1-1
旧友に
1998年。――あの日々、共に紡いだ物語を、ここに残します。
溢れるほどの友情と、道を示してくれた君へ、心からの感謝を。
互いの情熱を燃やし、駆け抜けたあの奇跡のような時間に、
最大の感謝と愛を込めて。
深い森だった。
苔むした巨木の根は大地を這う蛇のように複雑に入り組み、頭上では葉が太陽の光を千々に砕いていた。
幹に絡まる苔の匂いと、靴底へ吸い付く泥の感触。遠くで鳥が鳴く。風はほとんどない。
「ふぅ……」
荷物の重みで肩が軋む。
旅装は質素だが頑丈に作ってある。
それでも、二日も歩けば、鎧より重い実感がある。
しかし、前を歩く三人はそれを感じさせない足取りだった。
「ミロさん、それ重くないですか?」
乾いた音を響かせながら杖に体を預け、イオスはかすれた声で、大きな樽を腕で担いでいるドワーフに問いかけた。
「これか? ガハハ、イオス、何を言っとるんだ!」
ミロは立ち止まることもなく、イオスの質問を豪快に笑い飛ばした。
「ワシらにとっちゃ、酒樽を担いで歩くなんざ、散歩するようなもんよ。中身が詰まっていればいるほど、足取りも軽くなるってもんだ!」
そう言って腕の樽を軽くゆすってみせると、ずっしりした液体の音が響いた。中身が何であれ、彼にとっては旅の良き相棒なのだろう。
「そんなことより、肩の力を抜け。お前さんは荷物を背負おうとしすぎなんだ。荷物に『運ばせてやる』くらいの気持ちで歩かんと、明日の朝には肩が上がらんぞ。」
先を行く二人、軽快な足取りの弓手と、地面を踏みしめる剣士が、ミロの言葉にくすりと笑った。
「ミロは、あいかわらずね。」
前を歩く小柄なハーフリングの女性が、振り向きもせずに言った。
彼女の背には小さな弓と筒一杯の矢が揺れているが、足取りは羽でも生えたかのように軽い。
「うむ」
その隣で短く応じたのは、ひときわ背の高い男だった。大きい体躯を甲冑で包んでいるにもかかわらず、地面を揺らすことなく歩いている。
「カグラ、オロチ、人のことを噂するなら、他で聞こえんようにやってくれ。」
ミロが酒樽を叩きながら笑う。
やり取りを後ろで見ながら、イオスは肩の皮紐を少しだけ引き直した。
足元の崩れるような道であっても、平然と風を切って歩く。その姿は、この旅路が彼らにとって単なる日常の延長であることを物語っていた。
「そう思わんか?イオス」
「……追いつくのだけで精一杯ですよ」
弱音を吐き出すように呟くと、風に乗って、鈴を転がすようなカグラの笑い声が返ってきた。
「待て」
甲冑が擦れ合う硬い音とともに、先頭を歩く大柄な男――オロチが立ち止まった。その鋭い視線が向けられているのは、鬱蒼とした木々が織りなす茂みの奥深く。どうやら、何者かの気配を察知したらしい。
「この先ね、少し見てこようか?」
軽快な弾むような声でそう提案したのは、カグラだ。
すばしっこく小柄な体を活かした偵察は、彼女の本領発揮といったところだろう。
イオスは杖に身を預けて荒い息を整えた。
肩をかすめる風が少しだけ冷たく感じられる。
一度深く息を吐き出すと、意識を集中させ、頭の中に蓄積された知識を素早く手繰り寄せた。実戦の緊張が、かえって思考を研ぎ澄ませていく。
「……この状況と植生から見て、潜んでいるのは植物系か人型の魔物でしょう。僕らの足では、急に襲われたときに振り切るのが難しいかもしれません」
その冷静な分析を聞き、カグラはイオスの強張った肩をポンと軽く叩き、余裕の笑みを浮かべた。
「さすが学院生、助かるわ。——でも大丈夫、先手を打って見抜くのが私の仕事でしょ?」
緊張を解きほぐすようにクスリと笑うと、カグラはイオスの前へと滑り出た。
「せっかくの優秀な解説を無駄にはしないわ。ちょっと様子を見てくるから、肩の力を抜いて待ってなさい」
そう言って背中の弓にそっと手を伸ばした時には、すでにその足音は完全に消えていた。すばしっこく小柄な体を活かした身のこなしで、彼女は音もなく鬱蒼とした茂みの奥へ溶け込んでいった。
「無理はするなよ、カグラ」
オロチが低い声で言葉を送り、腰の剣の柄に手を置く。ミロも担いでいた酒樽をドンと地面に下ろし、背中のバトルアクスに手をかけながら太い脚を踏みしめた。
