1話
その日は、入学式翌日にしてはあまりにも肌寒すぎる日だった。
赤いチューリップの花壇や桜の木が並ぶ通学路を、真新しい制服を身に纏った三人が自宅に向かって歩いている。
冷たい風が吹く度に自然と身を寄せ合う、華鳥学園中等部の茶色いブレザー姿も相まって、まるでみたらし団子のようだ。
「さっむーい!早く帰りたーい!てかもう4月なのにこの寒さなに!?ポカポカ陽気のなかお花見とかする季節なのに!!?」
ゔぅゔ…と最後に震え声を残して、早川鈴芽は声をあげた。
外の風に触らないように、両手とも握ってブレザーの袖口に入れる。
成長を見越してジャストサイズではなく、多少オーバー気味に購入した自身の母に感謝した。
鈴芽の左隣を歩く少女、稲村夏乃は目線を上げて薄桃色の花を見る。
「お花見、春休み中に行っておけば良かったね。今日の風でかなり散っちゃいそう」
夏乃の焦茶色の瞳に、無数の花びらが落ちる様子が写っている。
「ほんとそれ!あ、てかそれなら今からする?コンビニでお菓子調達していつもの公園でさ!」
「数秒前まで帰りたがってた奴の台詞じゃないだろ」
鈴芽がナイスアイデアと言わんばかりに閃いた唐突なお花見会だったが、彼女の右隣の少年から否定の言葉が発せられた。
少年はこの三人の中で唯一、ネックウォーマーと手袋といった防寒具を身に付けていた。
その黒いネックウォーマーから更に鈴芽に追撃の一言が出る。
「寒いから俺は嫌」
「もー!ほんとに翼は寒がりなんだから!」
「まぁまぁ。今日はほんとに風が冷たいから、体調崩しちゃうよ。また土曜日とかに改めて計画しよ」
二対一の構図になり、敗北を確信した鈴芽は悔しそうに若干頬を膨らめながらも「まぁ…そうだね」と納得の意を示した。
「じゃあじゃあ、今週土曜は暖かったらお花見!寒かったら翼んちでまったり!それでいい?」
「なんで俺んち?…まぁいいけど」
「決まり!て事でまた明日ねー!」
鈴芽が路から外れ、白い壁の家に入っていく。
三人で話している間に、いつの間にか目的地に到着したようだった。
夏乃、鈴芽、そして霧灯翼はいわゆる幼なじみという関係だ。
華鳥学園から徒歩15分にある住宅地にそれぞれの家がある。
今鈴芽が入っていった早川家の道向かい正面に霧灯家、その隣に稲村家といった構図だ。
新興住宅地で同世代の親が住み始めたからか、この付近の家は同世代の子供が多くいる。
その中でも三人は家同士が間近尚且つ同い年という事もあり、自然と他の同世代の子供たちよりも共に過ごす時間が多い間柄であった。
保育園、小学校はもちろん同じ。今年入学した中学も、三人とも同じ私立華鳥学園だ。
「それじゃ、私も帰るね」
左手に華鳥学園指定の革製鞄、そして右手で自宅玄関前の門に触れ、夏乃は翼に目をやる。
「あ、あぁ…また明日な、夏乃…」
「…?…じゃあね」
どこか不自然に視線を外し歯切れの悪い翼に若干の違和感を持ったが、何となく追求し辛い空気を感じて、夏乃は翼から視線を外し、玄関を見た。
右手で門を押し、身体を自宅へと進ませる。
が、その行動は翼によって制された。
翼が門に置かれていたままの夏乃の右手を、自身の右手で覆ったためである。
「ちょ…っと、やっぱちょっと待って」
夏乃が翼を見る。思ったより近くに翼の身体があって少し驚いた。
ややうつむき加減の彼の表情は、彼の前髪の存在も相まって読み辛い。
