幼少期②「ヘデラとの出会い」
ペロッと舐めて事件性を確認するまでもない。前世から引き継いだオタクとしての嗅覚が脳の奥で激しく警鐘を鳴らしている。
あまりにもストーリーを進めるのに理想的なシチュエーション。前世の血が騒ぎ、思わず鼻息が荒くなりそうになる。
――いや、落ち着けフローリア。ここは画面の向こうじゃない、現実よ。こんな森の奥深くに、具合の悪そうな少年が一人で放置されているなんて怪しさの極みでしょう。
自分も絶賛迷子中であることを棚に上げ、私は少年に気づかれないよう足音を殺して慎重に距離を詰めた。
近づくにつれて彼の異変はより鮮明になっていく。
手で胸元を抉るように押さえ込みながら、肩を大きく上下させている。
「……はぁ……っ、……」
掠れた喘鳴が静まり返った森の中に心細く漏れる。
紙のように白い顔色。額には脂汗が滲み、淡い色の前髪が張り付いているのが見えた。
(……本当に具合が悪そう)
森の深奥にこんな衰弱した少年が一人きり。どう考えても訳ありの気配しかしないし、関わったら面倒なことになりそうなのは目に見えている。
けれど今にも消え入りそうな少年の横顔を前に私は息を吐いた。
(いや、無視なんてできないでしょ。後味の悪いバッドエンドなんて、前世からずっとお断りなんだから)
私は意を決した。隠れるのをやめ、わざと一歩を大きく踏み出す。
「大丈夫ですか?」
ジャリ、と土を踏みしめ、少し離れた位置で足を止めた。私は警戒を解かないまま少年に声をかける。
「だ、れだ……」
少年が重たげな首をゆっくりと持ち上げた。少し長めの前髪。その隙間から、潤んだ透き通る色の瞳が覗く。
少年の唇から漏れたのは、今にも風に掻き消されそうなか細い声だった。
「ッ!」
その瞬間、私の脳天を雷が貫いた。あまりの衝撃に肺の空気が一瞬、すべて止まった。
「お……!」
――推せる……!
脳内で祝福か警告か判別のつかない鐘が派手に打ち鳴らされた。
最悪の状況で最高に「癖」に刺さる逸材と出会ってしまった。その事実に打ち震え、熱を帯びた吐息が静まり返った森の空気に溶けていく。
「――って、違う違う! 不謹慎すぎる私!」
ぶんぶんと首を振って邪念を消す。
「大丈夫ですか? すごい顔色ですよ」
数歩詰め寄った距離で改めて見る彼は、もはや生きているのが不思議なくらいだった。生気を失った白い肌が陽光を弾き、浮かんだ脂汗がその輪郭をよりいっそう危うく、脆いものに見せている。
今にもこの世に繋ぎ止めている糸が切れて崩れ落ちそうだ。
想像を遥かに超えていた死の気配の濃さに、さっきまでの警戒心とオタク心は霧散した。
私は吸い寄せられるように、その危うい命へと手を伸ばす。
少年は少し驚いたように目を丸くすると、荒げた息を吐き出しながら私の手を振り払う。
「ッ触るな……っ……」
拒絶と呼ぶにはあまりに弱々しい反撃だった。軽い音を立てて叩かれた手に痛みは一切感じない。
それが少年の最後の力だった。
振り払った反動のまま全ての抗う力が失われ、糸が切れた人形のように少年の体がぐらりとこちらへ傾いだ。
「危なっ――!」
咄嗟に腕を伸ばしその体を受け止める。
だが意識の混濁した少年の体は重石となってのしかかってきた。その重さに耐えきれず体勢が崩れる。
私は少年を抱き寄せ、そのまま地面へと倒れ込んだ。
「~ッ!」
地面に叩きつけられた衝撃に思わず涙が滲んだ。
だが、その痛みを堪えて少年の肩を揺さぶる。
「ね、ねぇ、ちょっと大丈夫ですか!」
押し潰された体勢から抜け出そうと、もぞもぞと身をよじる。
そのわずかな揺れに反応するように、少年のまぶたがピクリと震えたのが視界の端に映った。
私は慌てて体を起こし、四つん這いのまま彼の顔を覗き込む。
重たげに持ち上がった瞼の奥。少年のその瞳は焦点を結ばないまま、どこか遠くを彷徨っていた。
「……ぃ……」
「え?」
掠れた声が途切れ途切れにこぼれた。
「……た、い……」
――たい……?