イオスは握りしめた杖に身をあずけ、カグラが姿を消した茂みの闇をじっと見つめ続けた。
カグラの帰還や異変へ対応できるよう、意識の片隅で密かに魔力を練り上げておく。 深く呼吸を整え、彼は高鳴る緊張感を押し殺すように、そっと思考を過去へと走らせた。胸の鼓動を落ち着かせるための、小さな悪あがきのつもりで。
(まったく……こんなことになるなんて……)
イオスの脳裏に浮かんだのは、どこにでもいる農家の次男坊だった頃の自分だ。土にまみれて汗を流し、そのまま平穏に生きていくはずだった人生。それが教会で「魔法の才能がある」と判定されたことから、大きく狂っていった。
「我が家から魔法師が出るぞ!」と大喜びする家族に見送られ、王立魔法学院へと入学したまでは良かった。だが、そこで待っていたのは華やかなキャンパスライフなどではなく、苛烈な「現実」だった。
貴族の子弟が幅を利かせるその学院は、とにかく何もかもが高額すぎた。授業料、触媒、魔導書――実家の金銭感覚が吹き飛ぶような金額が容赦なく請求される。このままでは実家ごと破産しかねない。家族にこれ以上の負担をかけまいと腹を括ったイオスは、危険を承知で「冒険者業」へと手を染めることになったのだ。
学費を稼ぐため、必死で泥をすするような日々。そんなある日、学院の主任から舞い込んできたのが「とある依頼」だった。
破格の報酬につられて引き受けたそれが、まさかこれほど過酷な旅になるとは、当時の自分が知る由もなかった。
(命を張るのは慣れてるとはいえ、もっと簡単な金稼ぎのつもりだったのに……)
自嘲気味に口元を歪めつつも、イオスは魔力を集中させ待機する。
「ちょっと、想定と違うわ」
木々をつたい、音もなく舞い降りてきたカグラが、表情を曇らせて言った。 茂みの奥で何が起きているのか。よぎる不安を抑え込み、イオスは魔力の発動態勢を保したまま、先を促した。
「蔦とゴブリンが喧嘩しているのよ」
「蔦と……ゴブリン、ですか?」
イオスは脳裏の知識を必死に手繰り寄せた。
ゴブリンといえば、この辺りの森にも徘徊している下級の魔物だ。小柄で知能が低く、群れをなして人を襲う程度しか能のない雑魚——イオスの認識ではその程度の存在に過ぎない。
一方の蔦も、せいぜい森を覆うただの植物だ。だが、カグラが「喧嘩している」と表現するからには、ゴブリンがただ藪をかき分けるような生易しい状況ではないはずだった。
学院で叩き込まれた知識を総動員しても、しっくりくる答えはどうしても浮かんでこなかった。
「いくら考えても分からないですね。直接、見た方が良さそうです」
これ以上考えても埒があかないと判断し、イオスは意を決して頷いた。現場をこの目で確認するためだ。
「ええ、ついてきて。刺激しないようにね」
カグラはそう残すと、気配を殺して茂みの奥へ踏み出していく。イオスも魔力を集中させたまま、足音を忍ばせてその背中に続いた。
静かに枝葉をかき分け、視界が開ける場所へと辿り着く。カグラがそっと指さした先を覗き込んだイオスは、思わず絶句した。
「こっ……これは」
複数のゴブリンが奇声を上げ、錆びた短剣をがむしゃらに振り回していた。 対峙しているのは、粘りを帯び、うねり蠢く太い蔦の群れだ。
切断された蔦からは気味の悪い緑色の液体が撒き散らされ、地面を濡らす。 だが勢いは衰えず、蔦はゴブリンの腕に絡みつき、生々しい音を立てて締め上げていった。
悲鳴を上げるゴブリンたちと、声もなく獲物をすり潰す異形の蔦。
密林の闇に、異質な狂乱が広がっていた。
(動き回る蔦、再生力、緑色の液体……)
脳に叩き込んだ膨大な知識が、一筋の線となって繋がった。
「魔導植物ブラッディーペタル……肉食の凶暴なやつです!」
イオスの言葉に、カグラも息を呑んでうねる植物を見つめ直した。
あの蔦は触手にあたる部分だ。獲物を溶かす消化液だけでなく、さらに仲間を呼び寄せる誘引剤の役割まで果たしている。
切断された触手から滴る汁が地面に染み込むたび、周囲の土が不気味に盛り上がり、新たな触手が地面を割って伸びていく。ゴブリンたちは必死にあがいていたが、暴れれば暴れるほど汁が撒き散らされ、ブラッディーペタルを増殖させる悪循環に陥っていた。
