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絶望候補そのいち「ヘデラ」

「お前さぁ、その涙ってのは幸せの涙じゃダメなのかよ」


 呆れを隠そうともしない師匠の声が、剣修場の空気をそのまま叩いた。私は顎に指を当て「……うーん?」と唸る。少しだけ視線を上に逃がし、答えを探すように首をひねる。


「幸せを知ってる人が絶望して生まれた涙が美しいのであって、涙そのものが美しいわけじゃないというか……」

「世界の真理を悟る前に、お前の心理どうにかしろよ」


 はぁ、と露骨なため息を吐かれる。

 師匠は太い腕を組み、理解しがたい異物を見る眼差しで私を凝視した。そこには困惑が色濃く混じっている。

 

「お前がそんなんだから、あいつがああなんだよ」

「あいつ……って、ヘデラのことですか?」

 

 問い返すと師匠はわずかに眉を寄せた。その視線には呆れを通り越した哀れみが色が濃く混じっている。

 

「お前ら、仲いいんだろ?」

「ヘデラがどう思ってるかはわからないですけど、私はヘデラと仲がいいって思ってますよ!」


 ヘデラと知り合ってから、もう随分と長い月日が経つ。出会った当初こそ距離はあった。だけど一度打ち解けてからは喧嘩らしい喧嘩をしたことは一度もなく、今でも顔を合わせれば当たり前のように言葉を交わすくらいには仲がいい。

 思春期という多感な時期を迎えても、異性であることを理由に関係がこじれたことはない。

 この変わらぬ距離感を保てているのは、前世の記憶ゆえに精神が冷めきっている私と、同年代とは思えないほど大人びたヘデラ。この二人の絶妙なバランスの賜物だろう。


「俺もフローリアのこと好きだよ」

「え?」


 そう自信満々に断言した、まさにその瞬間だった。

 背後から耳に心地よい柔らかな声が響く。反射的に振り返ったそこには、彼が立っていた。

 

「ヘデラ!」

 

 片手を上げて近づいてくる姿を認めた瞬間、パッと視界が開けるような錯覚に陥る。

 陽光を透かしてきらきらと揺れる淡い色の髪。彼が一歩足を踏み入れるだけで、剣修場の埃っぽい空気が一瞬にして澄んだ水のように浄化された気がした。

 

「やぁ、フローリア」

 

 まるで太陽そのものを背負っているみたいな眩しさに、私は思わず目を細める。そんな私の動揺なんてお見通しだと言わんばかりに、彼はどこまでも穏やかに微笑んでいた。


「今日も頑張ってるね」

「強くなるためには日々研鑽積まなきゃだから!」

「君はいつも全力だね」


 むん、と二の腕を掲げると、ヘデラがくすりと笑った。


「筋肉はすべてを解決するからね!」

「んなわけないだろうが」

 

 胸を張った私に、師匠の鋭いツッコミが飛んできた。

 ふむ。どうやら師匠は筋肉への理解が足りていないようだ。

 私はやれやれと大げさに首を振った。そのまま、びしっと真っ直ぐに師匠へ指を突きつける。

 

「いーえ!  師匠のその筋肉こそが何よりの証拠です!」


 言うが早いか、私は師匠の二の腕を両手でむにっと掴み取った。

 指先を力強く跳ね返す圧倒的な弾力。皮膚の下にぎっしりと詰まった鋼のような密度。

 私もそれなりにトレーニングを積んできた自負はある。けれど指から伝わるこの本物の質感は、単なる鍛錬だけでは決して埋められない天賦の差を無慈悲なほど雄弁に語っていた。


「この筋肉が、これまで数多の困難を解決してきたことを私は知っています!」

「おい、気持ち悪いんだよ! 人の腕を勝手に触るな!」

 

 鼻先が触れるほどの距離で筋肉の造形美を愛でようとしたところで、分厚い掌に顔面を鷲掴みにされる。ぐいぐいと力任せに押し戻されながらも、私は潰された口から必死に熱弁を振るい続けた。

 