不意に夏乃の右手に覆い被さっている翼の右手に、力が入ったのが分かった。
「なに?どうしーーー」
「夏乃、好きだ」
夏乃の言葉に被せるように、翼は言った。
瞬間、翼がパッと顔を上げる。
目があった。彼の瞳は少し潤んでいるように見えた。
「ごめん、びっくりさせて。今日言わなきゃなって思って」
「え…」
「夏乃さ、昨日入学式で新入生代表の挨拶しただろ。それで俺のクラスで、あの代表の子可愛いし頭も良いのかー、良いなーって言ってる奴多くて」
「あ…そ、そうなの…?」
「それで、松尾いるじゃん?小学校一緒だった松尾。そいつが、夏乃はいつもニコニコしてて怒らないし、性格も良いんだぜって言い始めて。やべー欠点ないじゃんって余計みんな盛り上がって。それで今日行ったら、先輩達にも可愛いーって言われてるしさ。それで―――」
ここまで一気に言葉を紡いだ翼は、十中八九極度の緊張状態だったのだろう。
その緊張感は夏乃に伝わっていた。
なので、翼が言葉の途中で不自然に一拍置いても、夏乃は気にはならなかった。
むしろ若干の憐れみすら感じた。
「勝手に焦って、すげーダサい告白した。ごめん」
眉をひそめて、苦しそうな表情の翼。
場当たり的に秘めた思いを口にした事への後悔だろうか。
しかし、夏乃を見据えた瞳は逸らす事なく、また右手も未だに夏乃の手をとらえたままだった。
「……もう一度、ちゃんと言わせてほしい」
風が二人の髪を揺らす。
もう寒がるような余裕は、二人にはなかった。
+++
夜、部屋には主である夏乃の他に、鈴芽と深春がいた。
深春は稲村深春といい、夏乃の実の姉である。
社会人になってから黒かった髪を栗毛に染め、その上パーマをかけて柔らかいふわふわに仕上げた。
日頃は化粧をしているため「夏乃のお姉さん」という印象だが、今のようにパジャマパーティ中は素肌のため、夏乃とよく似ている。
普段は一人暮らししている深春だが、今日のよう
に両親とも『夜勤』の日は夏乃のためにこの家に帰ってきている。
パキッと、鈴芽が棒状のチョコレート菓子を噛んだ音が響いた。
口内に入った分を咀嚼したのちに、夏乃に話しかける。
「で、保留にしたと」
「保留って言うか、返事を先延ばしにしたと言うのが正解で…」
「それを世間一般では保留って言うのよ」
深春がポットに入っているお茶を、透明なガラスカップに注ぎながら言う。
カモミールが香るこのお茶は深春が就労先の先輩からおすすめされたというブレンドティーで、最近ではこの三人のパジャマパーティに欠かせない一品となった。
「というか、私はたまたまその場に遭遇しちゃった訳だけど。鈴芽ちゃんは何で知ってるの?」
「2階の窓から見てたんだよね。だって翼、入学式前入学式当日入学式翌日でだんだんだんだん様子おかしくなってったんだもん」
鈴芽の言葉に夏乃の心臓がドクッと動く。
翼の気持ちに揺れがあった事を、少なくとも2日前には鈴芽は気付いていたのだ。
(私、分からなかった。今までほとんど毎日一緒にいたのに)
悔しい訳ではない。自分が近くの人の機微ですら気付けない人間である事に、ただただ情けないと思った。
「こら、鈴芽ちゃんが来てくれてるのに落ち込まないの」
「まーあたしは意外と空気読む事で有名なスズメチャンだからね!」
深春が諭し、鈴芽が茶化して場の温度を保ってくれる。
これ以上二人に気を遣わせないためにも…と、夏乃は少し口角を上げた。
落ち着くためにカップの中のブレンドティーを口にする。
