2話
重厚な扉を開いた先には、大きめのベッドが一つと、テーブルに3〜4人掛け程度の大きさのソファが2台などといった家具が配置されていた。
どれもシンプルな作りで華美な装飾はされていない。
赤髪の彼がズカズカと部屋に入っていき、ソファに腰掛けた。
足を組んで、己のズボンの脇に手をやる。
おそらくポケットの中に入っているものを取ろうとしたのだろうが、不意に夏乃を見て「チッ…」と舌打ちをして手を戻す。
その表情は不機嫌そうに眉をひそめていた。
(結構怖い人…かも)
夏乃が赤髪の彼に怯んでいる横で、黒髪の男がにこりと微笑み、その綺麗な右手でソファを指す。
「座れ」との事なのだろう。
夏乃はおずおずと歩みを進め、赤髪の彼と机を挟んだ向かい側のソファに腰を下ろした。
「――――――」
「―――」
彼らが短く言葉を交わしたのちに、黒髪の男が部屋を出て行った。
この部屋に残されたのは夏乃と赤髪の彼。
言葉が通じないので当然だが、二人とも言葉を発しない。
部屋が静寂に包まれている。
すると赤髪の彼がテーブルにあった水差しを二つのコップに注ぎ、そのうちの一つを夏乃の前に置く。
夏乃は反射的に頭を下げた。
(私の分…入れてくれたんだよね。確かに喉はカラカラだけど……)
夏乃は既に自分の分のコップを手に取り、水を飲んでいる彼を見る。
彼が飲んでいるということは、本当にただの飲料水なのだろう。
だがここがどこかも分からない場所で、出されたコップに注がれた水を飲む気にはなれなかった。
もしかしたら夏乃の方に置かれたこのコップの淵に、毒や他の何かが仕込まれているかもしれない。
彼は善意で水をくれたのだとは思うが、それを信じる根拠が何もないのだ。
夏乃が視線を自身の方に置かれたコップに移してジッとしているのを、赤髪の彼は見ていた。
彼は自身のコップを置き、夏乃側に置いたコップを手に取る。
すると彼はそのコップの水を一気に飲み、水差しの近くに置いてあったナフキンで、彼が口を付けた辺りを拭いた。
そして再度そのコップに水を入れ飲み干すと、同じようにナフキンで拭き、また水を入れて夏乃の前に置く。
コップを置きながら、彼の綺麗な色の瞳が夏乃の眼をジッと見つめている。
彼の一連の動作は、おそらく夏乃を安心させるためのものだろう。
彼女に出したコップに細工をしていない証明に、そのコップで水を飲んだ。
更に飲み口を拭いたナフキンに細工をしていない証明に、二度飲んだのだろう。
最初は分からなかった夏乃だが、二度目の動作の際にその意図に気付いた。
だからコップを手に取り、ゆっくり口に含んだ。
ただの水だろうに、とても美味しく感じる。
夏乃は始めにコップを受け取った時のように会釈をした。
彼に感謝の念が伝わっているかどうかは夏乃には分からない。
彼は夏乃の動作を見た後、相変わらず口は一文字に結んだままで、ふいっと視線を逸らした。
機嫌は良くはなさそうだが、少なくとも怒っている様子はないので良しとする事にした。
夏乃が再びコップに口を付けたとき、コンコンコンと部屋の扉が叩かれる音がした。
「――――――」
黒髪の男が金属製のワゴンを押しながら戻ってきた。
ワゴンの上にはクッキーとティーセットが乗っている。
クッキーはアイシングクッキーのように色とりどりの装飾がされており、いわゆる『映える』ものだ。
男はワゴンを机の傍らに止めて、夏乃の隣に座る。
そして外でしたように、今度は夏乃の右耳の上辺りに撫でるように手を置いた。
「さて。それではお話を聞かせていただきましょうか。リーヴェもこちらに来てください、二度手間になってはかわいそうでしょう?」
「――――――」
「……分かりました。ではお嬢さん」
黒髪の男が夏乃に向き直り言葉を紡ぐ。
「こうして僕とあなたが対話できているのは、僕があなたに合わせた言語でお話しているからではありません」
「え……?」
「魔の者は側頭部を喚ぶ者に触れられている間は、喚ぶ者の言語を理解する事ができます。また、約う者相手では身体のどの部分でも同じ効果があります」
黒髪の男は当たり前の事のようにそう言ったが、夏乃には理解できない部分が大半だった。
(よく分からない単語もあったけど……触れられる事でしゃべってる言葉が分かるようになるって事?そんなファンタジーな事あるの?)