「いいじゃないでふか~! わらしとひひょーの仲なのに!」

「ガキに触られても嬉しくないんだよ。こいつの腕でも触っとけ!」


 顎で示されたヘデラを一瞥し、私はまるで心外だと言わんばかりに小さく首を横に振る。


「ヘデラのですか? そんな親しき中にも礼儀ありっていうじゃないですか! 異性の腕を無遠慮に触るなんて、はしたないじゃないですか」

「……あぁ?」


 どの口がそれを言うのかと、地を這うような師匠の低い声が漏れる。

 きっと子供が見たら泣きわめきそうな凄みに私はあっけからんと笑う


「師匠! 筋肉だけじゃなくてデリカシーも鍛えたほうが良いですよ!」

「お前、俺には礼儀がねぇのか? それとも親しくしたくないってことか?」

「それこそ違いますよ! だって師匠はもう、私にとって家族みたいな存在ですもん!」


 迷いなく言い切る。

 師匠に対して余計な遠慮なんて、今はもう持ち合わせていない。羞恥をかなぐり捨てて駄々をこねられる、数少ない相手だ。


「……お前、そういうところだぞ」

「たまにふらっとくる親戚のおじさんみたいな!」

「……お前、そういうところだぞ!」


 「誰がおじさんだ!」と、師匠の大きな掌に頭をがしっと掴まれ、グリグリと回される。 「誰がおじさんだ!」と、師匠の大きな掌が頭をがしっと掴む。そのまま容赦なく振り回され、視界がぐらりと揺れた。


「ちょ、ちょっと待ってください! 頭が、頭がもげるー!」

「フローリア」


 騒がしさに割り込むように、ひどく穏やかな声が落ちる。


「……ん? どうしたのヘデラ」 


 髪を乱したまま師匠と不格好な押し問答を続けながら振り返ると、その視線の先でヘデラは静かに微笑んでいた。

 光を透かした淡い髪が、微風にさらりと揺れる。その姿に思わず見入っていると、彼は何も言わずにゆっくりと腕を広げた。


「俺はフローリアになら、いくらでも触らせてあげるよ」

「お、おぉ……」


 それは、乙女ゲームの重要スチルでも見せられているかのような光景だった。あまりの眩しさに呆気に取られたまま、間の抜けた感嘆が漏れる。

 柔らかな仕草の奥に滲む、揺るぎない確信。こちらの抗う理由をことごとく吸い取っていくような、抗いがたい誘い。網膜をそして思考を丸ごと支配していくその美しさ。

 

「これが……無料……?」


 こちとら風が吹けばただ髪がボサボサになるだけだというのに、イケメンというのはどうしてこうも、自然環境さえも演出の味方につけてしまうのか。作画の気合をもう少し見せてほしい。私だってこの世界に生きる登場人物のはずなのに。

 あまりの尊さに思わず合掌してしまった私の傍らで、師匠が「……ここには怖ぇ奴しかいねぇのかよ」と、遠い目をしてぼそりと呟いた。

 だが、その乾いた声すら今の私には届かない。私はただ魔法にかけられたようにヘデラを凝視していた。

 非の打ち所のない、整った顔立ち。

 すらりと伸びた四肢に、しなやかな躍動を秘めた無駄のない筋肉。

 穏やかで、余裕に満ちていて。いつどの瞬間を切り取っても崩れそうにない佇まい。


 (あ~~~~! 私の健康に良すぎる!)

 

 流石、私の絶望顔候補の一人だ。面構えが違う。

 顔面の強い人間というのは、ただそこに存在しているだけで、周囲に良質な健康成分を振りまいてくれる。

 この場にヘデラがいる。それだけで私の胸の奥がじんわりと満たされていくのが分かった。

 ――でも。

 だからこそ、私の中の暗い欲望が鎌首をもたげる。

 これほどまでに綺麗な顔が劇的に崩れる瞬間。そのとき彼は、一体どんな表情を浮かべるのだろう。

 余裕を剥ぎ取られて焦るのか。絶望に言葉を失うのか――それとも、形振り構わずぐしゃぐしゃに泣き喚くのか。


「くそっ! なんで私の命は一つなんだ……!」


 あまりの口惜しさに、私はその場に膝をついて地面を叩いた。

 だが、ふと天啓を受けたように勢いよく顔を上げる。

 

「死に際を何回も繰り返せば、それぞれの絶望顔コレクション作れるんじゃない!?」


 世紀の発見でもしたかのように高揚する私に、師匠の極めて温度の低い声が降りかかった。

 

「色んな種類の絶望顔を拝もうとするな。趣味が悪いのは一つにしとけ」

「そんな殺生な……!」


 思わず抗議の声が漏れる。

 一般人からすれば、オタクとは往々にして逸般人なのだ。対象が何であれ、私たちの探求は一度では終わらない。一周目で本編を楽しみ、二周目、三周目と泥沼に足を踏み入れては、隠し要素を暴いて満足の境地に至る。

 推しグッズのコンプリートはほどほど。でもゲームは推しをコンプリートすることが醍醐味。なのにどうして分かってくれないのか。

 