適温のお茶が口から喉、食道、胃と温めてくれた。
「で、返事はどうするの?スズメチャンサーチ的にはだけど、ぶっちゃけ翼の事意識し始めたのってほんと今だよね」
話の核心に触れる鈴芽。
鈴芽の言う通り、翼を恋愛対象として意識したのは、告白を受けた瞬間からだった。
そもそも夏乃は今まで恋愛感情という物を意識した事がない。
両親が好き同士で結婚したという事もピンとこないし、恋愛ドラマはもちろん他人事。
小学生の頃の同級生が誰を好きだという会話も聞き役に徹しており、「協力して!」と言われてもどう動けばいいのか分からず、結局対象の男子と最低限しか接触しないという所に落ち着いた。
よく分からない事、というのが夏乃の恋愛に対する感情だった。
これがテスト範囲内の問題であれば必死に考え、分かろうとしただろう。
しかしそうではない以上、そこに重きを置くほどの余裕は夏乃にはなかった。
目の前には中学受験、そしてそれを突破してからは更に勉強の道となる。
その結果、恋愛に疎い少女のできあがりであった。
それ故に今回の事は、無防備な箇所を鈍器で殴られたような衝撃だった。
翼の一生懸命な言葉や表情を思い出すと、同じように頬が、心が紅潮してくる。
これが恋なのだろうか。
それとも初めて自身への好意を直に聞いた嬉しさからの舞い上がりだろうか。
どちらか判断できるまでは、簡単に返事をするべきではない。と、夏乃は思う。
そして今思ったままを鈴芽と深春にも告げた。
「まぁ…あまり遅くならないようにね。翼くん待ってるだろうし」
「だねだね。きっと夏乃から返事もらえるまで眠れない日が続くよ〜!」
「あ…あんまりプレッシャーかけないでよ…」
「あー!でも良いなぁ翼!あたしも好きな相手に告白とかしたいなぁ」
「鈴芽ちゃんも好きな人いるの?」
「いるよー!……でも誰とかはないしょ!」
それからはお菓子が減らないほど熱心に、楽しく、三人によるガールズトークが繰り広げられた。
日付が変わろうとする頃、鈴芽の母親から「いつまで遊んでいるの!?」とスマホにメッセージが届いた事により、パジャマパーティはお開きとなった。
三人で急いで片付け、それぞれ自分の部屋や家に帰って行く。
ベッドに横たわり、毛布を全身が隠れるまで被って、夏乃は少し考える。
眠気なんて全くない。
…翼が「好き」って言ってくれて、本当に嬉しかった。
でも、正直…関係が変わりそうな事に不安を感じた。多分嬉しい気持ちより大きかった。
ずっと翼と鈴芽と一緒だったから。
これからも一緒にいたい。
どう返事すれば、これからも一緒にいれるのかな。
「翼の事は、友達として好き」
こう答えれば、きっとこれからも『幼なじみの仲良し』って関係は変わらない。
でもきっと、少しずつ離れて行く。
翼を傷付けてしまう。鈴芽も気を遣ってしまう。
きっとみんな一緒にいるのが疲れてしまう。
それなら、「私も好き」って応える?
鈴芽も好きな人がいるって言っていた。
うまくいけば鈴芽の好きな人も込みで、今まで通り仲良くできるかもしれない。
それにお父さんとお母さんも、翼となら付き合っても何も言わなそう。
翼は私と成績がほぼ同じくらいの評価だし、人当たりもいい。
厳しい人たちだけど、私が成績を落としたり素行不良にならない限りは、付き合いを認めてくれそうだよね。
でも…私の中で、まだ恋とは決まってないのに好きと言うの?