零れた言葉を拾おうと私はそっと耳を寄せる。けれど少年のまぶたはそのまま力なく閉じられた。
少年のまつ毛の端にぷつりと小さな雫が滲む。それは汗と混じりゆっくりと肌をなぞった。透明な筋を描いて頬を伝い静かに落ちていく。
「ちょっと、しっかりして!」
叫ぶ私を置き去りに彼からの反応は完全に途絶えた。
私は縋る思いで彼の口元へ耳を寄せる。
(良かった。まだ息はある)
わずかに開いた唇からかろうじて空気が震えるのを感じた。けれどその呼吸はひどく浅い。
指先で触れれば壊れてしまう薄氷のような危うさ。その呼吸はあまりに細く、今この瞬間にも途絶えてしまうのではないかと錯覚した。
(このままじゃまずい。……本当に、死んじゃう)
恐怖を振り払い、私は顔を上げて胸いっぱいに空気を吸い込む。
「誰か――! 誰かいませんか!」
張り裂けんばかりの絶叫。
だが広大な森は冷ややかな沈黙を湛え、その声を深く飲み込んでいった。
人の気配はどこにもない。
風が葉を揺らす音さえ自分を突き放す嘲笑のように響く。
足元から這い上がってきた死の気配が内臓を一つずつ凍らせていくようだった。
「誰かッ! 助けてくださいッ!!」
今度はさっきよりも強く、必死に叫んだ。だが声は森の奥へ吸い込まれ霧散する。
ここには非力な自分と消えかかったこの命しかない。どくん、どくんと耳の奥で自分の鼓動がうるさく跳ねる。じっとりと背中を伝う嫌な汗が服を肌に張り付かせる。
(……どうする)
助けを呼びに戻るか。でも一度この場所を離れ、再び戻れる保証はない。
もしその間に、この子が――。
地面に横たわった少年に視線を落とす。
呼吸の音が遠くに感じる。胸はわずかに上下しているが、それが生きている証だと信じるにはあまりにも弱々しかった。
一刻の猶予もないのは誰の目にも明らかだった。一秒待てば、その分だけ彼が死に近づく。
「……よし!」
小さく息を吐き、私は覚悟を決めた。
「ちょっと失礼します!」
ぐったりとした少年の腕を肩に回し、崩れ落ちようとするその体を引き寄せる。
「……んっ、ぐ……! お、重……!」
背中にのしかかる、容赦のない重み。
この小さな体のすべてに力を込め、私はふらつく膝を地面から引き剥がした。
息を詰め、ふらつく膝をどうにか押し上げる。
奥歯が軋むほどに食いしばり、ようやく立ち上がる。
「ぐうぅ……」
意識のない人間は、生きた人間より重い――。
どこかで聞いたそんな言葉を、今、嫌というほど突きつけられていた。
ぐったりと脱力し私の背に沈み込むその重みとは裏腹に、背中から伝わってくる彼の体温はあまりに生々しい。
(……熱い)
布越しでもはっきりと分かる。彼を蝕む猛烈な熱が私の肌を焼くように伝わってくる。
「……はぁ……っ」
耳元で彼のか細い呼吸が漏れた。
震える熱い吐息が首筋をかすめ、私はたまらずちらりと横を向く。
固く閉じられたまぶた、額に浮かぶ大量の脂汗、そしてそれが糊のように頬へ張りつかせた乱れた髪。
「大丈夫」
そう呟いてから、私はぐっと足に力を入れた。
止まるわけにはいかない。
「絶対、助けるからね!」
返事がないのは分かっている。それでもつい声をかけてしまった。
「だから、もうちょっとだけ頑張って!」
踏み出した歩調に合わせて、少年の腕がだらりと力なく揺れた。