現に黒髪の男の言葉が分かる時は、男の手が必ず夏乃の側頭部にあった。
しかしだからといって、夏乃の生きてきた常識の中では与太話に他ならなかった。
話について来れていない夏乃をそのままに、男は赤髪の彼の方を見て言葉を放つ。
「そして約う者は彼です。……さぁ、説明しましたよ」
男がそう言うと、赤髪の彼はめんどくさそうにゆっくり立ち上がり、夏乃の隣に座り直した。
大人の男二人に挟まれる形になってしまい、少し体がこわばる。
彼は先程と同様に足を組み直して、夏乃の膝に置かれている手の甲に自身の指を一本だけ重ねた。
「アルベリク・リーヴェという。ここ、アルベリク領領主の長男だ」
アルベリク・リーヴェ。
それが赤髪の彼の名前だと理解するまで、そう時間はかからなかった。
洋名のようなニュアンスだが、『アルベリク領』という事は、リーヴェの方が名前なのだろう。
まだまだ触れると対話できるようになるという不可思議な事は信じ切れないが、ひとまず夏乃は言葉を発する。
「稲村夏乃と申します」
実のところ本名を言うか否か少し迷いはあったが、夏乃は伝えた。
自身に対する第一声が名乗りである事に、少なからず誠意が見えたからだ。
それに、彼には先程の件もあった。
「リーヴェさん。さっきはお水、ありがとうございました」
「俺が喉乾いてたんだよ。『ついで』だ」
表情と同じく、ツンとした言葉遣い。
けれどそれとは裏腹に、リーヴェからは細やかな心遣いを感じていた。
水の件もだが、黒髪の男が対話方法について伝えるまで、夏乃の身体に一切触れなかった事。
リーヴェや黒髪の男から見ると夏乃はまだまだ子供だろう。
けれど子供相手でも、『言葉が通じるようになる』という利点があるにもかかわらず、説明前に触れて来なかった事に好感が持てた。
加えて彼の仏頂面が、善意のふりをした悪意の可能性を吹き消していた。
まだまだ油断は許されない状況だが、そんな中でもリーヴェの事は信用できる人物なように思える。
「お前も名乗れ」
「はいはい。……クリス・フェインと申します」
「フェインさん…」
「はい、それで結構です。それでは本題に入りますね。まず前提として聞いていただきたいのですが、あなたがここにいる事は我々にとって予想外の出来事です」
彼らにとって夏乃がいる事が予想外と言う事自体が、夏乃にとって衝撃だった。
外の雰囲気からして確かに歓迎されている感じではなかったが、あんな殺風景の場所に行くには、だれかの手がないと不可能だろうと思っていたからだ。
フェインは続ける。
「ですがまぁ…僕はおおよその検討がついています。その説明を分かりやすくするためにこうしてクッキーも持ってきたんですよ」
「クッキー?」
「ひとまずあなたが感じたままの状況を教えてください。そうですね…あなたの日常が非日常に変わる前後の出来事を聞かせていただければ。おそらくそれで、僕の中で答え合わせができるので」
+++
夏乃は今朝の出来事を彼らに話した。
今日の朝急に玄関に『それ』が描かれていたこと。
そして突風が吹き、眼を閉じてしゃがみ込んだこと。
風が止んで眼を開けると、タイルが砂の大地に変わっていたこと。
「なるほど。……二つ質問させてください。まず、あなたが言う『それ』は、あなたの世界ではよく知られている物ですか?」
「違うと思います。少なくとも私は初めて見ました」
「では二つ目。異世界についてはいかがですか?」
「異世界……ですか?どうと聞かれても……創造物というか、実在しない、空想上の物だとしか……」
「分かりました。お話いただき感謝申し上げます」
フェインは薄く笑みを浮かべた。
そしておもむろに立ち上がり、ワゴンの上にあるティーセットを手に取る。
ポットから温かい茶がカップに注がれた。