付き合ってから好きになる。って、確か小学校の時に…誰だったかな、誰か言ってた気がするけど。
私は好きになってから付き合いたいな。
……明日の朝、どんな顔で会えばいいんだろう。
夏乃は夜寝る前のルーティンがある。
スマホで朝起きる時間のアラームセットをしたのちに、ベッドの上で身体のストレッチ。
最後に両方の目尻をグリグリと手で力を加える。
中学受験を始めた頃からのルーティンだ。
真面目な性分の夏乃は、やり始めたことは滅多にやめない。
しかし今晩はそのルーティンを行う前に、思慮の途中で眠りについてしまった。
今の時間はとっくに日付が変わった午前1時40分。
今日は夏乃がこの世界から消える日である。
+++
気がついた時には目が開いていた。
オレンジ色のカーテンが朝焼けで更に発光して見える。
夏乃は毛布をめくり、見つけたスマホの画面をつける。
『06:13』の表示と、メッセージアプリの通知があった。
(習慣ってすごいな。アラームつけてないのに、いつも起きてる時間とだいたい同じ。)
そのままスマホのロックを解除し、メッセージアプリのアイコンをタップする。
メッセージは3件。時間が古い順から鈴芽、深春、そして翼からだった。
『鈴芽 04:39
なんかあたしの方が興奮しちゃって、全然寝れないよー!と思ってたら今ちょっと眠くなった!多分朝起きれないから先学校行っててー!』
『深春 05:11
おはよう。仕事行ってくるわね。朝ごはんできてるから、きちんと食べて行くこと。また来ます』
『翼 06:10
おはよ。俺今日早めに学校行ってる。鈴芽にも連絡済み』
鈴芽と深春にはそれぞれ了承した旨の返事を送る。
翼宛ての返信は少し悩んで、『おはよ。気をつけてね、また学校で』と送った。
(いつも通りの返信、できたかな。……もう悩んでもしょうがないよね。準備しよ)
スマホを画面ロックし、ベッドから抜け出した。
春といってもまだまだ寒さが残る日々。夏乃は素早くパジャマを脱ぎ、制服に着替える。
白のワイシャツが冷たく夏乃を覆った。
ジャケット以外の制服を着たのち、夏乃は自室を出て階段を降りる。
1階の洗面台で洗顔などの身支度を整えてからリビングダイニングに向かう。
家族4人が同時に食事を取れる大きさのダイニングテーブルに、1人分のサンドイッチが置かれていた。
深春が出勤前に作ってくれたものだろう。
たまごサンドとハムレタスサンドが皿ごと食品ラップに巻かれていた。
夏乃は1番好きな朝食メニューに心が躍った。
急いで夏乃はキッチンでお湯を沸かし、紅茶パックを入れたカップに注ぐ。
そのカップを持って、サンドイッチの前に座った。
(お姉ちゃん、ありがとう…いただきます)
サンドイッチを頬張りながら、考えるのはやはり昨日のこと。
翼の顔が夏乃の頭に浮かぶ。
(ほんとになんて答えよう。ていうか私、昨日から翼の事ばっかり考えてるけど…これもう好きだったりするのかな。…なんて、安直すぎだよね)
就寝前と変わらない堂々巡りに、せっかくの深春お手製のサンドイッチの味が消える。
結局答えが出ないまま、出発時間となった。
サンドイッチを完食した夏乃は素早く食器類を片付け、制服のジャケットを羽織る。
羽織った瞬間に新品特有の独特な匂いがした。
少し薄れてきているが、自分のものになるにはもう少し付き合っていく必要がありそうだ。
そして登校のお供である鞄を持つ。
玄関前にある鏡で髪の毛や顔の最終チェックをし、靴を履いた。
今日も昨日と同じように寒いだろうか。いや、今日は鈴芽と翼がいない分寒いかもしれないと、若干の寂しさを感じながら玄関扉に手をかける。
(学校で翼と会っても、とりあえずいつも通り…いつも通り。よし)
行ってきますと、誰にも届かない言葉を出して、玄関扉を開けた。
いつも通りの日にすると、夏乃は意気込んだ。
しかしその意気は早速砕け散る事となった。
「……なに、これ」
夏乃の目に飛び込んできたのは、あまりにも普段とは様子の違う玄関ポーチ。
普段白いタイルが貼られている床には、何かが大きく描かれている。
黒っぽい紫色のペンキのような物でべったりと描かれた『それ』は、大きな丸い円の中に沢山の記号が書かれており、ゲームとか漫画に出てくる魔法陣のような物だと、夏乃は思った。
(いたずら、だよね。なんでこんなの書かれて―――)
不意に人の声が聞こえた。
隣の家、翼の家の方からだ。
話している内容ははっきり聞こえてこないが、間違いなく翼の母親と、翼本人の声だ。
(翼、先に行くって言ってたけどまだ行ってなかったんだ……ううん、それよりも)
今夏乃の家には両親も深春もいない。そしてこんな悪質ないたずらは大人に相談するべきだ、と夏乃は判断した。
(迷惑かもしれないけど……ひとまず、翼のお母さんに相談しよう)
そう思い夏乃は現状の写真をスマホで収めたのちに、歩みを進めようとした。
床に描かれた『それ』は大きすぎて、一歩踏まないと外には出られない。
夏乃は『それ』に一歩、足を落とした。
―――瞬間、突風が吹く
「っあ……!!」
凄まじい突風に目が開けられない。
風の音で、周囲の生活音も全て消えた。
たまらず夏乃はその場に膝をつく。
(切られてるみたい…!痛い…っ!!)