この一帯が緑の消化液に覆われ、足の踏み場もない殺戮地帯と化すのは、もはや時間の問題だった。
「迂回するなら、今のうちよ……でも、このまま放置するのもまずいわね」
カグラは身を潜めたまま、蠢くブラッディーペタルの群れへ鋭い視線を注いでいる。
「ねえイオス君。あの中心で咲こうとしている蕾……あれってブラッディーペタルの『核』になる花弁でしょ? 魔法師向けの、かなりの高級素材じゃなかったかしら?」
イオスは思わず「うっ」と声を詰まらせた。
「無事に蕾だけ持ち帰れれば、の話じゃがな」
後ろからかけられた低い声に、イオスとカグラはハッと振り返る。 声の主は、遅れて追いついてきたミロとオロチだった。
「うむ」
短く頷くオロチの重厚な眼光は、すでに目の前で繰り広げられる惨状を捉えていた。
「採るのが難しいからこその高級素材、なんですけどね……。しくじれば僕らが次の餌になり
ます。今回は諦めましょう」
イオスは未練の残る眼差しで蕾を見つめつつ、残念そうに溜息をつく。だが、ミロは煙に巻くように首を横に振った。
「それに、カグラが言ったように放置もまずいのう。ここで繁殖されたら、後続の冒険者や調査員が餌になりかねん」
直後、ゴブリンたちの悲鳴が一際高く響き渡った。 また一匹、蠢く触手に足を取られ、引きずり込まれるように地面へと沈んでいく。切断口から溢れ出た消化液が、不気味な緑の煙をうっすらと立ち上らせ始めていた。
どうやら、悠長に考えている時間すらなさそうだ。
「火は効くか?」
オロチが大剣の柄に手をかけ、イオスへ短く問いかけた。
「弱点です。むしろ最大の……! ただ、下手に炙れば自衛本能で触手が消化液を全方位に撒き散らします。触れたらそれだけで溶かされますよ」
「燃やし切れるか?」
オロチは淡々と言う。
イオスは息を整え、頭の中で即座に戦術を組み立てた。
(下級の火魔法じゃ火力が足りない。かといって威力を上げすぎれば森ごと火の海だ。中級魔法で核となる蕾を直接狙い、その熱量で周囲の触手まで巻き込んで一気焼き切るしかない……!)
だが、実行するには大きなリスクが伴う。
「……できます、僕の中級魔法なら確実に。ですが、僕が詠唱に入れば無防備な僕を狙って触手が集中して飛んできます。 それに——威力を誤れば、この森全体を巻き込む大火になりかねません」
生半可な火力では毒汁を撒き散らされ、強すぎれば山火事を引き起こす。一網打尽にするには絶妙な火力調整が必要であり、何より自分たちの逃げ場すら失いかねない諸刃の剣だった。
「お前は詠唱に集中しろ」
オロチは迷いのない手つきで大剣を引き抜いた。重厚な金属音が、響き渡る。
「延焼については、私に考えがあるよ」
緊迫した空気を破るように、カグラがどこか軽めの調子で言った。イオスは疑問を抱き、隣のカグラへ視線を向ける。
「あの、カグラさん……魔法か何かで鎮火するんですか?」
「まあ……そうね。魔法、ね」
頬をかきながら返すカグラの笑みには、どことなく怪しげな雰囲気が混じっていた。
イオスは一瞬呆気にとられたが、すぐに深く息を吸い込み、両足を力強く踏みしめた。言葉通りに受け取っていいのかは怪しいが、不思議と不安はなかった。自分を守るために前へ立つ仲間たちの背中が、何よりも雄弁だったからだ。
「わかりました。皆さん、気を付けてください。あとは、任せます」
イオスの瞳から迷いが消える。握りしめた杖を滑らかに一回転させると、先端の魔法石から蒼白い光の軌跡を描き出した。
身体を駆け巡る魔力の奔流。その渦中で——
息をのむような緊張感の中、イオスの胸の奥から湧き上がってきたのは、脈打つような強い「高揚感」だった。
「……ああ、そうだ。ずっと、これがやりたかったんだ」
思い返せば、学院の模擬戦や実技テストで許されていたのは、安全な下級魔法や味気ない生活魔法に過ぎなかった。いくら頭の中に理論があろうと、中級以上の攻撃魔法を放つには厳しい制限と高額な演習場代がかかったのだ。金欠の自分にとって、高度な魔法など「知識」として眠らせておくしかない、まさに宝の持ち腐れだった。
だが、今は違う。
(制限も躊躇もなく全力で叩き込めるなんて……!)