「それは相手側のセリフだろ。被害者を増やそうとするな」

「……そう、ですよね。絶望って噛めば噛むほど深みが出るタイプじゃなくて、最初の味だからこその深みですもんね……」

「いや、知らねぇよ」


 確かに師匠の言うとおりだ。最初の一人というのはどうしたって特別になってしまうものだ。

 どれだけ条件を揃えたところで、それを超える“スチル”なんてそう簡単に得られるものじゃない。


 ――となると、やはり質を突き詰めるべきか。


 無意識に視線がヘデラの顔をなぞる。

 視線が絡み合った途端、彼から柔らかな微笑みが返ってくる。

 この微笑みが崩れる瞬間を私は渇望している。脳裏をよぎるのは、まだ見ぬ“最高の一枚”だ。

 完璧な仮面が剥がれ落ちる、その決定的な瞬間。


「だいたい、どうやって残すつもりだよ。絶望してる相手を前に記念撮影でもするつもりか? 」


 降り注ぐ師匠の呆れ声。その一言が、私の意識を強制的に現実へ引きずり戻した。

 

「そんなわけないじゃないですか! 悲しんでる人にカメラ向けるとか、流石に人としてどうかしてますよ。想い出はいつだって心の中に残るものですよ」


 私は胸にそっと両手を当てる。

 祈るように目を伏せ、穏やかな微笑みを師匠へと向けた。

 

「もう嫌なんだけど……なんでこいつ俺がおかしいやつみたいに言ってくんの?」


 もはや自分一人では手に負えないと悟ったのか、師匠が助けを求めるようにヘデラを指差す。

 向けられた悲痛な視線を受けて、ヘデラはわずかに目を細め静かに微笑んだ。


「フローリアのことは俺が一番よく知っている」

「あ゛ーやめやめっ! 俺が悪かったから、とんちきコンビはこれ以上、場を荒らすな!」

 

 師匠が頭を掻きむしって吠える。

 そんな二人のやり取りを、私はぼんやりと見つめる。そして思った。

 

 (……ゲーム画面みたいに、幸福度ゲージが表示されたらいいのになぁ)


 推しの絶望顔というのは、ただ悲しんでいればいいというわけではない。

 そこに至るまでの『幸せの積み重ね』。

 「自分こそが世界で一番幸せだ」と信じ切った瞬間に足元が崩れ去るからこそ、あの宝石のような涙が生まれるのだ。


 今の彼には、まだ幸せの余地があるように見える。

 それだと私がいなくなっても、彼はその美しさを保ったまま、静かに悲しむだけかもしれない。

 私が欲しいのは、そんな綺麗な別れじゃない。

 もっと、もっと。

 私という存在が彼の血肉になり、呼吸になり、世界のすべてになってから。

 

 ――フローリアがいない世界なんて、息をする意味もない。

 

 推しがそう思い詰めるまで、極限の『幸せ』を詰め込んで発酵させなきゃいけない。

 

「……フローリア?」


 名を呼ばれて、意識が引き戻される。気づけば、すぐ目の前にヘデラの顔があった。

 のぞき込むように屈められたその距離の近さに、わずかに息が詰まる。視線が絡み、透き通った瞳の奥に自分の姿がはっきりと映り込んでいた。


「いや、なんでもない!」

 

 慌てて首を振り、その圧迫感から逃れるため身を引いた。反射的に顔を上げると背筋を伸ばした彼を見上げる形になり、そこで以前よりも格段に高くなった目線に気づいた。

 

「それにしてもヘデラ大きくなったねぇ」


 しみじみと呟く私にヘデラが首を傾げる。

 

「そうかな?」

「そうだよ! 背も伸びたし、いい筋肉もついてる。なんか嫉妬しちゃうな」


 昔は私の方が背が高かったのに、今ではこうして見上げる側になっている。

 出会った頃の面影を探すのが難しいほど、彼は随分と立派に育った。


「でもヘデラが元気になってよかった!」

 

 彼は少しだけ目を見開き、それからゆっくりと慈しむように目を細めた。


「フローリアのおかげだよ」


 静かで密やかな声だった。

 その微笑みに乗せて届けられた言葉には、心根を蕩かすような柔らかな体温が宿っていた。

 

 ふと、かすかに甘い香りが鼻腔をくすぐる。風が運んできたものか、それとも彼自身から放たれているものか。

 目の前にいるのは、すっかり大人びた青年。

 それでも時折見せる仕草や穏やかな笑い方には、あの頃の儚い少年時代が確かに息づいている。


(そうか。あれから、もう十年経つのか)

 

 長いようで、振り返れば瞬きと思える歳月。

 脳裏に鮮やかに蘇るのは、まだ私たちが幼かったあの日の光景だ。

 深い森の中で力なく倒れていた彼を私が見つけた。あの日出会った少年こそがヘデラだった。


 それは記念すべき“絶望顔候補”一人目との邂逅でもあった。

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