こんなに風が痛いと感じたのは初めてだった。
咄嗟に頭を守るように両手で覆う。
早く止んでと祈りながら、どれくらい時間が経っただろう。
ふっと空気が変わったのを感じた。
真夏に屋外からエアコンの効いてる涼しい店に入った時のような、そんな感覚に近い。
空気が変わってから、風も徐々に優しくなる。
夏乃は体勢そのままに目を開いた。
真っ先に目に飛び込んでくるのは、玄関ポーチのタイルにいたずらで描かれた『それ』だ。
しかし、今夏乃の目に映っている『それ』は、白いタイルではなく黄土色の地面に直接の描かれていた。
「……え、」
自宅の玄関ポーチで突風に煽られてから一歩も動いていないはず。
なのに今見ている地面は玄関ポーチのタイルとは全く違うものだ。
記憶が、頭がおかしくなったのだと、夏乃は思った。
ふと視界の隅に、縦に長い影が落ちているのに気がついた。
夏乃は無意識的に、その影の正体を知ろうと顔を上げる。
「……」
影の正体はすぐに分かった。『人』だ。
人が夏乃を見下ろすように、すぐ数歩先に立っている。
まず目がいくのは赤い髪。
そして軍服のような詰襟の白い服。
がっしりとした体型からして男性だろう。
若い風貌だが、夏乃からすると『大人のお兄さん』といった年齢に感じる。
逆光で見えにくいが、目を凝らすとその男性の顔がうかがえた。
穏やかな目尻下がりの眼と裏腹に厳しく吊り上がっている眉。
黄色のような橙色のような、そんな風に光る彼の瞳には、夏乃がしっかりと映っている。
夏乃もそんな彼の瞳をじっと見つめる。
(綺麗……鉄が燃えてる時の色みたい)
中学に上がる前、小学生の頃の最後の理科の授業で見た『鉄の温度変化』の動画を思い出した。
こんな色の瞳があるんだな、カラコンかな。と、半ば現実逃避のような事を考えていると、今まで固く閉じられていた彼の唇が少し動いた。
彼の口から言葉が紡がれようとしている。
が、先に夏乃に届いたのは目の前の彼からの言葉ではなかった。
「――――――!!!!!」
赤髪の彼の後方から、男性の怒声がした。
夏乃には理解できない言葉だったが、あまりにも強い語気に『怒』の感情が含んでいる事は明らかだった。
夏乃は恐る恐る立ち上がり、先ほどの声がした方を確認する。
夏乃の正面には赤髪の彼、そして彼の数歩後ろに短い黒髪の男がいる。黒髪の男は赤髪の彼と同じ年くらいの風貌だ。
そして更に数メートル後ろに、数人の人がいる。
その中央には中年の男性がおり、おそらく彼が先程の怒声の主だろう。
わなわなといった効果音が目に見えるほどに、その表情は怒りを含んでいる。
赤髪の彼が中年の男性の方を向き、頭を下げる。
男性は更に声を荒げた。
夏乃は耳を凝らし、男性の言葉に集中してみるが、やはり単語の一つにも聞き覚えがない。
(全然言葉が分からない……場所も知らないところだし、何がどうなってるの……)
夏乃はあまり首を振らないように目だけを動かして、周囲を観察する。
学校のグラウンドのような地面の砂しかないようなところに、いくつかの木製の机が置かれている。
その机の上には果物や小さめの木の枝、飲み物が入っていそうな細長い土瓶など。
そして夏乃の足元にある黒い紫色のインクで描かれた『それ』。
『それ』はともかく、供え物のように置かれた物品に、夏乃は小さい頃に見た地鎮祭を思い出した。
少し遠くに目をやると大きな建物が見えるが、やはり夏乃には見覚えのない建物だ。
(こんな場所、家の近所にはない。というか、日本っぽくないよね。気を失って、その間に海外に連れて行かれた、とか……?)
