が地底回廊に響いた。粗野な男の節くれだった大きな手が、細く白い腕を掴み、力任せに前方へと引きずっていく。捕らえられたその腕の持ち主は、必死の抵抗を試みていた。石の角に衣を引っかけ、爪が剥がれんばかりに壁に縋り付こうとするが、男の暴力的なまでの剛腕はその全てを無慈悲に振り払う。冷徹な月光が、天窓から天の慈悲を模して差し込んでいたが、その光が照らし出したのは、救いではなく残酷なまでの弱肉強食の構図であった。その光景を、上階の遥か高み、冷たい手摺りの向こう側から追う影があった。
「いや、離して!」
少女の悲鳴は、張り詰めた夜の空気を切り裂いた。しかし、その必死の叫びも、巨大な石造建築の伽藍の中ではあまりに無力だった。声はどこまでも続く高い天井へと昇り、冷たい石壁にぶつかっては虚しく霧散し、ただの不吉な反響となって戻ってくるばかりである。
逃げ場のない地底広場。そこは四方を断崖のような壁に囲まれ、中心には古の血を吸い込んできたであろう祭壇が鎮座している。追い詰められた絶望の淵、少女の瞳が恐怖に潤んだその瞬間、頭上の漆黒の闇から一際鋭い、雷鳴のごとき怒号が降り注いだ。
「オニアース!! 貴様ーー!!」
それは、五臓六腑を焼くような憤怒に震えるアドメートス卿の声であった。
眼下の広場で、獲物を仕留めた獣のように悠然と佇む男――オニアスは、その呼びかけに動じる気配すら見せなかった。彼は、天から突き刺さる殺気を含んだ主君の視線を、羽毛でも払うかのように軽やかに受け流す。そして、ゆっくりと顎を上げると、影に沈んだ口角を三日月のように歪めた。彼はその場で足を揃え、まるで宮廷の舞踏会で貴婦人を誘うかのように、優雅に、そして徹底的に侮蔑を込めて一礼してみせたのである。
「これはこれは、アドメートス卿。今頃ご到着とは、少々興が削がれますな」
オニアスの喉から漏れ出た声には、甘ったるいほどに濃厚で、隠しきれない愉悦が混じっていた。彼は自らの絶対的な優位を、肌に触れる空気の揺らぎ一つから確信している。首をゆっくりと傾け、天を見上げて嘲笑を重ねる。彼は高所から、安全な場所からこちらを見下ろすしか能のないアドメートスを、研ぎ澄まされた言葉の刃で容赦なく突き返す。
「そんな高い所からでは、どうすることもできないでしょうに」
「よくも、この私を――!!」
アドメートスの端正な顔は、羞恥と屈辱によって土色に染まった。高楼の手摺りを掴む彼の拳は、骨の輪郭が浮き出し、皮膚が白くなるほどに強く握り締められている。血管が浮き出た額には、抑えきれない憤怒の拍動が刻まれていた。その怒りはついに沸点を超え、背後の暗い廊下で息を潜めるように控えていた側近たちへ向けて、烈火のごとき命令となって爆発した。
「誰か、奴に矢を射れ!! 射殺せよ!!」
アドメートスの咆哮が、地底広場全体に響き渡る。
しかし、その後に返ってきたのは、鼓膜を圧迫するような不気味な沈黙であった。風の音さえも、この張り詰めた緊張を恐れて立ち去ったかのような静寂。高楼を支配する冷たい空気の中で、弓の弦が軋む音も、矢筒から矢を抜く音も聞こえてはこない。兵士たちは皆、石像のように硬直したまま、誰一人として武器を構えようとはしなかった。
「…………誰かおらんのか!」
主の二度、三度と繰り返される、悲鳴に近い呼びかけ。その激昂に圧されるようにして、ようやく一人の兵士が、今にも消え入りそうな震える声で応じた。
「無理です……神官のリュシストラテに、当たってしまいます……」
その言葉は、アドメートスの胸を鋭く刺した。地底広場の中央でオニアスに拘束され、盾にされるように配置された少女。その代わりの効かぬ身に、万が一にも己が放った矢が触れることを、兵士たちは恐れたのだ。
「まったく、使えぬ奴らだ」
アドメートスは、奥歯を噛み締めながら忌々しげに吐き捨てた。口の中に広がる苦い味は、自らの権威が地に落ちたことへの自覚か。無力感という名の毒が、じわじわと彼の四肢の先から侵食し、思考を麻痺させていく。眼下の傲慢な男を仕留める術は物理的にも存在せず、彼はただ、高みの見物という名の牢獄の中で立ち尽くすしかなかった。
その無様な様子を、舞台の上の役者を眺めるような冷ややかな目で見届けていたオニアスは、やがて退屈そうに肩をすくめた。もはや挑発する価値すら失ったと言わんばかりの態度で、最後通告のように言い放つ。
「精々、そこから指を咥えて見ていろ。さて……」
男はアドメートスに背を向けた。その背中は、背後からのいかなる攻撃も届かないことを確信した無防備な、ゆえに傲岸不遜な広がりを見せている。彼は一段ずつ、重厚な足取りで祭壇へと歩を進める。その右手には、周囲の清浄な空気を汚染するかのような、不浄な輝きを放つ古の短剣が握られていた。鈍く、呪わしい光が彼の指の間から漏れ出し、石の祭壇に刻まれた不吉な紋様を照らし出す。
「封印を解くとしよう」
その宣言とともに、地下回廊の底から、世界の理が崩壊を始めるような不気味な地鳴りが響き始めた。




