幼少期①「ペロッ! こ、これは――!」
王都の喧騒から少し離れた場所に私の住む村はあった。
都会ほどの利便性はないが、さりとてド田舎というほどでもない。そんな中途半端な村で私は父と二人で暮らしている。
「おとーさーん! お外で遊んでくる!」
父の返事も聞かず、私は弾かれたように家を飛び出した。
外に出た瞬間、肌を撫でる風が頬をくすぐる。どこか湿り気を帯びた土の匂いと干したばかりの布の柔らかな香りが混ざり合い、胸いっぱいに広がった。遠くでは薪を割る乾いた音が響き、子供たちのはしゃぐ声がそれに重なる。
背後で「待て、フローリア!」と父の声が聞こえた気がしたが私の足は止まらなかった。
だってこの世界、知らないことだらけなんだもの。
前世を思い出してからの私は確実に精神年齢は上がっているはずなのに、器であるこの体が勝手にうずきだす。
落ち着き払った大人であろうとする過去の自分と、未知への期待に胸を膨らませる|未来の私。
けれど子供特有の有り余るエネルギーに引きずられるように、私の思考もどんどん傾いていく。今や私の内側では好奇心だけが弾けている。
あっちへ行っては茂みを覗き込み、こっちへ行っては見慣れないものに手を伸ばす。小さな体でせわしなく動き回り、視界に映るすべてを片っ端から五感で確かめていく。
草を踏むたびに青くみずみずしい匂いが立ち上る。足首に触れる葉がくすぐったくて思わず笑みがこぼれる。指先で触れた木の幹はざらついていて、ところどころに苔が生え、しっとりとした冷たさを帯びている。木漏れ日が揺れるたびに、地面に落ちる影の模様が形を変える。風が吹くたびに葉が擦れ合い、さわさわと心地よい音を奏でる。
図鑑では見たことのない奇妙な植物。
毒々しいほど鮮やかな色彩の果実。
空を泳ぐように羽ばたく、鱗に覆われた極彩色の鳥。
そしてお伽話ではなく語られる“貴族”や“王族”たちの存在。
どれもこれも前世では画面の向こう側の「設定」に過ぎなかったものばかりだ。それが今は、手を伸ばせば触れられる距離にある。
新しい人生も、この景色も、何もかもが粒子を撒いたように輝いて見えた。
「こんな世界、じっとして見てるだけなんてもったいない!」
前世の私は勉強なんて将来何の役に立つんだろうと、どこか穿った目で子供時代を過ごした。
実際、社会に出てから使う知識なんてほんの一部だし、それよりも実用的なことを教えてほしいと複雑な税金を見ては嘆いていたくらいだ。
だけど――。
いろんなものを知るたびに、世界の見え方が少しずつ変わっていく。
ばらばらだった点と点が、ふいに繋がる瞬間がある。
そのたびに、目の前の景色が前よりもずっと鮮やかに見えた。
――ああ、勉強が仕事だと言われるうちに、もっとちゃんとやっておけばよかった。
それに気づいてから後悔したのは、一度や二度じゃない。
だからこそ今度は逃したくないと、私は気の向くままに駆けていく。
「お?」
すると、ふと視線を落とした先でそれを見つけた。
足元の低木に小さな赤い実がいくつもなっているのを見つける。
つやつやと光るそれを見て、ふと昔の記憶がよぎった。
「この世界にもこういうのあるんだ。懐かしいな」
小学校の帰り道、道端で見つけてはつまんでいたあの実にそっくりだ。指先でそっと摘まみ上げると、柔らかな皮の奥に確かな弾力を感じた。
「味も同じなのかな?」
実に顔を近づけて匂いを嗅ぐと、ほのかに甘い香りがする。
けれどそれだけじゃよくわからない。
「んー……?」
まぁ一つくらいなら、と軽い気持ちで口に放り込み、一口齧った瞬間。
「……っ、すっぱーーーーッ!!」
脳天を突き抜けるような刺激に、唾液が一気に溢れ出す。
奥歯にぐっと力が入り、反射的に目をぎゅっと閉じた。舌の上で弾けた強烈な酸味に頬の奥がきゅうっと縮こまる。梅干しやレモンを丸かじりしたときみたいな感覚に涙目になりながらもなんとか飲み込む。
「えー、なにこれ……面白い!」
酸味で顔をしかめながらも、私は舌の上でその余韻を転がした。この甘く芳醇な香りの裏に、これほどの酸味を隠し持っているとは。
未熟なのか、それともこういう特性なのか――。
いや。もしかして、安易に動物に食べられないための防衛として進化したのだろうか。けれど植物が種子を遠くへ運ぶなら、動物に美味しいと思わせて食べてもらう方が効率がいいはずだ。
何か別の理由があるのか、それとも特定の動物だけをターゲットにしているのか……。
「他にも何かあるのかな」
期待に胸を膨らませて周囲を見回した。
ざわめく木々の間に目を凝らすと、少し奥の方に見慣れない実がなっているのが見えた。
「ちょっと見に行ってみよう!」
気になるものを見つけては足を止め、また別の好奇心に引かれて進む。
そんなふうに歩き回っているうちに――ふと、違和感を覚えた。
最初に気づいたのは、音だった。さっきまで聞こえていた鳥の声がいつの間にか消えている。
足を止めて、振り返る。
来たはずの道は、もうどこにもなかった。
「あれ?」
顔を上げ、周囲を見渡す。
いつの間にか、村の周辺にはない背の高い見慣れない木々が壁のように並んでいた。幹は太く、空を覆い隠すように枝葉を広げ、光はわずかにしか差し込まず薄暗い。
「……ここ、どこだ?」
きょろきょろと辺りを見回す。来たはずの道も、それらしい目印も見当たらない。
「うーん、これは完全に迷子」
気づけば私は、村の外れへと続く道を駆けていたらしい。
「まぁ、歩いてればどこかに出るか、人に出会うでしょ!」
少し首を傾げただけで、あっさりとそう結論づける。
前世と今世が変な風に混ざり合っているせいか、私は今の状況に焦るよりも楽観的な思考になっていた。
未知の場所は、それだけで宝箱だ。
私は引き返すどころか、迷いなく森の深淵へと足を踏み入れた。
進むほどに、空気の質が変わっていく。肺に入る空気は少し重く、ひやりと湿っていた。
足元の草を踏みしめる音。自分の規則正しい足音。それだけが、静まり返った森の中に響いている。
葉と葉が擦れる音がさっきよりも近く感じた。まるで森そのものが、息を潜めてこちらを見ているみたいだ。
「ん?」
ふと視線の先に、木々が密集する奥に不自然な“空白”を捉えた。生い茂る木々の隙間。その奥にぽっかりと開けた空間がある。
差し込む光の角度が明らかに違う。
私は息を呑み、吸い寄せられるように一歩を踏み出した。
「こ、これはッ……!」
目を瞠った私の視界に一人の少年が飛び込んできた。
木に体を預け、深く折り曲げた背中は今にも崩れ落ちそうになっていた。
ひらり、と。どこからか舞い込んだ木の葉が私の視界を横切る。
その向こうで開けた場所に差し込む陽光が斑な光となって少年の背をなぞった。
深い緑に沈んだ森の中で、そこだけが不自然に明るい。
光に切り取られたその場所で、まるで舞台に立たされた役者のように少年が孤独に佇んでいた。
――イベントの香りだ!