泥をすするような冒険者暮らしの辛さも、苛酷な現実の理不尽さも、この瞬間ばかりはすべて吹き飛んでいた。 今この手にあるのは、貪り食った知識と、それを完璧に形作れる魔力。純粋な探求心と「魔法師」としての本能が、歓喜に震える。
構築した緻密な魔法陣の中へ、練り上げた魔力がなだれ込んでいく。集束した魔力は圧倒的な熱量へと変化を始め、かつての訓練で得た成功体験と頭の中の理論が、イオスの指先を通して完璧な現実として結実しようとしていた。
空間に浮かび上がる幾何学模様の魔法陣。二重、三重と複雑に重ね合わされた環の中で、練り上げられた魔力が恐ろしいほどの密度で膨れ上がっていく。溢れ出る圧倒的な魔力に空気が歪む。
「——集え、束ねよ、穿つ炎の柱となれ !」
力強い詠唱とともに、魔法陣の中心へと魔力が一気になだれ込む。激しく衝突した魔力は青白く輝く火種を生み出すと、またたく間に過熱——爆発的な火力を極限まで一点へ収束させ、一つの火球へと変貌を遂げた。
イオス渾身の中級魔法。
魔法陣が生み出す圧倒的な熱を「明確な脅威」と察知したのか、目の前の怪物——ブラッディーペタルが狂乱した。
その瞬間、前衛の仲間たちが一斉に動き出す。イオスへと迫る触手に対し、二つの巨躯が立ち塞がった。
「むん」
オロチが短く呟き、大剣で薙ぎ払う。鋭利な閃光が迫り来る触手を捉え、鮮やかに切り裂く。
だが、なおも蠢き伸ばされようとする切断面——
「ガハハ! 威勢が良いのは最初だけじゃな!」
間髪入れずに踏み込んだのはミロだ。頭上に掲げた巨大な戦斧を、全身の体重を乗せて豪快に振り下ろす。重厚な破壊音が森に響き渡り、大地を叩き割るような一撃が、地表を這う触手を潰して地面へと縫い付けた。
断ち切り、叩き潰す。一滴の毒汁すら後方のイオスへ届かせぬ、鉄壁の連携だった。
仲間たちが繋いでくれた、完璧な一瞬。
視線の先に据えるのは、ブラッディーペタルの中心で怪しく蠢く巨大な蕾だ。
抑え込んできた感情が弾け、全身の血が激しく沸き立つ。
イオスは杖の先端をまっすぐ目標へ突き出し、吼えた。
「——穿て!!」
圧縮された膨大な魔力が、青白い光球となって魔法陣から一気に解き放たれる。 空気を一瞬で焼き焦がし、視界を歪めながら、一閃の光となって蕾へと一直線に突き進む。
「なっ……!?」
放たれた魔法の圧倒的な熱量に、触手を叩き潰していたミロが目を見張り、あのオロチすらも息を呑んだ。
青白い光球は襲い来る触手を一瞬で焼き蒸発させ、一直線に突き進む。そして、ブラッディーペタルの中心核――「蕾」の真ん中を容赦なく貫き通した
(だが、まだ終わりじゃない……!)
光球の内部に溜め込んだ魔力を、一気に解き放つ。 破裂寸前まで膨張する光球へ、イオスは杖を強く握り直してさらに魔力を押し込んだ。
「――はじけとべ!!」
イオスの叫びとともに、青白い光球が一気に弾け跳ぶ。 核を中心に全方位へと駆け抜けた爆炎が、蕾も触手も、周囲の一帯ごと一瞬で蒸発させた。 残されたものは何もなく、煙となって空中に消え去るのみだった。
白い湯気だけが漂い、焦げた匂いが鼻を突く。
森から鳥の声が消えていた。
誰もすぐには口を開かない。
静寂が戻った森の中で、イオスは荒い息をつきながら、自身の完璧な魔法の成果と手に残る熱の余韻に酔いしれていた。
「……やった」
手応えを確かめるように静かに呟き、イオスは頬を緩めた。