「おい、なに勿体ぶってやがる。先に結論を話せ」
「――――――」
「こいつも俺もいらないから早く座れ」
夏乃が話し始めてから再び口を閉ざしていたリーヴェだったが、マイペースに茶を飲み出したフェインに苛立ちを感じたようで、強い口調を放つ。
フェインはソーサラーごとカップを持ち、ソファの前の机に丁寧に置いたのちに、ソファに座り直した。
そしてもう一度夏乃の側頭部に触れて、にこりと微笑む。
優しく穏やかな笑みに見えるが、このタイミングでの微笑みは、夏乃にとって気味悪く感じた。
「では結論を申し上げます。あくまで僕の仮説にはなるので確定ではないですが……まぁ間違いはないでしょう」
フェインの唇がゆっくりと動く。
「禁断の術と途轍もない悪意があなたをこちらの世界に飛ばしてきたようです。あなた、その歳で相当恨まれてたんですね」
息をするのを忘れたかのように、夏乃の身体は硬直した。
言葉は理解できる、だが意味が理解できなかった。
「……悪……意…?恨まれてたって、え……?」
「詳しく話せ」
「それはあなたにですか?それとも彼女に?」
「こいつに分かるように説明すれば俺にも分かる」
「ではリーヴェにとっては少し長くなりますよ」
フェインはカップを手に取り、少量の茶を飲んでから説明を始めた。
今あなたがいるこのアルベリク領は、レグナシアという国の中にあります。
レグナシアはこの世界では一番大きな土地の国ですが、ご存知でしょうか?
……知りませんよね。当然です。
ここはあなたが暮らしていた世界とは異なる世界になりますからね。
話を戻しますが、ここレグナシアでは建国当時より一つ、大きな問題を抱えています。
それは深淵より現れし魔獣との争い。
魔獣は時に人を襲い、土地を荒らします。
人力だけでは不利な戦いを強いられた末に、人々が頼ったのは召喚術。
異世界から力のある者を喚びよせる術でした。
異なる世界から喚ぶだなんて反則技、信じられませんよね。
それが何故か使えたのがこの国の創造主たるクリス家初代……僕の先祖です。
それから代々クリス家は、召喚術を使い魔獣と戦える力を生み出してきたのです。
そして魔獣を使う者を筆頭に、今もなお人と魔獣の戦いは続いています。
「……と、ここまでがこの国の歴史と現状ですね。どうでしょう、理解できましたか?」
夏乃にとってはフィクションのような話だった。
正直今の説明が現実に起こっている事だとは思えないが、フェインが冗談を言っているとも思えない。
ここで信じられないと言っても話は進まないだろうと思い、夏乃は首を縦に振った。
「よかった。それでは次にこの術の説明をいたします」
まず、術を発動する人物が『喚ぶ者』、異世界よりの転移者を『魔の者』、そして魔の者と関係を結ぶ人物を『約う者』としています。
本来であれば、魔の者の力の強さは、約う者の強さと足りない才により決まります。
例えば今アルベリク領と呼ばれているこの地ですが、代々護る力、耐える力に特化した兵士を育成輩出をしている土地です。
ただそれらの力が突出するあまり、足りない力があります。
――――――攻める力です。
これは攻める力が強い魔の者を喚ぶために、あえてそのように育成しているのです。
「今回の術の『喚ぶ者』は僕、そして『約う者』はここにいるリーヴェです。こう見えても彼、近年一の護り人と賞賛されていてですね、模擬戦で彼がいる組は毎回難攻不落と化すんですよ」
そう紹介され、夏乃はちらりとリーヴェを見る。
今は気怠げにソファにもたれて座っているが、確かにガッチリとした良い体格をしている。
それでいて現領主の息子と言っていた。
(なるほど……それで…)
夏乃は自身がこの地に着いた時に見た、中年の男性の様子を思い出した。
激怒の中に見た、自身への失望のような眼。