身体が、心臓が凍えそうなほどに冷えてきているのが実感できた。
以前これと似たような冷えを感じたのは、中学入試の面接の時で、緊張だとか失敗できない事への恐怖、もし駄目だった時の事を考えての不安からだった。
今感じている冷たさは、それらを更に強くしたようなもので、あまりの寒気に眩暈がしそうだった。
赤髪の彼は無言で頭を下げ続けており、中年の男性の怒りを一身に受けているようだった。
その時、赤髪の彼の近くにいた、黒髪の男が夏乃に歩み寄ってきた。
「――――――」
夏乃に向かって言葉が紡がれた。
おそらく夏乃に何か問うているのだろう。
「……あの、ごめんなさい。言葉が分からなくて……」
そう言いながら夏乃は自身の口に指を当ててから、ゆっくり首を横に振った。
(首を横に振る、がこの人達の中で否定の意味を持つかどうか分からないけど……)
黒髪の男に夏乃の意図が伝わったのかは、夏乃には分からない。
男は夏乃の言葉やボディランゲージが終わるまで待ち、その後夏乃に向かって右手を伸ばしてきた。
夏乃は少し身構えたが、男の手がゆっくりとした速度で動いているため悪意や敵意を感じられなかった。
身体は強張っているが、その場から動かず、男の動きを静観する。
男の右手の終着点は、夏乃の頭部、左耳の上辺りだった。
「どうですか?僕の言葉が分かりますか?」
「え……っ!?」
急に知っている、むしろ日常的に使っている言葉が聞こえた。
咄嗟に驚いて答えられなかったが、慌てて夏乃は男を見て声を出す。
「わ、分かります!」
「良かった。意思疎通の方法はやはり他の魔の者と同様ですね」
男はほっとしたように優しい笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「あなたに聞きたいことがあります。共に来ていただけますか」
「……はい」
雰囲気は柔らかい。が、有無を言わせない強さを夏乃は感じた。
男の見定めるような眼が、夏乃に対する不信感を表していた。
不審者に職務質問をする警察官のような空気を感じる。
「では付いてきてください。リーヴェも行きますよ」
男は夏乃の頭部から手を下ろして歩き出す。
そして、いつの間にか無言で睨みつけるだけの存在になっていた中年の男性に軽く会釈をして、その横を通り過ぎた。
赤髪の男性も深々と頭を下げたのちに、黒髪の男の後ろを付いていく。
夏乃は少し小走りで、彼らの後を追いかけた。同じように中年の男性に向かってお辞儀をして。
瞬間、男性は夏乃を見て目を細める。
嫌悪感を含んだ目線だった。
嫌な雰囲気を持つのは中年の男性だけではない。
「――――――」
男性の近くにいた数人の大人たちは夏乃に、そして彼女の前を歩く赤髪の彼を見て口々に言葉を発している。
相変わらず言葉の意味は夏乃には分からない。
分からないが、分かることもあった。
どうやら自分がここにいるのは、ここにいる誰も望んだ事ではないということ。
では何故自分はここにいるのだろう。
夏乃は目を伏せて、先に進んだ。
今は言葉が通じる黒髪の男と、この中で唯一自分を見てマイナスの感情を出さなかった赤髪の彼の二人についていくしか道はないと夏乃は感じた。