「みんなリーヴェさんとフェインさんが喚ぶ魔の者に期待していたんですね」
「そうです。特に領主…リーヴェのお父上は大変ご立腹で。……まぁ彼の場合は自身の身分を危惧してでしょうが」
大変ご立腹のお父上と言うのは、やはりあの時リーヴェを叱咤していた中年の男性の事だろう。
「親父の事は放っておけ。今は領主の肩書きに固執しているだけのクソジジイだ」
リーヴェがそう言い放つ。
夏乃たちの方を見ずに窓を向いているため表情は分からないが、その言葉には冷たいトゲがあるように夏乃は感じた。
リーヴェの魔の者が領主の肩書きに影響があるという事だが、おそらく魔の者の強さか、それを含めた兵士と魔の者のタッグの強さで領地を治める者を決めているのかもしれない。
そして十中八九、リーヴェが次期領主の筆頭候補だったのだろう。
夏乃は自身がここに来た影響が意外な所にある可能性に気付き、狼狽した。
しかしリーヴェに何と言えばいいのか、言葉が出ない。
「……ごめ」
「言っておくが、俺は領主なんざ興味ねぇよ」
絞り出されようとしていた謝罪の言葉を遮る形で、リーヴェは声を出す。
「生憎テメェの周辺守るだけで手一杯でな。それに」
リーヴェは一旦言葉を止めて、夏乃の目をじっと見た。
険しい表情に夏乃は体を強張らせる。
「その場やり過ごす為だけの、スカスカの謝罪もいらねぇよ」
確かに先程出かかった謝罪はその場しのぎのものだった。
夏乃自身、ここに来てしまった理由がまだ不確かだからだ。
フェインから怨恨によるものだと聞いたが、まだ詳しい事情は教えてもらっていない。
そんな状態なのに、話の流れで気まずい空気になっただけで謝罪と言いそうになった。
適当な謝罪を口にしかけた事を咎める彼は厳しくもあり、やはり優しい人間だと夏乃は思えた。
「……ごめんなさい」
夏乃はリーヴェの目を見てそう言った。
謝罪を咎められての謝罪は適切だろうかと一瞬思ったが、今の謝罪は適当なものではなく、自らの非を認めてのものなので、おそらく適切である。
夏乃の言葉を聞いてリーヴェは短く舌打ちをし、自身の近くにあったコップを手に取った。
ぐいっと一気に水を飲んで、その勢いで机に置く。
視線は夏乃から、彼から見て後方のフェインに向けられた。
「話を戻せ」
「分かりました……まぁそんな訳でリーヴェの実力から、強力な魔の者が喚べる事は誰の目から見ても確定事項でした。ですが実際に来たのは、何の力もないただの人間の女性……それも子供です。何故こんな事になったのかですが――――――」
フェインは再び立ち上がり、ワゴンから今度はクッキーと皿を手元の机に置いて座り直した。
夏乃の目の前には、空の皿が一枚と、それぞれ違う色や模様をまとっているクッキーが数枚乗っている皿が置かれた状態だ。
「このクッキーで例えながらお話しますね。視覚的に説明した方が分かりやすいかと思いまして。……では、今から言う通りにクッキーを運んでくださいね?」
フェインは夏乃を見てそう言った。
夏乃は少し緊張気味に短く返事をした。
「いいですか、あなたの手は喚ぶ者が発動する術です。あの空の皿は僕らの世界です。そしてクッキーは魔の者、魔の者が乗っている皿が異世界……だと思ってください。それからクッキーには一枚しか触れないでください。触れたものは必ず空の皿に移すこと」
「は……はい」
「では術よ。『喚ぶ者』クリス・フェインが命じます。かの『約ぶ者』アルベリク・ヨルダの欠ける才を補う才の『魔の者』を喚びなさい」
フェインがどこか楽しげな口調で高らかに告げる。
急に知らない名前が出てきて驚いたが、すかさずリーヴェが「父の名だ」と教えてくれた。
クッキーの中から一つ選んで移せという事だろうが、どれを選んで良いのか……そもそも例えなのだから、どれでも良いのか……と、夏乃が数秒クッキーの上で手を遊ばせた後にフェインをちらりと見る。
フェインはにこりと微笑んで頷いた。
やはりどれでもよさそうだ。
夏乃は黄色の装飾がされたクッキーを選び、空の皿に移す。
「はい、成功です。無事『術』の思い通りに喚べましたね」
そう言うとフェインは皿に手を伸ばし、今夏乃が移した黄色のクッキーをぱくりと食べた。
「では本番と行きましょう。術よ。『喚ぶ者』クリス・フェインが命じます。かの『約ぶ者』アルベリク・リーヴェの欠ける才を補う才の『魔の者』を喚びなさい」
今度はリーヴェの名を呼んだ。
最初以外特に別途指示はされていない。
先程と同じように夏乃が自由に選んでよさそうだ。
どれにしよう、と考えていると、クッキーの山の下の方にある綺麗な赤色の模様が描かれたものが見える。
ちょうどリーヴェの髪色のようだと思い、夏乃は赤いクッキーに狙いを定めた。
一枚しか触れてはいけないということなので、慎重に手を動かす。
「……あっ」
と、フェインが夏乃の手に別のクッキーを強引に渡してきた。
それは人の形をした、夏乃の世界にあるジンジャーマンクッキーのような可愛らしい見た目のクッキーだった。
クッキーの山にはそのクッキーはなかったはずだ、おそらくフェインが隠して持っていたものだろう。
クッキーには一枚しか触れないでください。
触れたものは必ず空の皿に移すこと。
夏乃はフェインの言葉を思い出して、空の皿に人形のクッキーを置いた。
カラン…とクッキーが置かれる音が響く。
クッキーが落ちる音が終わってからも、この空間にしばらくの沈黙が続いた。
「……僕の術はいつも通り、正常に、約う者に合った魔の者を喚ぼうと発動していました。そこに別の術、異世界へ飛ばす術が干渉し、タイミング悪く僕の術と衝突したのです。……結果、リーヴェの能力とは無関係のあなたが来てしまった」
フェインは皿の上の人形のクッキーを見ながらそう言う。
温度を感じない言い方に、怒っているように夏乃は思った。
何に対しての怒りだろう。
自らの術を邪魔された事だろうか。
それとも英雄になり得るリーヴェに相応しい相棒を喚べなかった事だろうか。
「お前がさっき言った、禁断の秘術と悪意がこいつを飛ばしたというのは?」
リーヴェが尋ねた。
「簡単な事ですよ。彼女の世界では異世界の存在すら一般論ではない。それなのに何故彼女に対して転移の術を使ったのか」
「……私に、どこかへ行って欲しかった……」
「そう。それも一時の衝動ではない、鬱陶しいというレベルでもない。とても長く強く、あなたを目の前から消したいと思っていたのでしょう。術は形式を整えただけでは作用しません。術に慣れていない者が使うなら、相当強い『気』が必要ですからね」
夏乃は思わず下を向く。
指先から、体全体が冷えていくのを感じた。
おそらく他者から見れば顔も青ざめているだろう。
そんな表情を、今日初対面の彼らに悟られたくはない。
(なんで……私、気付かないうちに誰かを……)
直近で思い当たるのは、翼だった。
告白の返事をすぐにしなかった、もしかしたら朝に来ていたメッセージの返事で傷付けてしまったのかもしれない。
そこまで考えたが、夏乃は「違う」と自身の考えを否定した。
(フェインさんは長く強い気持ちって言っていた。きっと翼じゃない)
しかし夏乃は今まで順調に歩んできた自負があった。
人付き合いで表立ったトラブルは起こしたことがない。
学校の成績も努力している上に結果も付いてきているし、非行に走ったこともない。
何も思い当たる節がない。
「記憶の中で犯人探しをしても意味がありませんよ。ご自身の世界に戻ってからにしてください」
フェインが告げる。夏乃が顔を上げた。
窓から入る陽が橙色に光り、一日の終わりを予告し始めた。




